将棋世界に続いてNHK将棋講座のreviewを行なう。「将棋世界」と比較すると「NHK将棋講座」は一般向けの趣が強く記述は端的である。タイトルや段位は当時のものを採用している。今回も引用が大半で著作権のポイントとなる主従関係は逆転しているが,著作権を侵害する意図は全くなく,この雑誌が連綿と価値ある知見を提出し続けていることを紹介する。また,私のサイト全体で見た時にはこの問題点はクリアできているというのが私の認識である。面白いと思ったなら原本を参照して欲しい。
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NHK将棋講座2014年5月号
「久保九段 これも師匠から直接聞いた話なのだが,「君は本当に将棋の才能がなかった」とよく言われた。確かにそうだろう,19枚落ちで勝てない私に才能があったはずもない。ただその後に「でも飽きずに延々と同じことができる才能はあった」とも言われた。」
私にとっての将棋文献の継続的講読は専門職における適性の論考と同義である。
NHK将棋講座2014年5月号
「観戦記・小倉克洋 丸山忠久VS郷田真隆 後日,郷田と電話で話した。「終わった直後はフワフワした感じだったが,いただいた花を見ていると喜びが湧いてくる。若いときはいくらでもチャンスがあると思っていたけれど,最近はちょっと縁がないのかと思い始めていた。前期の羽生戦も,だいぶ良かったのに逆転されて,もどかしい思いがあった。受け取ったトロフィーには,46年前に優勝した師匠の名前(大友昇九段)も刻まれていて嬉しかった。来期もまた頑張りたい。」
準優勝の丸山は,終局後の談話がふるっていた。「昔はファンの方におめでとうと言われることが多かったが,この頃は頑張ってくださいが多くなった。今日は負けはしたけど,指したい手がさせたので悔いはありません。」」
チャンスを活かすことは重要だ。管見の限りではビジネスも稼げる時に稼いだ方が良いという知見で一致している。したいことはできる時にする,という考えに到達した時,私は人生について考えた。そして,美味しいものを美味しいと思える時に食べ,行きたい場所に行けるうちに行く人生にすることに決めて現在に至る。
NHK将棋講座2014年6月号
「色紙では,もう一つ,心に残っている場面がある。花村先生が何十枚と色紙を書かれておられるとき,そばにいた後援者の方が「先生は一枚一枚,随分と丁寧に書かれますね」と言われた。私もそう思っていた。その言葉に花村先生は「書くほうは何十枚でも,受け取るほうは一枚だから」と,答えられた。この花村先生の言葉の重みは,年齢を重ねるほどに感じる。すごい言葉だと思う。」
私は同意する。色紙を書いたことはほとんどないが,大学教員という職は程よい緊張感がある。間違った知見をレクチャすればそのまま学生が誤解することになるし,寝坊すればそのまま学生の時間を潰してしまう。キャリアを開始した時はかなり緊張したし,慣れた今でも幾分か緊張する。
NHK将棋講座2014年8月号
「畠山鎮七段 時は流れて34歳のころ弟子志願の手紙があった。10歳の斉藤慎太郎(現五段)だった。いつもなぜかスター棋士ではなく私の指導対局を受けにくるので知っていた。すでに大人の大会で入賞を重ねていたのだが,私は谷川浩司九段に「こんな幼い子供の師匠になる自信がない」と相談した。谷川先生は「子供なりに考えて手紙を出したのだから縁を大事にして引き受けたらいいよ」と優しくおっしゃった。奨励会幹事時代に何人かの棋士に私も同じセリフを言って感心されたが,私の言葉ではないことをここに白状いたします。」
先輩の言葉は貴重であると同時に,「考えて手紙を出したのだから」という思考がポイントだ。たまに受け取る研究者や大学院生からの問い合わせは,考えて連絡してきていることを考慮する。時に応答が面倒なこともあるが,丁寧に対応している。
NHK将棋講座2015年1月号
「内藤九段 それは私が形勢を損なって,もう勝負を諦めかけた時であった。いつもは様子をちらっと見て帰っていくのに,その日は廊下から立ったままじっと私の盤面を見つめて動かない。嫌だなぁと思っていたが,師匠の姿からふと感じるものがあって座り直した。
負けだと思っていた局面に勝負手が残っていたのだ。気づいたおかげで,私はこの勝負を拾った。師匠は私が座り直した時,以心伝心なったと見て立ち去った。厳しく言えば,これは助言にあたるかもしれない。だから内緒の話にしてほしい。」
内藤九段の文章はやはり面白い。
NHK将棋講座2015年1月号
「自戦記・森下卓 将棋は,持って生まれた運と才能に大きく影響されるが,それと並ぶほど,強くなりたい,勝ちたいと言う情熱が大きい。情熱を失ったら終わりである。私の情熱は死んでいた。」
繰り返すが,私にとっての将棋文献の継続的講読は専門職における適性の論考と同義である。また,心理学研究では研究環境および研究の継続が重要だと私は考えている。
NHK将棋講座2015年1月号
「都内のとある居酒屋にて。「棋士はみんな記憶力がいいって?そんなの人によるとしか言いようがない。佐藤さん(康光九段)が目隠し将棋で5面指しやってたけど俺は無理だねえ。例えば冷蔵庫をパッと開けるでしょ。閉めるでしょ。それでどこに何があったか答えろって言われても,全然わからない自信がある」
自信がないことに妙に自信満々なのは渡辺明二冠。でもですよ,大好きな競馬の話になると「15年前の有馬記念の3着馬は〇〇だった」なんて言うふうに記憶力が良くなるのはなぜ?
結局のところ,棋士は総じて凝り性だから,興味があるものに対しては驚異的な能力を発揮する。しかしそれ以外は力が入らず,覚えられない。そういう解釈でよろしいんでしょうか。」
興味深い知見である。
NHK将棋講座2015年2月号
「豊川孝弘のパワーアップコラム 同期入会の羽生さん,佐藤さん,森内さんがプロになってバリバリ大活躍しているのを横目で見ているわけなので,彼らと自分を比較して辛くなったりもしました。」
ビッグネームが近くにいると考えることは多そうだ。
NHK将棋講座2015年3月号
「谷川九段は考慮中,右手で扇子を持っていることが多い。以前,「手拍子で刺さないために右手の上に左手をおいて考えるようにしている」と話されている記事を読んだ。細心の注意を払い,扇子を持つ手にも関係があるのかもしれない。」
セルフコントロールの知見である。
NHK将棋講座2015年7月号
「畠山幹事のメッセージ 「将棋が絶対に強くなる勉強法はありません。だけど,強くなるかもしれない勉強法ならいくらでもあります。」
将棋の勉強法には正解がない。将棋文献では師匠と弟子の関係に関する文章がいくつも提出されているが,師匠から全く指導を受けずにプロになりタイトルを取る弟子がいれば,師匠から指導を受けてもプロになれない弟子もいる。
NHK将棋講座2015年8月号
「糸谷哲郎竜王 タイトルを取ってからは,イベントに出演することが増えました。解説の仕事も増えています。昔はお客さんの反応を見ないと話せなかったんですが,スタジオでの無観客の解説に慣れてきましたね。昔は対話をしていたけど,解説ができるようになってきたということですかね。」
説明と対話は異なるというこの知見は以前に別のブログでもフィーチャーした。講義形式は講義者に知識と説明能力が求められる一方,対話形式はそうでもない。ただ,だからといって講義形式が優等で対話形式が劣等というわけではない。また,講義形式で話ができない人は,論理が不足していると私は認識している。
NHK将棋講座2016年2月号
「屋敷九段 16歳で四段になり,18歳の時に棋聖を獲得できました。現在もタイトル獲得の最年少記録として取り上げていただく機会が多く,嬉しく思います。最近は棋士全体のレベルが上がり,完成度の高い若手棋士が増えてきました。競争が激しくなったことで,この記録は簡単には破られそうにないのは幸いです。」
のちに藤井二冠がこの記録を更新した。
NHK将棋講座2016年11月号
「木村八段 私の将棋は受けが強いと評していただくことが多いです。攻め駒を攻める展開になることが多く,それが受けのイメージにつながっているのかなあと思っています。とても名誉なことではありますが,実は攻めることの方が好きなんです。」
木村九段の受け将棋が「攻め駒を攻める」タイプであることは将棋ファンならお馴染みである。
NHK将棋講座2016年11月号
「対局が終わってから,糸谷に聞いた。「本局もそうだが,渡辺竜王は糸谷さんの得意戦法を避けまくっている印象がある。気になりませんか?」と。
糸谷の回答は明快だった。
「竜王戦の時はちょっと考えました。でも,もともと何をやっても渡辺先生のほうが力は上。負けているのは実力の問題であって,戦法の問題ではありません」と。」
NHK将棋講座2016年12月号
「木村一基八段から,藤井猛九段への質問
Q プロも感心する構想がどうして浮かぶのか不思議でなりません。きっかけやコツなどを教えてください。
A 藤井システムは最後の勝負手でした。当時は振り飛車が絶滅の危機に迫られていましたから。大袈裟に聞こえるかもしれませんが,私も棋士生命が断たれるかどうかの瀬戸際でした。必要に迫られて仕方なくというのが正直な理由です。
振り飛車の魅力のひとつに美濃囲いの堅さがありますが,居玉で仕掛ける藤井システムはそれを放棄するんですから。まして居玉で戦うなんて,よほどの追い込まれ方ですよ。居玉で戦わざるを得なかったというのが藤井システムの真相です。実際に危機感や本気度は,他の棋士よりかなり高く考えていたと思います。」
NHK将棋講座2017年2月号
「郷田真隆王将,自らを語る 私が今まで指した将棋で一つ局面を挙げるとしたら,王座戦で丸山さん(忠久九段)と対局した1局(2013年5月17日)です。
中略
桂を渡すと△8六桂▲同歩に△7七歩成で自玉が詰まされる際どい状況でしたが,銀を捨ててから▲2三歩が,我ながら会心の手順でした。鮮やかに収束した将棋で,棋士人生で一番の寄せと行っていいものだと思っています。初見でこの寄せを発見できたのは大きな喜びでした。ですが,誰も褒めてくれずさみしかったので,ここで披露します(笑)。」
NHK将棋講座2017年3月号
「加藤一二三九段,谷川浩司九段を語る 詰め襟姿で初々しい藤井四段を見ていたら,谷川さんと初めて対戦した時のことを思い出しました。谷川さんも藤井四段と同じくデビュー戦で,まだ中学生でした。
その将棋はテレビ対局で行われ,私が谷川さんのひねり飛車に圧勝したのです。印象深かったのが終局後の感想戦でした。谷川さんは「照明が明るかったので」と言ったのです。私は特別明るいとは思わなかったけれど,実に率直で好感が持てました。普通の状況だったらもっといい将棋が指せたと言っているわけです。私は当時,すでにタイトルを獲得していたので貫禄を示したわけですが,谷川さんの発言は強気で頼もしいと思いましたね。」
NHK将棋講座2017年3月号
「私と谷川さんといえば,以前に席次問題がありましたね。谷川さんに名人を奪われた翌年の対局で,私が上座に着いたことがありました。谷川さんは後日,専門誌に寄せた自戦記で「私の座る席がなかった」と書かれていたので,ご存知の方も多いことでしょう。
その対局は1984年の第23期十段戦のリーグ戦でした。当時の私はすでに十段を獲得した経験があり,いわば十段リーグは常連です。一方で谷川さんがリーグ戦を戦うのは初だったと記憶しています。ですので十段戦では私が先輩と認識していましたので,上座に着いてもいいのではないかと思ったのです。私の実績のない棋戦だったら,何のためらいもなく下座に着いていたでしょう。
谷川さんの自戦記を読んで反省したところもありましたが,後の号に読者から「どちらの言い分もわかる」といった投稿がありました。現在は席次の順位が規定で決まっていますので,こういったトラブルは起きませんが,当時はあいまいなところもよしとされていたのです。もちろん過去のことですし,私と谷川さんに遺恨はありません。」
加藤九段の知見である,加藤九段は規定等に厳密なので,規定がなく曖昧さが存在した当時はこのような行動を採択していた。
NHK将棋講座2017年4月号
「文・森充弘 千田翔太VS佐藤康光 「これだけ変わってしまう人もめずらしい」(森内)というほど佐藤の棋風が変化したのも,きっかけは戌年の羽生善治三冠だった。佐藤は自著で,30代になって対羽生戦で大きく負け越したことが棋風改造の発端になったと書いている。」
NHK将棋講座2017年5月号
「文・松本哲平 橋本崇載VS佐藤和俊 2年前の準決勝では二歩を打つという衝撃的な敗戦に終わった橋本。さぞショックを受けたことだろうと思っていたが,そのあとさまざまなメディアで取り上げられ「一歩千金,二歩厳禁」という名言とともに,知名度を上げるきっかけにしてしまったのには驚いた。転んでもタダでは起きないところが橋本らしい。当時,局後の取材で「これからが楽しみです」と不敵に語っていたことを思い出す。」
「トップ棋士たちの苦戦が続いた中で異彩を放ったのが康光だった。新人王戦優勝の増田康宏四段をはじめ,斉藤慎太郎七段,千田翔太六段,佐藤天彦名人といった若い先代の代表格を次々に破った。解説の羽生三冠は「豪腕と言いますか,研究熱心な若手を相手に力でねじ伏せていくのが印象的」と感心する。
それを聞いた康光は「大雑把な感じに聞こえますが,私なりに研究を重ねて繊細の指し回しを心がけていたんですがね」と苦笑するも,「豪腕という響きは嫌いではないです」と言ってニヤリとした。」
将棋界ではこのような間接的なやりとりによる交流が存在する。なお,「何何と言いますか」という表現は,羽生九段が時折使っていた表現であり,インスパイアされて他の棋士が現在もしようしている。思考しながら話す話法として有用なのかもしれない。
NHK将棋講座2018年3月号
「菅井の奨励会時代の話になったのは,本局の対戦相手である畠山鎮七段が,菅井にとっての奨励会幹事だったからだ。
「よく怒られました(笑)。奨励会の日に将棋世界を読んでいたら怒られましたね。『そんなのは家でもできる。奨励会間にいる間はここでしかできない勉強をしろ。強い人の対局の空気を吸え』と。他の先輩棋士に言われても”あなたには言われたくない”と感じることもあるじゃないですか。でも畠山先生の説教は素直に受け入れることができた。それは畠山先生が自分自身にも厳しいスタイルで奨励会員の手本となる行動を示されていたからだと思います」」
NHK将棋講座2018年4月号
「本局のあと,渡辺とこんな会話をかわした。日本将棋連盟会長の佐藤康光九段の話題になり,「康光さんは平日,長時間の勉強は難しいですよね」と渡辺が言う。会長職は激務だ。本人に聞くと「平日は勉強できない」と言うが,成績を落としていないのだ。渡辺は「将棋の勉強って何なんでしょうね」とぽつりと漏らし,内容や時間などで試行錯誤していると語った。話の内容が湿っぽくなったからか,「まあ,勝つしかないんだけれど」と明るく述べ,最後にも「でも,どうしたらいいかわからん(笑)」とオチをつけた。」
NHK将棋講座2018年5月号
「山崎隆之八段インタビュー
--自由奔放な山崎隆之将棋ですが,羽生戦の観戦記に,空中分解しないよう,しっかり陣形を組んだとありました
山崎 ようやく衰えを認めました。脳内盤の駒が空中を滑るように飛んでいたのが,今は一手一手,ぱちぱちとしか動きません。それでも戦えているのは,考えや戦い方が変わったからでしょう。
残された時間が少ないからこそ,勝負への執念は昔よりあります。若手時代は,振り駒が終わってから作戦を考えていたけど,いまはあらかじめ戦略を練っています。
以前は将棋に強いほうが勝負に勝つ,勝負と将棋の力は一つのものと思っていました。現在はそれを分けて,要素を組み合わせて考えています。とにかく,持っている武器を使うしかない。それは小細工でカッコ悪いと思っていたけど,余裕はもうないです。」
認知能力の変化の例示である。自発的に涵養したわけではない「持って生まれた能力」とでも言うべき能力は,衰えた時にどのように対処するのか難しい。走りが早い人になぜ早く走れるのかと聞いてもよく分からないことがあるし,部分的に分かったとしてもその人にしかできないことが影響していることがある。プロゲーマーの世界でも同様で,アドヴァイスのひとつに「ボタンを押せ。」というものがある。ボタンを押さないことには勝てないが,いつどのように押すかは認知能力や運動能力に依存する。「すごい人はすごい」と言ってしまうと身も蓋もないが,世の中身も蓋もないことがある。
NHK将棋講座2018年8月号
「文・井出隼平 井出隼平VS近藤誠也 最後の王手ラッシュは届かないことを自覚しつつも,投了が敗着となった実戦を何度も見たことがあるので一応指してみただけである。無駄な王手を続けるうちに心の整理ができてきた。」
NHK将棋講座2018年9月号
「文・上地隆蔵 大石直嗣VS丸山忠久 話は変わるが,丸山がとある健康食品のCMに起用されたと話題だ(具体的な商品名を書けないのがもどかしい)。公式戦で長年愛用していたのが抜擢の決め手という。考えてみると,対局の時固形物を口にして栄養補給をするという,現代プロ棋士の慣習を確立させたのは丸山かもしれない。昔の棋士は,将棋連盟から出されるお茶だけだった。それから森鷄二九段が2リットルのミネラルウォーターを持参し,夜戦に備える戦いを流行らせた。今ではペットボトルの水やお茶は標準装備。その上でチョコレートや飴玉など,糖分補給のアイテムを持参する棋士が増えた。
丸山は熟考中に出る知恵熱を覚ますために,額にシートを貼り付けたこともあった(これも具体的な商品名を書けないのがもどかしい・・・)。将棋に少しでもプラスになると思えば,自分流を徹底するのだ。ちなみに,この日の丸山はNHKから出されたお茶だけ。額を見ても何もくっついていなかった。」
「文・大川慎太郎 佐藤康光VS行方尚史 そもそも佐藤は有力と見られている作戦から逃げることはない。「もし避けたら,その戦法が優秀と認めることになりますから」と以前に語気を強めて語っていた。何という負けず嫌い,そして頑固さか。だがそれが佐藤将棋を支えているのである。」
将棋界では,格上と指すことを「教わる」と表現したり,最新形に精通した棋士と最新形で対局して負けて学ぶことを「授業料を払う」と表現したりする。
NHK将棋講座2019年4月号
「藤井聡太の最年少四段昇段コメントを求められた折,「将来,檜舞台で対戦できることを楽しみにしております」と述べたことに対して,「それは実現すると思いますか」と藤井の地元,中日新聞の記者が羽生にたたみかけた時の返事がファンの間に波紋を呼んだ。羽生は「藤井さんがどうこうより,自分がそれまで一線で踏ん張っていられるかということのほうが重要です」と語ったからだ。この発言当時の羽生は,王位,王座,棋聖の三冠を保持していたわけで,藤井の急激な台頭とあまりにも対照的に見える弱気なコメントと受け取られたからだ。その点を改めて質すと,クスッと笑みを返した後,こちらの胸のつかえがストンと落ちる答えをくれた。
「30歳以上のタイトル戦って,将棋界の歴史を振り返ってもそうそうないことですよね。南(芳一現九段)-大山(康晴十五世名人)の棋王戦(平成元年の第15期。南棋王25歳に,大山が66歳で挑戦した)ぐらいのものじゃないですか?それだけ離れていると,一般棋戦なら対戦することがあるとしても,タイトル戦の番勝負でというのは非常に難しいことなんです。私自身,年下の立場では経験がありませんし,ましてや年上の立場でというのは想像もしていませんでした。あのコメントは,単純にそういう意味でお答えしたものです」」
今では勢力図が変わっている。将棋世界の知見と合わせて興味深い。
NHK将棋講座2019年5月号
「年頃の少年たちが大人に混じって切磋琢磨する世界なので,将棋以外にもギャンブルや酒など魅力的な脇道はたくさん用意されているが,「名人候補」と認められた人間にはそうした誘惑がなぜかかからない。
谷川浩司がそうだったし,羽生善治もそう。古くは,中原誠も,入会して半年もしないうちに,周囲から自然と別格扱いをされていたと伝えられている。将棋界の,誇るべき伝統の一つだ。」
そのような伝統が確たるものとして存在するならば良いことである。私は最近,才能がさほどない人は横道でお茶を濁す中で面白いことができると考えている。
NHK将棋講座2019年11月号
「「僕の将棋はあのときから大きく変わりました」と,渡辺自身がその境目を鮮明に実感したのが,平成15年の第51期王座戦だった。19歳,史上3番目の若さで挑戦権を獲得し,羽生善治に挑んだ初めての番勝負の経験。
「羽生さんはこんなところまで考えているんだという驚きと発見の連続。あの体験は感動的でした。四段になりたての頃だって,弱くてどうしようもないという将棋では決してなかったと思うのですが,あの王座戦五番勝負以前と以後では明らかに将棋の質が違っています。それがわかるので,昔の自分の将棋を並べようとは思いません。」
渡辺名人の知見である。この王座戦のバックステージ情報は「将棋の渡辺くん」でもフィーチャーされている。
NHK将棋講座2020年4月号
「文・岩田大介 斎藤慎太郎VS永瀬拓矢 永瀬がよく揮毫する言葉に「不倒」がある。それが永瀬将棋そのものだ。これほど倒しにくい相手はそういない。
かつて永瀬は敗勢と思われる将棋を逆転した後,関係者から「ソフトの評価値は大差で負けだったよ」と聞かされた。永瀬の答えは「でも詰むまでは負けではないので」。ソフトと人間の評価は必ずしも一致しない。1手で逆転する3000点もある。とはいえ,「詰むまでは負けない」と笑いながら話す永瀬には恐ろしさすら感じた。本局も粘り強く攻める。」
これが永瀬王座の強さを支える思考だと私は考える。
NHK将棋講座2020年8月号
「盤外では競馬や麻雀など,”課外授業”に精を出し,どこか才能を持て余しているような感があった。また,若手では珍しく淡白な一面もあり,そんな阿久津を一喝したのが8歳年上で当時六段だった鈴木大介九段。鈴木九段は阿久津の才能を高く評価していたひとり。弟分の不甲斐なさをもどかしく感じていたのだろう。
しかし,負けん気の強い阿久津は「私が目指しているのは羽生さんクラスの棋士であって,鈴木さんクラスではありません」と兄貴分の愛のムチを突っぱねてしまう。世が世なら暴言だ。
このエピソードは阿久津の結婚式で祝辞を担当した鈴木九段が明かしたもの。
「阿久津は現在,私より上のクラスで活躍しているので,彼のいうことは間違っていなかった」と期待する後輩の門出に花を添えたのは,まさしく愛の証しだ。」
私も阿久津八段と同じようなことを言うタイプである。
NHK将棋講座2020年11月号
「囲碁の名棋士,橋本宇太郎九段(本因坊など7大タイトル8期,87歳で亡くなるまで現役を貫いた)の名言に「囲碁は百年をつなぐ」がある。幼くは50歳年上の相手に教えを乞い,老いては50歳年下の若者と對局することによって,上下100年がつながるというロマンだ。谷川は「私も橋本先生のその考えに感銘を受ける年齢になりました」と,少しだけ照れたような表情を浮かべる。
谷川が想う「つなげられた人」とは,39歳年長の大山十五世名人だ。谷川が世に出た時には,時代は中原十六世名人のそれに入れ替わっていたが,大山十五世名人は50代以降も超一流の強豪棋士として絶大な存在感を放っていた。
「大山先生が50歳を過ぎても普通に勝っていたので(20代より50代の方が勝数が多かった!)歳を重ねても,それほど棋力は落ちないものだと思っていたんです。しかし,実際に自分がその年齢に達してみると,大山先生が例外だったことがよくわかりました。」
思えば研究の世界もそうかもしれない。文献であれば数百年の時を超えて知見を次の世代に伝えることも簡単である。
NHK将棋講座2021年2月号
「やがて生み出す藤井システムは,羽生善治,森内俊之,佐藤康光ら先駆者たちの背中をとらえる切り札になった。時代を刷新した戦法の画期性について,後の永世七冠は「200年考えても思い浮かばない」と表現したことがある。
「変な意味ではなく,私が羽生さんなら同じことを言うかもしれない。羽生さんには特別な武器はいらなくて,200年思い浮かばなくても困らないはずだから。」」
藤井猛九段の見解である。藤井システムは誕生秘話からバックステージ情報から関連情報まで何度も美味しく味わえる。
NHK将棋講座2021年3月号
「文・内田晶 永瀬拓矢VS木村一基 永瀬は第68期王座戦で初防衛を果たした。3期目のタイトル獲得となり九段に昇段。局後の取材では触れられず,翌朝に感想を聞くと「大変名誉なことではありますが,特に意識はしていません。私は肩書きで将棋の内容が変わるタイプではありませんので」との答え。勝負への貪欲さは少しも変わらない。」
これも永瀬王座の強さを支える思考だと私は考える。
NHK将棋講座2021年4月号
「今回の取材は2時間に及んだ。「私はオープンですから」と,何を聞いても包み隠さず,すぐにわかりやすい答えを返してくれた千田だが,最後の質問にはちょっと間を置いた。なぜ強くなりたいのか。強くなってどうしたいのか。
「なぜ強くなりたいのかは,簡単にいうと,AIを使ったことで人間の能力が上がったことを示したいからです。ただ,例えばバッグギャモンではすでに語られているので,将棋でもう一回示しても,例が増えただけかもしれません。さらに,今後の社会で人間そのものが強くなることに意味があるのか,ソフトを使えば別に人間自身が強くならなくてもいいのではと言われてしまうかもしれないです。その二つは疑問点としてありますね」
タイトル獲得や棋戦優勝などという目標は持っていない。棋力向上のみに意識は向いており,そのツールはAIだとはっきりしている。勝負師というよりは研究者のように見えるそんな千田が,最後にある棋士の名を挙げた。やはりあの人だけは意識しているようだ。
「強くなれば結果は伴うものだと思います。今は藤井聡太さんというものすごく強くて若くて,あらゆる意味で一つ抜けたすごい人がいます。こちらの棋力が上がったとしても,向こうの棋力も上がれば一緒なので,今後は戦績が残せるかという不安はありますね。」」
千田七段の知見である,「AIを使ったことで人間の能力が上がったことを示したいから」とは至言だ。人間が車と競争してもあまり意味はなく車を活用して人間がどのような知見を手に入れるのかが重要であるのと同じように,AIを手にした人間がどのような将棋を指せるのかが重要だ。