経済の演習として寄附をした。経済の演習で得た利益を使う取り組みである。高校の同級生の画伯が,同じく高校の同級生Oの父親が言った言葉として教えてくれた「お金は使い方が重要である。」という命題を私はずっと考えている。人間は生命としては死んだら終わりである。命のあるうちに何かしたい。人間は,地球規模で貢献したり,家族を愛しんだり,あるいは,オーディナリな人間として人類の歴史から見れば何も影響のない人として生きたりする。研究者なら当該領域の発展に寄与したり,技術が社会に応用されたり,引用され続ける研究をしたりすることができれば名誉なことである。人生は正解がない。そんな中,経済の演習をする中でビジネスや投資のビッグネームが寄附をすることを見聞しているうちに,寄附に興味が出た。そして,今回自分でも行なった。
寄附すると私はどのような心理学的状態になるのか知りたいという外発的動機(extrinsic motivation)によって寄附をした。私は寄附によって感謝されたいわけではないし,恩を着せたいわけでもないし,そう思われたら仕方ないがでしゃばりたいわけでもないし,優越感を得たいわけでもない。寄附は名乗り出る方法も黙っておく方法もある。私は演習として寄附したのでここに書き留めている。したいからするという内発的動機(intrinsic motivation)によるものではない。経済の演習として獲得できる知見があるという外発的動機によるものである。
2021年5月,熊本県人吉市にいる学部時代の同級生が,学部で同じコースに所属したメンバーが入っているLINEグループでサポートを募っていた。同級生は令和2年7月豪雨による災害の復興にコミットしていた。夏に行なう子どもを対象にしたイヴェントのアイディア,イヴェントの物品,資金が必要だと言った。災害から1年が経っても地域の子どもたちに対する心理学的サポートや生活必需品以外のQOL(quolity of life)を向上させる物品が必要だと言った。もちろん,災害の直後には国や自治体の支援や研究機関による専門職の派遣もあったが,月日が経って満足できる状態にはないということだった。
同級生はメッセージでイヴェントのアイディアや励ましの言葉を送っていた。私が所属したコースは学生が40人いた。LINEグループには30人が参加していた。私が4年前に人生の暇つぶしでFacebookで懐かしい人と交流をした際,学部のコースの同級生とも繋がった。同級生が店長をしている店で飲み会もした。LINEグループはそれをきっかけに構成されたグループである。アクティヴではない期間があったので,私は例のごとくグループから脱退していた。ある時用があって再度加入し,現在に至る。私は災害当時はグループに入っていなかったのでやり取りを知らない。同級生の話では,災害直後はCOVID-19の関係もあり,物資の渋滞とも言える状況が発生していたらしい。日本は不安が高い国と言われるので,災害派遣や復興支援に対して滞りのない手続きを求める意見がフィーチャーされやすいが,その意見を含めて客観的に議論する余裕がある国であるということを評価しても良いと私はいつも思う。
翌朝起きて一連のメッセージを見ると,諸諸のやり取りの中に「淡野はシーサー作りのキットを送ってくれても良いよ。」みたいなことがなぜか名指しで書かれていた。私は一連のやり取りがどうなるのだろうと興味深く見守ることにしていた。サポートの要求および提供は複雑かつデリケートである。サポートの要求自体が図図しいと見なされる可能性があるし,求められた側は可能な範囲で何かしたいと思ったり間接的に断ったりする。実際,何かしたいけど難しいと返事している同級生がいた。何も言わなければ良いところでもあるが,何か言いたくなるのが人間である。そんな中,一夜明けて気にかけて読んでみると,何故か自分の名前が出ていた。
私は返答する前に,シーサー作りについて詳しく調べるべく,理論的前提(theoretical premise)がないうちはインタヴューや自由記述による予備調査が重要であるという心理学研究の基本に忠実になり,国際通りの土産物屋を数件まわってシーサー作りについて尋ねた。この数件回るという行動が重要である。沖縄では知らないくせに「これが業界の結論だ。」みたいなスタンスで断言する人が少なくない。事務手続きでも電話で問い合わせをした際に,電話を受話した専門ではない担当者が私見で回答して拗れることが珍しくないのが沖縄である。沖縄ではその拗れを解消することが業務のひとつと言っても過言ではない。私の行動はそのような人間に振り回される悲劇を回避する行動である。店のおばあ複数名に聞いて集約できた知見は「シーサー作り体験」や「シーサーの色つけ体験」はあるが「シーサー作りキット」的サムシングはほとんどないということだった。私は自分ではしたことはないが,リゾートホテルなどで「シーサーの色つけ体験」はよく目にする。沖縄では雨が降ると観光客的には興ざめである。ドライヴやマリンスポーツやビーチアクティヴィティや景勝地訪問が主体の沖縄観光で雨が降ると面白くない。なんとかお茶を濁すためにシーサーに色をつけたり珊瑚の欠けらや貝殻を使ったアクセサリを作ったりすることになる。ウェブで調べると,確かに「シーサー作りキット」的サムシングはあまり販売されていなかった。あったとしても,漆喰や粘土でシーサーを作る子どもには難易度が高いものだった。また,別にシーサーではなく犬や猫にでもなってしまう点も面白くない。粘土でも何でも良いなら文具メーカーに支援を要請した方が早い。ひとりのおばあに,あらやち(荒焼き)あるいは素焼きのシーサーに絵の具で色つけをすると良いと言われた。なるほどと思った。
以上の情報を踏まえ,私は10万円なら支援できるから資金かシーサーか選んでくれ,と同級生に応えた。経済の演習で手にした小銭から寄附することにした。ただ,なぜその金額にしたのかは分からない。前澤友作が10万円を贈与しているという情報でプライミングされていたのかもしれない。経済の演習の過程で行なった確定申告で,一般的に申告が不要な収入金額が20万円という定めを知ったことが,お金の計算で10万円を単位に考えることを方向づけていたのかもしれない。1万円は少ないが100万円はやり過ぎだと考えたのかもしれない。特別定額給付金も10万円だったが,プライミングされたのだろうか。
加えて,私はいくつか情報を提供した。私はその時,トラウマ(trauma)とPTSD(post traumatic stress disorder)について原稿を書いていた。公開前だったが情報の価値はあるのでグループ内で留める前提で原稿を共有した。また,ひと通り検索したところではe-Radや学内の研究費では募集はないようだったが,大学の事務で復興支援向けの研究費があるか確認する約束をした。これについては「なしよりのなし」感があると断っておいた。そして,授業で被災地の子どもが楽しめるイヴェントを学生に立案させる課題を課してアイディアを送る約束をした。
私は援助行動は心理学の知見として知っているが,それ以外は詳しくない。ユダヤ教やキリスト教やイスラム教や仏教における慈悲や隣人愛や喜捨や布施の概念は曖昧にでも知っているし,団結を好む思想も知っているし,海外旅行や在外研究で国や地域の宗教による行動の差異性を実際に見てきたものもある。ただし,私自身は宗教的コミットメントはないし,宗教は理解するものではなく信じるものだと言われることも「理解」しているし,団結の前提に馴染みがない。目の前の困っている人を無条件に助けることを躊躇することは少なからずある。人助けをして気持ち良い気分になることに思考を巡らせるタイプである。人に助けられてその人に他者を助ける機会を提供したとは思わない。悪いことをしたいと思っているわけではないが,善だけで生きれるとは思わない。徳を積むという感覚がないわけではないが,それに必死な人を見て気の毒だと思う。私のことを品行方正だと評価する人はたぶんいない。援助交際は援助をする側もされる側も経験がない。「パパ活」をしている学生は知っているが,パパになったことはない。旧宗主国がかつての植民地に口出しし,時に意図的に混乱を招くようなことをし,その混乱を鎮圧することで支援だと主張する行動を都合の良い支援だと思う。寄附もヴォランティアも興味があるが,何だかよく分からない理由と明確な設備不良で焼失した文化財の復興に寄附をする気は起きない。復興に関連する予算を使っていろいろな悪行をはたらく行政や企業や一般人の気持ちは心理学的には説明できるが個人的にはどうかしていると思う。
世界では解決すべき課題も議論すべき命題もたくさんあり,私は自身の知り得たものに限定して支援することをどのように考えるべきか分からずに生きてきたし,今でも分からないままであるが,今回は経済の演習で手にした資本のごく一部を経済の演習として寄附したくなった。復興と言っても,そもそも地方にある街の復興はどこまでが復興でどこまでが本来的状況なのか分かりにくい。世の中には焼け太りという言葉もある。熊本県人吉市の子どもが楽しんでいる間に,世界のあちこちで死んでいく紛争地帯やスラムの子どものことをどうのように考えるべきなのか私は分からない。目の前のことから始めるという行動の一般化可能性を考えてしまうために,目の前のことから始めることさえ熟慮してしまう。沖縄では「子ども食堂」が一般的になったが,一般的であることを考え直した方が良いと私は考えている。また,当事者になってことの重大さに気づき,関与の程度によって行動が変容するのが人間である。私は小学校で生徒会のようなサムシングに加入していた関係で,年に数回,校内で募金活動を行なっていた。私が通った小学校は,児童数は1,000人ほどだった。教職員と児童合わせて毎回概ね2万円くらい集まった。ひとり20円ほどの募金額である。阪神淡路大震災が起き,募金と支援物資を集めることになった。募金額は27万円になった。鉛筆やノートを中心とした筆記用具は教室2部屋分集まった。このような露骨な行動の変容を,私は都合が良いと思う。そのため,少しためらいがある。さらに,このブログの読者はご存知の通り,私は恩を着せるのが好きではないし,社交辞令も面倒臭いと思ってそれから距離をとる人生を歩んできた。過去に異動の際に学生に寄せ書きやプレゼントをもらったことがあるが,もらった帰り道で破棄したことがある。学生はそれを見て文字通り絶句していた。一定期間保管して人目につかないところで処分すべきというマナーも私には煩わしいということを心理学の知見をふんだんに織り交ぜて学生に説明し,そういうものはいらないと断った上で学生が渡してきたのだから,私は直線的に処分したまでである。それで怒り出すなら気持ちの押しつけである。もちろん,世の中はそういう押しつけの応酬でもある。だが,私はそういうものから離れて生きているのでやめて欲しいし,怒り出すのはお門違いである。
同級生はシーサー60セットと絵の具10セットがあれば助かると言ったので,別の日に那覇市壺屋の窯元やシーサー専門店をまわってどのようなイヴェントが開催可能か聞いて回ると,あらやちあるいは素焼きのシーサーにアクリル絵の具で色つけをすると子どもが喜ぶだろうことが分かった。壺屋で著名な窯元では陶工から丁寧な説明を受けた。アクリル絵の具なら耐水性も高いので屋外に置けることに加え,色落ちした時は塗り直せば良いと教えてもらった。その店のシーサーは手作りで高価だが,国際通りでは型を用いた量産型が出回っているので安価だとも教えてくれた。自身の店の売り上げだけを考えるのではなく,業界のことを考える余裕があるのは著名な窯元の懐の深さである。とあるシーサー専門店では「このシーサーなら色を塗れるんじゃない?」くらいの対応だったが,購入するかどうかも分からない人間にはその程度の説明で終わることはポッシブルである。
高校の同級生の画伯にアクリル絵の具についてメッセージで問い合わせると,絵の具はアクリルガッシュが良いことが分かった。ウェブで検索してどのような絵の具があるのか調べても,概要の把握程度の知識レヴェルにしか到達できない。美術の世界にいる画伯に実際の知見を聞くと,アクリルガッシュが良いと言われた。確かに,オンラインショップを参照するとアクリルガッシュが上位に出てくる。
シーサーは簡便なシーサーを購入することにした。シーサーはサイズと価格が相関する。5cmほどならペアで1,000円から2,000円程度で販売されているが,それではイヴェントで子どもが色つけするには小さすぎる。だからと言って,10cmから15cmにするとペアで5,000円から10,000円になる。重ければ送料も高くなる。沖縄からの送料は馬鹿にならない。シーサーは口を開けているのは雄で閉じているのは雌だと初めて知った。また,基本はペアで並べるが,屋根の上に載せるシーサーは口を開けた雄単体であることも学んだ。安いものは輸入品もある。オンラインストアで購入できるシーサーは意外と高価だし素材が不明なものもある。調べ出すと奥が深い。せっかくならジョートーなやちむんにしたい。妙案がないかと考えて大学で教授に尋ねると,人間国宝の孫を紹介してもらえた。電話で問い合わせると提示した条件では難しいと言われた。1セット10万円ならまだしも,60セットのシーサーを10万円で注文することは流石にできないようだった。ただし,修学旅行などの団体旅行対応に実績があるむら咲むらなら情報があるだろうと教えてもらえた。そこで,むら咲むらに問い合わせると,シーサーの絵つけ体験で使っている陶器のシーサーの販売をしていることが分かった。
そして,私はシーサー62セット124体とアクリル絵の具のアクリルガッシュ10セットを贈った。シーサーは予備で2セット多く送った。問題なければ見本として使えば良い。シーサーは怖い表情のものだと子どもが怖がる可能性がある。学部生の頃,ヴォランティアをしていた小学校の1年生が,ミッキーマウスが怖いと言っていたことを思い出した。言われてみれば瞳孔が開いていて穏やかならぬデザイン(?)ではある。その小学生はきょうだいでディズニーランドに行ったらしいが,瞳孔が開いたネズミが主役のディズニーランドは楽しめなかったらしい。USJはキャラクタがなんだかよく分からないことが幸いして何度も遊びに行っていた。「こういうものだよね」と大人が認識している概念と,子どもがシンプルに視覚的に知覚するものは異なることがある。シーサーはものによっては魔除けを兼ねて威厳を込めた意匠となっている。そこで,シーサーは比較的ポップなデザインであることに配慮した。余ったお金はイヴェント時に配布するお菓子に充てることにした。
大学の事務で復興支援向けの研究費があるか確認すると,やはりなかった。災害直後ならあっただろうと言われた。仕方ない。
学生から募集したイヴェントのアイディアは,ブレインストーミングで出たアイディアを記述したホワイトボードの写真を送った。感染症対策や災害復興イヴェントへの配慮が足りないものがあったが,そこは同級生のインスピレイションとなっていればそれで良い。
COVID-19の蔓延により夏に予定されたイヴェントは延期され,その後,来年の暖かい時期に開催されることになった。大量のシーサーは保管されており,引き続き半年ほど待機することになる。開催予定がかなり先に延期となったのは,九州の盆地である人吉市で寒い冬に沖縄関連のイヴェントをするのは興醒めということもあるが,このシーサーをきっかけに同級生が沖縄関係の団体にオファーをした結果イヴェントの規模が想定より大きくなり動きが鈍ったことが影響している。私としてはシーサーを贈って満足したのでそれ以降の事情は詳しく知らない。開催されれば何かしらの連絡はあるだろう。
今回の寄附で得た知見は,寄附をする過程で楽しく充実した時間を過ごすことができることと学部の同級生のビヘイヴィアを参照することができたことだった。国際通りや壺屋で店を訪ね歩いた時は,時間を忘れて見聞した。人間国宝のことを詳しく調べる機会にもなった。人脈の重要性を知った。自分で自分に使う10万円とは違った。学部を卒業して15年が経ち,私も同級生もそれぞれに教諭や保育士や民間企業の従業員や専業主婦や居酒屋の店長という人生を歩んでいるが,観察可能な限りでは,LINEグループで共有されるメッセージは15年ほど前の学部時代の授業やヴォランティア活動における議論とあまり変わらなかった。私は教育学部の問題点のひとつに,関係指向的なやり取りを行う中で経済合理性やコストベネフィット関係への配慮が低下することがあると思っている。同級生と足並みを揃えて近視眼的なコストを下げるために手間暇をかけて資源を食い潰すという問題がそこにはある。時に工夫してアレンジすると勝手なことをするなという面倒なやっかみ的サムシングさえ投げつけられる。日本の教育行政や文教云云は共産的価値観があるので教育学部では仕方がない。15年が経っても,私としてはまどろっこしい部分が依然としてあった。誤解のないように書いておくが,私は同級生の行動が悪いと言っているわけではない。そういうものだと書いているだけである。同級生には女性が多く,心理学,脳科学,および,生物学的に他者との協調を重視する関係指向的な行動を採択することは自然なことだと受容できる。それに,同級生は個別のメッセージのやり取りも並行して行なっており,目的指向的なやり取りはそちらで具体的にしていたと考えられる。実際,イヴェントの期日に関わりなく,同級生のサポートの要求から数日で,現地の子どもが喜びそうな物品が届けられていた。
「淡野,10万円で何を偉そうに言っているんだ。」と言われるかもしれないが,私は私の好きにやっただけである。私は「たまには寄附もいいじゃない。」という感覚である。自分も寄附をしたいと思う人は連絡をくれれば私から同級生を紹介する。寄附と言っても控除の対象となるような形式ではなく,カジュアルに知人を通して被災地の子どもに贈り物をしただけである(まだ子どもたちには渡っていないが)。災害復興は国や自治体がすべき規模であるし,企業や経済のビッグネームのような寄附など私にはできない。海外では私的な寄附で大学やビルが建つ。私が在外研究で滞在したAustraliaのUniversity of New South Walesは,研究棟ひとつひとつに寄附をした人の名前がついていた。大規模なものはそのような人たちがやれば良い。COVID-19の影響で人的流入は制限されるが,日本にはスーパーヴォランティアという分かったような分からないような人助けのプロ的存在もいる。私は身の丈にあった自分の好きなことをしただけである。繰り返しになるが,私は寄附によって感謝されたいわけではないし,恩を着せたいわけでもないし,そう思われたら仕方ないがでしゃばりたいわけでもないし,優越感を得たいわけでもない。感謝は要らないが,寄附された側は何かしたいと思い,人によっては何かせずにはいられないことを私は心理学的に理解している。数年前とはこの点において変容している。そのため,感謝しないでくれとは言わなかった。漫画やアニメや映画で,悪党が急に味方について「これは俺自身のためにしたまでだ。」みたいなことを言うシーンがある。私はその描写と合致するものを感じている。呉越同舟という故事がある。それも人生を以って同意できるようになってきた。
私はここ数年,人生は自身が充実し満足する中で他者も満足できればなかなか良さそうだ,と考えるようになった。寄附も私のビヘイヴィアと同級生の要求が合致した。他にも,学生との関係などでウィンウィンの関係であれば良いではないかと思うようになった。目的志向も関係志向も全て詰め込んで,幸福の最大化ができれば面白い。これまでも楽しい人生を歩んできたが,より明るく楽しく充実した人生が展望できている。