ゼミ生が,幼稚園における教育実習の前にランチに行きましょうと言うので,3年生ふたりとカフェに行った。私がここ数日のブログに島根大学教育学部附属中学校における教育実習の朝礼終礼のコメントなどを書いているのは,実習部会における私の役割が島根大学教育学部附属中学校の朝礼終礼指導となっている関係からであって,ゼミの3年生はみな幼稚園で実習を行う。島根大学教育学部の幼稚園実習は,小学校実習および中学校実習とはイレギュラーしていて,島根大学教育学部附属幼稚園で展開するのではなく,松江市内の私立および公立幼稚園で展開する。実習園の変遷についてはいろいろな事情があるが,ここで書くことではない。
AQUAで走り,宍道湖畔にある梢庵でランチと日光浴を楽しんだ。ゼミ生にはカフェに詳しい学生がいた。いくつかあったカフェの候補のうち,「そのお店は以前に訪れたことがあります。先生がパンケーキを食べるなら,私はパフェを食べます。」とか「あのお店は微妙ですよ。オススメはできません。」といった情報を提供してくれた。梢庵は,全員が初めて訪れるカフェだった。宍道湖を望むテラスに魅かれて私が行くことを提案した。私の観察では,松江の天気は,霞んだり日差しが弱かったりする日が多い。気象庁の定義では,快晴は雲量1以下,晴れは雲量2以上8以下,曇りは雲量9以上と定義されている。松江は,冬以外は特別曇るということはなく,普通に晴れる。ただ,晴れであっても,雲量が7や8の日が多いように思われる。湿度が60%を超える日が多い関係で,日差しは弱い。この弱い日差しの恩恵は,紫外線量の少なさと関連し,POLAが発表する「美肌県グランプリ」における3年連続のグランプリ受賞に繋がっている。カフェに出掛けたこの日の前1週間ほどは,松江は雨が降りがちだった。また,私は,島根大学教育学部附属中学校における教育実習の朝礼終礼や免許状更新講習で天気や脳内物質の話をしていた。それらの影響か,私自身,晴れた日に日向でのんびりしたいと思った。この日は快晴で,テラス日和である。ゼミ生のひとりは,実習で使う名札を刺繍していた。幼稚園実習では,名札にも趣向が出る。3人で写真を撮った。カフェにおける3ショットは鼎談の趣で,フジテレビ番組「ボクらの時代」のようだった。3人それぞれの近況を報告したり,宍道湖畔にある出雲縁結び空港で離着陸する飛行機が飛んでくるのを待ったりした。とにかくテラスが気持ちが良かった。サンドイッチ,オムレツ,ポテトグラタン,ウインナー,サラダ,フルーツ,デザート,ドリンクが楽しめるランチは美味しかった。コーヒーは,なめらかな口当たりの中に確かな香りとコクがあった。
梢庵を後にし,AQUAで街中にあるカフェモルフォ+ベリーベリースープという「どうしてそうなった?」という感じの名前のカフェに向かい,スイーツを楽しんだ。「最強のホットケーキ」という何が最強なのかよく分からないが,絵本「しろくまちゃんのほっとけーき」によってホットケーキに関連する情報に積極的になっている私はそれを食べたいと思っていた。このホットケーキは,厚さが5cm以上ある。調理に15分ほどかかる。そのためか,オーダーは14時以降という決まりがあった。ランチタイムにオーダーが入ると,キッチンは大変なのだろう。私たちは,梢庵でランチと日光浴に2時間ほどかけた後,カフェモルフォ+ベリーベリースープを訪れた。ゼミ生はパフェやケーキを食べた。最強のホットケーキを食べて満腹になった。日光浴で気分が高揚した私たちは,写真を撮っては笑った。もちろん,面白いから笑ったのであるが,やったことと言えば,次のような何でもないことである。ひとつは,3人で映った写真を確認したゼミ生が「あー,良い写真じゃないですか。」と言ったことに対して,私がたまに外在化させる悪い癖である「良い写真だけど,3人の距離が,親密度が高いわけではないが決して仲が悪いわけではないですよ,と主張しているみたいだなあ。」と言わなくてもいいようなことも言ってしまうビヘイヴィアを展開し,学生が応えて「なんでそんな事を言うんですか。まあ,そう言われてみればそうですけど。」と言うやり取りだった。ひとつは,学生が「あれこれ「盛れる」カメラアプリでかわいく撮りましょう。」と提案したが,その学生のiPhoneでselfieするためにはもうひとりの学生が持つスタンドにもなるケースを付けたiPhoneに立て掛ける必要があり,iPhoneにiPhoneを立て掛ける際に何度ももたついて可笑しくなったことだった。他には,タイマーを用いた高速連写のシャッター音がただただ面白いとか,「私は高速連写中がんばって表情を変えました。」と言うので確認すると,確かに表情は変わっていたが特段面白くなかったことが面白いとか,「ボクらの時代」のような鼎談風景を撮ろうとすると誰かが照れて上手く撮れない,といったことだった。恋愛の話をした。こんなことを考えた。有斐閣心理学辞典を参照すると,欲求(need)は,人間が内外の刺激の影響を受けて行動を駆り立てられる過程(動機づけ)を表す言葉のひとつで,行動を発現させる内的状態と定義されている。日常生活では,欲求は多義的に認識されている。食,睡眠,性に関する欲求は,主要な欲求として知られる。これらの欲求によって生起するビヘイヴィアは,多様である。「食欲はあるけど食べるのは面倒だ。」,「性欲はあるけどセックスがしたいわけじゃない。」というように,オプションはいろいろある。欲求の充足は,学習に依存する部分がある。原始反射(primitive reflex)のひとつである吸啜反射(sucking reflex)があるが,これは欲求によるものではなく,食に関連する生得的な反射である。長じてからの食事も,睡眠も,性行動も,学習によって内在化される部分がある。
楽しい時間だった。日差しを浴びて気持ちが良かった。5時間以上しゃべって楽しかった。よくしゃべったものである。
PROFILE
淡野将太 たんのしょうた 博士 (心理学) Syota TANNO, Ph.D.
淡野将太です。専門は心理学です。琉球大学で准教授を務めています。
Syota TANNO Ph.D., Associate Professor, University of the Ryukyus, Japan.
淡野将太です。専門は心理学です。琉球大学で准教授を務めています。
Syota TANNO Ph.D., Associate Professor, University of the Ryukyus, Japan.
Curriculum Vitae
Curriculum Vitae (Updated 3 April 2025)
Academic Degrees
2011年3月 広島大学 大学院教育学研究科 教育人間科学専攻 博士課程後期 博士 (心理学)
(Ph.D., Psychology, Hiroshima University, March 2011)
2008年3月 広島大学 大学院教育学研究科 心理学専攻 博士課程前期 修士 (心理学)
(M.A., Psychology, Hiroshima University, March 2008)
2006年3月 奈良教育大学 教育学部 教育・発達基礎コース 心理学専攻 学士 (教育学)
(B.A., Education, Nara University of Education, March 2006)
2002年3月 奈良県立畝傍高等学校
(Unebi Senior High School, March 2002)
Careers
2016年4月 - 琉球大学教育学部 准教授
(Associate Professor, University of the Ryukyus, April 2016 - Present)
2023年4月 - 2024年3月 University of New South Wales, Visiting Fellow
(Visiting Fellow, University of New South Wales, April 2023 - March 2024)
2014年4月 - 2016年3月 島根大学教育学部 講師
(Lecturer, Shimane University, April 2014 - March 2016)
2011年7月 - 2011年9月 University of New South Wales, Visiting Fellow
(Visiting Fellow, University of New South Wales, July 2011 - September 2011)
2011年6月 - 2014年3月 広島大学大学院教育学研究科 助教
(Assistant Professor, Hiroshima University, June 2011 - March 2014)
2011年4月 - 2011年5月 広島大学大学院教育学研究科 研究員
(Research Associate, Hiroshima University, April 2011 - May 2011)
2010年3月 - 2010年5月 University of New South Wales, Visiting Fellow
(Visiting Fellow, University of New South Wales, March 2010 - May 2010)
2008年4月 - 2011年3月 日本学術振興会 特別研究員 (DC1)
(Research Fellow of the Japan Society for the Promotion of Science (DC1), April 2008 - March 2011)
Affiliations
日本心理学会
(Japanese Psychological Association)
日本教育心理学会
(Japanese Association of Educational Psychology)
Research Interests
教授学習,宿題
(Teaching and Learning, Homework)
攻撃行動,やつ当たり
(Displaced Aggression and Triggered Displaced Aggression)
Publications
淡野 将太 (準備中). 知能 中尾 達馬・泊 真児・田中 寛二 (編著). 心理学 (pp.xx-xx). ナカニシヤ出版 (Tanno, S. (in preparation). Book chapter. In Japanese.)
淡野 将太 (準備中). 動機づけ 中尾 達馬・泊 真児・田中 寛二 (編著). 心理学 (pp.xx-xx). ナカニシヤ出版 (Tanno, S. (in preparation). Book chapter. In Japanese.)
淡野 将太 (2025). 小学校における宿題と成績の関連から指導と評価を考える 指導と評価, 843, 56-57. (Tanno, S. (2025). Homework, academic achievement, guidance, and evaluation in elementary school. Educational Evaluation and Guidance, 843, 56-57. In Japanese.)
Tanno, S. (2024). Sabbatical experiences and beyond: Enrichment and integration in psychology research and education. Bulletin of Faculty of Education University of the Ryukyus, 105, 71-74.
Urauchi, S., & Tanno, S. (2024). Homework and teacher: Relationships between elementary school teachers' beliefs in homework and homework assignments. Japanese Psychological Research, 66, 290-301. https://doi.org/10.1111/jpr.12412
淡野 将太・中尾 達馬・廣瀬 等・城間 吉貴 (2023). 教員養成課程における入学前教育の実施と評価 琉球大学教育学部紀要, 103, 9-15. (Tanno, S., Nakao, T., Hirose, H., & Shiroma, Y. (2023). Pre-entrance education and self-evaluation of incoming university students. Bulletin of Faculty of Education University of the Ryukyus, 103, 9-15. In Japanese.)
淡野 将太・浦内 桜・越中 康治 (2023). 小学校教師の宿題研究に対する認識 琉球大学教育学部紀要, 103, 1-7. (Tanno, S., Urauchi, S., & Etchu, K. (2023). Homework research and teacher: Interview with an elementary school teacher on psychological homework studies. Bulletin of Faculty of Education University of the Ryukyus, 103, 1-7. In Japanese.)
淡野 将太・浦内 桜・越中 康治・Chuang Chi-ching (2022). 小学校の宿題量評定における学年考慮の重要性 琉球大学教育学部紀要, 101, 5-7. (Tanno, S., Urauchi, S., Etchu, K., & Chuang, C. (2022). Importance of consideration for grade levels on homework evaluation in elementary school. Bulletin of Faculty of Education University of the Ryukyus, 101, 5-7. In Japanese.)
淡野 将太 (2022). 心理学の学術誌論文の執筆指導 琉球大学教育学部紀要, 101, 1-4.
浦内 桜・淡野 将太・越中 康治 (2022). 小学校における宿題の内容に関する研究 琉球大学教育学部紀要, 100, 1-6.
Tanno, S. (2022). A descriptive review of research on peace education concerning Okinawa. Okinawan Journal of Island Studies, 3, 103-114.
淡野 将太 (2022). PTSDと戦争 池上 大祐・波多野 想 (編著). 島嶼地域科学を拓く――問い直す環境・社会・歴史の実践―― (pp.156-159). ミネルヴァ書房 (Tanno, S. (2022). Book chapter. In Japanese.)
淡野 将太 (2022). トラウマとPTSD 池上 大祐・波多野 想 (編著). 島嶼地域科学を拓く――問い直す環境・社会・歴史の実践―― (pp.151-155). ミネルヴァ書房 (Tanno, S. (2022). Book chapter. In Japanese.)
淡野 将太・浦内 桜 (2021). 琉球大学とUniversity of Guam間のCOILを用いた心理学教育 琉球大学教育学部紀要, 99, 45-48. (Tanno, S., & Urauchi, S. (2021). Psychology education via COIL between University of the Ryukyus and University of Guam. Bulletin of Faculty of Education University of the Ryukyus, 99, 45-48. In Japanese.)
浦内 桜・淡野 将太 (2020). 小学校教師の宿題を用いた学習指導 琉球大学教育学部紀要, 97, 271-274.
淡野 将太・波照間 永熙 (2020). 小学校における自己調整学習と学業成績の関連 琉球大学教育学部紀要, 97, 275-277. (Tanno, S., & Hateruma, E. (2020). Relationship between self-regulated learning and grade level in elementary school. Bulletin of Faculty of Education University of the Ryukyus, 97, 275-277. In Japanese.)
越中 康治・目久田 純一・淡野 将太・徳岡 大・中村 多見 (2020). 道徳の教科化と評価の導入に対する教員の認識 宮城教育大学教育キャリア研究機構紀要, 2, 83-91.
越中 康治・目久田 純一・淡野 将太・徳岡 大 (2019). 国民意識と道徳教育均質化志向及び道徳の教科化への態度との関連 宮城教育大学紀要, 54, 425-431.
屋良 皇稀・淡野 将太 (2019). 児童の登校を巡る意識に関する研究 琉球大学教育学部紀要, 95, 57-63.
淡野 将太 (2019). 人はなぜやつ当たりをするのか?その心理学的分析 論座, 2019年6月12日. (Tanno, S. (2019). Displaced aggression. Online media article. In Japanese.)
淡野 将太 (2018). ソーシャルメディアを用いた対人交流 琉球大学教育学部紀要, 93, 1-5. (Tanno, S. (2018). Interpersonal networking through social media. Bulletin of Faculty of Education University of the Ryukyus, 93, 1-5. In Japanese.)
淡野 将太 (2017). 遊びから見た幼児期の仲間関係の発達に関する心理学卒業研究指導報告 琉球大学教育学部紀要, 91, 1-8. (Tanno, S. (2017). Instruction report of graduation research on peer relationships and play in childhood. Bulletin of Faculty of Education University of the Ryukyus, 91, 1-8. In Japanese.)
淡野 将太 (2017). 幼児期におけるごっこ遊びの様相に関する心理学卒業研究指導報告 琉球大学教育学部教育実践総合センター紀要, 24, 45-52. (Tanno, S. (2017). Instruction report of graduation research on pretend play in childhood. Bulletin of Faculty of Education Center for Educational Research and Development, 24, 45-52. In Japanese.)
淡野 将太 (2016). 保育における主体性育成 平成27年度島根大学教育学部附属学校園研究紀要, 22.
淡野 将太 (2015). 心理学と幼児教育 島根大学教育学部附属幼稚園平成26年度実践集録, 37.
淡野 将太 (2015). 幼稚園教育における環境構成とモデリング 平成26年度島根大学教育学部附属学校園研究紀要, 15.
淡野 将太・内田 祐 (2015). 保育学教育としての絵本作成 島根大学教育臨床総合研究, 14, 167-179. (Tanno, S., & Uchida Y. (2015). Picture book construction for childcare education. Bulletin on Center for Supporting Education, Shimane University, 14, 167-179. In Japanese with English abstract.)
Tanno, S., & Isobe, M. (2014). Effect of a psychoeducational intervention on displaced aggression. Memories of the Faculty of Education, Shimane University, 48, 39-42.
Tanno, S. (2013). Using communication papers to facilitate interactive instruction. Hiroshima Psychological Research, 13, 239-242.
淡野 将太 (2013). やつ当たりの研究パラダイム 広島大学大学院教育学研究科紀要第三部 (教育人間科学関連領域), 62, 99-104. (Tanno, S. (2013). Research paradigm of displeced aggression. Bulletin of the Graduate School of Education, Hiroshima University, Part. Ⅲ (Education and Human Science), 62, 99-104. In Japanese with English abstract.)
Tanno, S. (2012). Classroom interaction and instructional design. Hiroshima Psychological Research, 12, 279-284.
Tanno, S. (2012). The effects of interpersonal relationships on triggered displaced aggression. Kazama Shobo. (Book publication, ISBN-13: 9784759919424)
Tanno, S. (2011). Taking over research styles and instructional modes of leading researcher. Hiroshima Psychological Research, 11, 333-338.
徳岡 大・山縣 麻央・淡野 将太・新見 直子・前田 健一 (2010). 小学生のキャリア意識と適応感の関連 広島大学心理学研究, 10, 111-119.
淡野 将太 (2010). 置き換えられた攻撃研究の変遷 教育心理学研究, 58, 108-120. (Tanno, S. (2010). Research on displaced aggression and triggered displaced aggression: A review. Japanese Journal of Educational Psychology, 58, 108-120. In Japanese with English abstract.)
淡野 将太 (2009). 地位が低い攻撃対象者に対するTDAに及ぼす関係性の調整効果 広島大学大学院教育学研究科紀要第三部 (教育人間科学関連領域), 58, 193-198. (Tanno, S. (2009). The moderating effect of relationships on triggered displaced aggression towards low-status targets. Bulletin of the Graduate School of Education, Hiroshima University, Part. Ⅲ (Education and Human Science), 58, 193-198. In Japanese with English abstract.)
淡野 将太 (2009). ひとりで遊んでいる子どもの社会的行動特徴――静的遊びについて―― 発達研究, 23, 107-114. (Tanno, S. (2009). Social behavior of children playing alone: In the case of solitary passive play. Human Developmental Research, 23, 107-114. In Japanese with English abstract.)
若山 育代・岡花 祈一郎・一色 玲子・淡野 将太 (2009). 5歳児の協働描画の成立要因に関する一考察――非再現的表現「お化けトラック」を取り上げて―― 学習開発学研究, 2, 51-60.
淡野 将太 (2008). 攻撃の置き換え傾向とTDAパラダイムにおける攻撃評定の関連 広島大学大学院教育学研究科紀要第三部 (教育人間科学関連領域), 57, 221-224. (Tanno, S. (2008). Relation between trait displaced aggression and aggressive responding in triggered displaced aggression paradigm. Bulletin of the Graduate School of Education, Hiroshima University, Part. Ⅲ (Education and Human Science), 57, 221-224. In Japanese with English abstract.)
淡野 将太 (2008). ひとりで遊んでいる子どもはどのように遊びを変化させるのか?――自由遊び場面における非社会的遊びの変化プロセス―― 発達研究, 22, 263-270. (Tanno, S. (2008). How do preschool children playing alone change over their play?: Change process of nonsocial play in free play. Human Developmental Research, 22, 263-270. In Japanese with English abstract.)
淡野 将太 (2008). 置き換えられた攻撃の誘発(TDA)に及ぼす挑発者および攻撃対象者の地位の影響 教育心理学研究, 56, 182-192. (Tanno, S. (2008). Status of provocateur and target, and triggered displaced aggression. Japanese Journal of Educational Psychology, 56, 182-192. In Japanese with English abstract.)
淡野 将太 (2008). 攻撃の置き換え傾向尺度(DAQ)日本語版作成に関する研究 教育心理学研究, 56, 171-181. (Tanno, S. (2008). Japanese version of the Displaced Aggression Questionnaire. Japanese Journal of Educational Psychology, 56, 171-181. In Japanese with English abstract.)
淡野 将太・前田 健一 (2007). 大学生とニックネーム ――ニックネームの由来とニックネームに対する感情について―― 広島大学心理学研究, 7, 311-314. (Tanno, S., & Maeda, K. (2007). University students and nicknames: The origins of nicknames and the feelings toward nicknames. Hiroshima Psychological Research, 7, 311-314. In Japanese with English abstract.)
越中 康治・新見 直子・淡野 将太・松田 由希子・前田 健一 (2007). 攻撃行動に対する幼児の善悪判断に及ぼす動機と目的の影響 広島大学大学院教育学研究科紀要第三部 (教育人間科学関連領域), 56, 319-323.
新見 直子・前田 健一・越中 康治・松田 由希子・淡野 将太 (2007). 大学生のアイデンティティ・スタイルとキャリア発達の基礎スキル 広島大学大学院教育学研究科紀要第三部 (教育人間科学関連領域), 56, 253-261.
淡野 将太・前田 健一 (2006). 自由遊び場面における幼児の非社会的遊びの変化 広島大学心理学研究, 6, 249-256. (Tanno, S., & Maeda, K. (2006). The change of non-social play of preschool children in free play. Hiroshima Psychological Research, 6, 249-256. In Japanese with English abstract.)
淡野 将太・前田 健一 (2006). 日本人大学生の社会的行動特徴としての甘えと文化的自己観の関連 広島大学心理学研究, 6, 163-174. (Tanno, S., & Maeda, K. (2006). The relations between amae as a social behavior of Japanese college students and cultural construal of self. Hiroshima Psychological Research, 6, 163-174. In Japanese with English abstract.)
越中 康治・江村 理奈・新見 直子・目久田 純一・淡野 将太・前田 健一 (2006). 幼児の社会的適応と攻撃タイプ(4) 広島大学心理学研究, 6, 141-150.
越中 康治・江村 理奈・新見 直子・目久田 純一・淡野 将太・前田 健一 (2006). 幼児の社会的適応と攻撃タイプ(3) 広島大学心理学研究, 6, 131-140.
越中 康治・目久田 純一・淡野 将太 ・前田 健一 (2006). 制裁としての攻撃に対する幼児の善悪判断に及ぼす損害の回復可能性の影響 広島大学大学院教育学研究科紀要第三部 (教育人間科学領域), 55, 237-243.
Courses
琉球大学
-大学院
--教育心理学特論
--教育心理学特論演習
-学部
--教育心理学
--教育心理学演習
--心の科学
--人間関係論
Other Interests
音楽
(Music)
将棋
(Shogi)
日光浴
(Sunbathing)
ビーチ,マリンスポーツ
(Beach Activities and Marine Sports)
旅行
(Travel)
写真
(Photograph)
Contact Details
Address: 〒903-0213 沖縄県中頭郡西原町字千原1番地琉球大学教育学部
(Education, University of the Ryukyus, Nishihara-cho, Okinawa, Japan 903-0213)
E-mail: syota[at]cs.u-ryukyu.ac.jp (please replace [at] by @)
2015-09-16
2015-09-15
免許状更新講習「幼児教育と心理学」
免許状更新講習の講師を初めて担当したので,関連事項を書く。講習の名前,講師を担当するに至った経緯,講習の構造,講習の内容,講習を終えた所感である。
講習の名前について書く。一般的に「教員免許更新講習」といった通称が用いられるが,文部科学省のサイトを参照すると,正式名称は「教員免許更新制」に関する「免許状更新講習」である。制度名に「教員」と付いているが,講習には「教員」は付かない。加えて,制度は「免許」を,講習は「免許状」を用いる。私は通称をなんとなく用いることによるコンセンサスのズレの生起を嫌う。そのため,諸諸の用語は可能な限り正式名称を使う。講師を担当することが決まってからは,「免許状更新講習」という名称を頑なに用いている。因みに,一般的に高等学校まででは「指導要領」および「指導案」という通称が用いられるが,これらの正式名称は「学習指導要領」および「学習指導案」である。「教員免許更新制」に関する「免許状更新講習」を「教員免許更新講習」と呼ぶ際には意味的差異性はほとんど生起しないが,「学習指導要領」および「学習指導案」を「指導要領」および「指導案」と呼ぶのは,児童生徒の「学習」の観点を漏らすことに繋がりかねないのでここは広く拘って欲しいと思う。少しややこしいから混乱しそうだ,という声が聞こえそうであるが,この差異性の分別はクリティカルなので曖昧にしてはいけない。
講師を担当するに至った経緯を書く。私は,免許状更新講習の講師は,できることなら担当したくなかった。それは,受講者の情報があまりにも限定的なためである。私は,双方向性を担保した授業を展開している。講義をしながら学生に理解を問う。心理学の実験の条件が多様になる時や,概念整理を失念すると研究内容が不明瞭になるトピックでは,説明の要所で「誰誰,この説明伝わってる?」といった趣の確認を入れる。また,説明の途中であっても,分からないことは確認して欲しいし,学術的クリティークがあれば他の受講生の利益にもなるのでできるだけ提供して欲しいし,関連情報を豊富にしたいと思えばシンプルな所感であっても提示して欲しい,そう考えている。教員という生身の人間が学生の面前でサムシングを伝えるという手法を大学が採用している以上,学生の反応に柔軟に対応できる点が長所のひとつであり,ヒューマンエラーが生起し得ることが短所のひとつである。短所を差し引いても直接教わる方がいいということを活かして欲しい。そうでなければ,私の講義を録画したヴィデオを始業とともに上映した方がよいことになる。ヴィデオであれば,ヒューマンエラーによる説明漏れはなくなるし,その日の気分や体調に左右される可能性も無くすことができる。そう考えるため,私は,学生の専攻や志向するキャリアや興味関心やひいては趣味まで,もちろん自己開示および自己呈示は学生の自由であるが,諸諸の情報を把握して授業を行う。その情報を頼りに,授業内容をアレンジし,キャリアに活かせる編集を行う。私はこれまで,質疑応答,グループワーク,学生の考察や所感の筆記および回収およびそれらを反映したアンサーの提示等を授業の中で展開してきた。助教時代には,同僚助教と相談したり,授業をそれぞれ観察して議論したり,ヴィデオを録画して反省会のようなサムシングも開催したりした。一連の活動を論文にまとめたこともある。1回だけの講義や授業や講演や講座は,それらの情報が得難い。得ることは不可能ではないが,困難である。加えて,免許状更新講習の受講者の中には,私のことを知っている人はほとんどいないと推測できる。著名な学者や名物教授であれば,「あの先生の話を聞いてみたいな。」と思わせことができる。そう思わせた時点で,受講者の動機や認知は講習にポジティヴに作用する。一方,私にはその力はほとんどない。そのため,できることなら講師は担当したくない。しかし,事は免許状更新講習である。昨年12月に,島根大学教育学部附属教師教育研究センターの先生が私の研究室に講師の依頼に来られた。私は,以上の理由を非常に端的ではあるが「かくかくしかじかで,断れる類のものであれば断りたいです。」とお伝えした。ただ,免許状更新講習は教育学部の多くの教員が講師を担当している。他学部の教員もいるし,教育委員会関係者も関与している。業務の一環と言ってもいい。担当すべきであることは自覚している。先生に聞けば,教員免許更新制はこれから先も継続することが見込まれている。大学教員を続けることを考えると,避けて通ることは避けた方がよい。私は事情に納得し,「初めてのことでもあるので,1コマだけ担当させていただきます。」と応え,講師を担当するに至った。講習は,「教育の探求・リニューアル」<幼稚園教諭向け>の一連の講習に位置付けられた。講習名は「幼児教育と心理学」とした。
講習の構造について書く。NHK将棋講座2015年8月号には,糸谷哲郎竜王の特集がある。そこには,将棋解説に関する糸谷竜王の考えが記されている。引用する。
「タイトルを取ってからは,イベントに出演することが増えました。解説の仕事も増えています。昔はお客さんの反応を見ないと話せなかったんですが,スタジオの無観客の解説に慣れてきましたね。昔は対話をしていたけど,解説ができるようになってきたということですかね。」
哲学を専門とする糸谷竜王が「対話」という表現を用いたことは興味深いが,それはそれとして,この文章に私は感心した。私自身,対話型の授業を展開していたことを自覚したのである。また,この夏,出張で東京を訪れ,社会学者のセミナーを聴講した。そのセミナーは,2時間で1つのアイディアを論考するものだった。配布資料はない。講師である社会学者は,自身が持つ講義メモのようなサムシングを頼りに,淡淡と話を展開した。私は感心した。そして,その姿勢を参考にしようと思った。大学教育を遡ると,学者である教員の研究姿勢諸般から得られるものをあれこれ獲得し,学生は学習を展開した。時が経ち,「分かりやすい授業」という耳触りだけは秀逸な授業が求められたり,「視聴覚教材を用いた授業」という十分条件を拡大する授業が求められたり,「学習者のニーズに合わせた授業」という学習者が授業なんて辞めてしまいましょうと言い出したらどうすればいいのか困ってしまうような授業が求められるようになった。私が学部に入学した年は2002年で,教授陣が各種メディアを用いて授業を展開することは当たり前だった。OHP(overhead projector)の時代はすでに終わっており,配布資料はもちろん,CDやVHSやDVD,スライドによるプレゼンテイション形式の授業が一般的になっていた。言語情報より図表情報が多い授業は珍しくなかった。コミュニケイションペイパーやリアクションシートと呼ばれる紙に授業における考察や質問や感想を紙に書かせて教授陣は回収し,評価や次回の講義に活用していた。在学中に国立大学は国立大学法人に移行した。国家公務員ではなくなったことに教育者としての矜持を削がれた教員がいた。私自身が大学で教えるようになってからは,自分が学んできた方法をそのまま援用するかたちで,上記のような授業を行った。テキストを指定し,ただただそれを読み込む授業,それに情報を付加するだけの授業は展開したことがない。しかし,糸谷竜王の文章で私は授業で対話していたことに気付くとともに,社会学者の論考で講師の説明力が高ければ資料の多寡は問題ではないと考えた。図表情報に甘えて説明能力の涵養を蔑ろにしてきた可能性を自覚する瞬間もあった。この夏,私は,自身の大学教育の来し方を振り返る機会を持ったということになる。私は,話を主体にする講習とすることにした。ただ,話すだけでは受講者もつらいと思う。そこで,トピックと写真を掲載したスライドを提示し,ホワイトボードを用いて説明しながら情報を書字することとした。メモを取る時には,私の書字が効果的だろうと考えた。
講習の内容について書く。昨年12月に依頼を受けてから,講習で話す内容をずっと考えてきた。講習をどのようなものにするかが,ずっと頭の片隅にあったと言える。私の認知機能をCPU(central processing unit)とするならば,CPUの数パーセントを「免許状更新講習で何を話すか」に割いていたと言える。是非話すべきことは論文や参考書や各種メディアを検索して情報を集め,面白そうなことを思いつけば所構わずiPhoneやMacBook AirやiMacでメモをし,学部教員と何か話すことがあれば,事のついでに講習のインスピレイションを得るように努めた。教員によっては,「手当が出るから免許状更新講習はいいですよ。」と提示していたが,私は手当は問題としていない。私は,依頼されて出張講義などをした経験がない。汎用的心理学的噺は実装していない。ひとくち話のストックはあるが,それを乱れ打ちするのは芸がない。噺家のように,洗練された古典落語のレパートリのようなサムシングを持たず,話芸はまだまだ稚拙だと思われ,場数の関係からどっしりと構える度胸は大きくなく,舞台勘も低い。人事を尽くすしかない。気張りすぎと思われるかもしれない。普段大学で教えている内容を提示すれば済むだろうと思われるかもしれない。私にとって今回の講習は初めての講習である。講習の概要や例年の雰囲気は島根大学教育学部附属教師教育研究センターの先生などから入手できたし,受講者の講習に対するニーズは事前調査結果の一覧が講師に周知されていたので掌握もできた。しかし,私が何かを提供する人となり,講習受講者が何かを受容する人となるだけの構造は面白くない。私もこの講習で少し欲張り,学びたいと思う。受講者は,34・35歳,44・45歳,54・55歳の幼稚園教諭が中心である。講習を通した反応や現場における情報を得たい。できる限りの工夫をしようと思った。大袈裟に聞こえるかもしれないが,これが私の本心である。講習では,心理学はどういう学問か,発達心理学の知見,幼児教育と心理学の関係,心理学的視点の社会への適応,島根大学教育学部附属幼稚園における心理学的な関与について話をした。Ho Chi Minhから帰国するフライトで得たベイマックスの知見や,心理学業界では現職教員に喜ばれるとされている発達諸諸の知見,心理学から幼児教育を見ることで浮かび上がる学術的問い,島根大学教育学部附属幼稚園における保育の話などをした。
講習を終えた所感について書く。講習は1コマ80分だった。私は,80分話続けられるだろうかと不安だった。島根大学教育学部附属教師教育研究センターの先生は,「10分くらい早く終わっても問題ないですよ。その時間を活用して質疑応答を設けていただけると,受講されている先生方も喜ばれると思います。」と言っていた。20分余ってしまうかもしれない。私は,簡単なワークシートも用意し,「潰しが効く」講習を準備していた。結果としては,具体的な説明を心がけ,学びを向上させて欲しいという私の意を尽くす姿勢でしゃべりにしゃべり,所定時間ちょうどに講習を終えた。大学と比較すると,他の学校種は時間に厳しいと言われる。講習で時間を超過することは結構嫌われると聞いていたので,最後の数トピックは滑り込みセーフといった感じで時間内に説明を終えた。パンクチュアルを自負している私が超過しそうになったのは,不慣れだからこそである。普段の授業ではトピックとトピックの間に7秒から10秒ほど時間を取って認知の切り替えを促すが,今回の講習では5秒ほどしか取れず,受講者にはテンポが早く感じられたかもしれない。質疑応答の時間も取れなかった。最後の10分ほどは,ワイヤレスマイクの感度が悪く,部分的に声が途切れて聴き心地が悪かったかもしれない。いつもならマイク調整などはイージーだが,会場は島根大学出雲キャンパスの医学部看護学科で,こちらも不慣れで,調整するより講義をやり切ることに集中していた。受講者の声を広くたくさん聞きたかったが,ほとんどできなかった。それでも,話したいことは話せたと自負している。具体的な点数は付けないが,及第点は出せると思っている。
島根大学の「教員免許状更新講習のご案内」のパンフレットに関連してひとつだけ書く。このパンフレットには,「「明日使えない」講習もあえて開設!変化が激しい時代だからこそ「不易」も大事にします」と記載されている。毎年講習を担当されている教員に話を聞くと,「明日使えることは明後日使えなくなるかもしれないので,明日使えないようなことも講義するんです。」と言っていた。ほう。でも,それでは,先生が提示される話は使えないだけの話ではないですか,と言われることになる。一見使えないように見えるが思考の根本を支えるものであるとか,教育的文脈では注目されにくい原理的観点であるといった説明の方がよいのではないだろうか。国立大学法人の人文社会科学系分野再編が議論されている。教員養成系学部も定員削減などが全国的に課題となっている。教員養成系に限って言えば,再編論が上がった要因としては,教員養成に関して私立大学が手厚い制度を構築していることがあるように思われる。学生確保の観点から教員養成を展開しているのである。私立大学の手厚く自発的な展開に,国立大学法人はいかに違えることができるかを考える時期にさしかかったのだろう。そんな中,国立大学法人の人文社会科学系分野再編の議論では,反対意見として,文系分野は理系分野とは異なり,アチーヴメントを短期でコンスタントに提出できないため,長期的に評価する必要がある,というものがある。これでは,「じゃあ,10年後にちゃんと業績を提示してね。」と言われてその評価に応える必要がある。私には,居直りたいけど居直れない事情が分かる。ただ,それでは,理系分野に押されるだけ押された「ジリ貧縮小」となってしまう。いっそのこと,思い切りのよい居直りとして,「アチーヴメントとして提示できないことを担っている。」といった主張はどうだろうか。心理学,文学,哲学,政治学,社会学,理系と比較すると業績数は稼ぎにくいかもしれない。しかし,それぞれの学問分野が担ってきた学術的社会的歴史的役割は,そのまま伝承していく必要があると私は思う。また,少し余計かもしれないが,加えて私見を書けば,「理系据え置き文系再編」的発想は,かなり理系的であり,文系的涵養が不足しているように思われる。因みに,上述の通り,正式名称は「教員免許更新制」に関する「免許状更新講習」であって「教員免許状更新講習」ではないため,島根大学のパンフレットの記載も正式ではない。webで検索すると,全国の国立大学法人を筆頭として免許状更新講習が展開されているが,名称は「免許状更新講習」から「教員免許更新講習」や「教員免許状更新講習」と様様である。
講習の名前について書く。一般的に「教員免許更新講習」といった通称が用いられるが,文部科学省のサイトを参照すると,正式名称は「教員免許更新制」に関する「免許状更新講習」である。制度名に「教員」と付いているが,講習には「教員」は付かない。加えて,制度は「免許」を,講習は「免許状」を用いる。私は通称をなんとなく用いることによるコンセンサスのズレの生起を嫌う。そのため,諸諸の用語は可能な限り正式名称を使う。講師を担当することが決まってからは,「免許状更新講習」という名称を頑なに用いている。因みに,一般的に高等学校まででは「指導要領」および「指導案」という通称が用いられるが,これらの正式名称は「学習指導要領」および「学習指導案」である。「教員免許更新制」に関する「免許状更新講習」を「教員免許更新講習」と呼ぶ際には意味的差異性はほとんど生起しないが,「学習指導要領」および「学習指導案」を「指導要領」および「指導案」と呼ぶのは,児童生徒の「学習」の観点を漏らすことに繋がりかねないのでここは広く拘って欲しいと思う。少しややこしいから混乱しそうだ,という声が聞こえそうであるが,この差異性の分別はクリティカルなので曖昧にしてはいけない。
講師を担当するに至った経緯を書く。私は,免許状更新講習の講師は,できることなら担当したくなかった。それは,受講者の情報があまりにも限定的なためである。私は,双方向性を担保した授業を展開している。講義をしながら学生に理解を問う。心理学の実験の条件が多様になる時や,概念整理を失念すると研究内容が不明瞭になるトピックでは,説明の要所で「誰誰,この説明伝わってる?」といった趣の確認を入れる。また,説明の途中であっても,分からないことは確認して欲しいし,学術的クリティークがあれば他の受講生の利益にもなるのでできるだけ提供して欲しいし,関連情報を豊富にしたいと思えばシンプルな所感であっても提示して欲しい,そう考えている。教員という生身の人間が学生の面前でサムシングを伝えるという手法を大学が採用している以上,学生の反応に柔軟に対応できる点が長所のひとつであり,ヒューマンエラーが生起し得ることが短所のひとつである。短所を差し引いても直接教わる方がいいということを活かして欲しい。そうでなければ,私の講義を録画したヴィデオを始業とともに上映した方がよいことになる。ヴィデオであれば,ヒューマンエラーによる説明漏れはなくなるし,その日の気分や体調に左右される可能性も無くすことができる。そう考えるため,私は,学生の専攻や志向するキャリアや興味関心やひいては趣味まで,もちろん自己開示および自己呈示は学生の自由であるが,諸諸の情報を把握して授業を行う。その情報を頼りに,授業内容をアレンジし,キャリアに活かせる編集を行う。私はこれまで,質疑応答,グループワーク,学生の考察や所感の筆記および回収およびそれらを反映したアンサーの提示等を授業の中で展開してきた。助教時代には,同僚助教と相談したり,授業をそれぞれ観察して議論したり,ヴィデオを録画して反省会のようなサムシングも開催したりした。一連の活動を論文にまとめたこともある。1回だけの講義や授業や講演や講座は,それらの情報が得難い。得ることは不可能ではないが,困難である。加えて,免許状更新講習の受講者の中には,私のことを知っている人はほとんどいないと推測できる。著名な学者や名物教授であれば,「あの先生の話を聞いてみたいな。」と思わせことができる。そう思わせた時点で,受講者の動機や認知は講習にポジティヴに作用する。一方,私にはその力はほとんどない。そのため,できることなら講師は担当したくない。しかし,事は免許状更新講習である。昨年12月に,島根大学教育学部附属教師教育研究センターの先生が私の研究室に講師の依頼に来られた。私は,以上の理由を非常に端的ではあるが「かくかくしかじかで,断れる類のものであれば断りたいです。」とお伝えした。ただ,免許状更新講習は教育学部の多くの教員が講師を担当している。他学部の教員もいるし,教育委員会関係者も関与している。業務の一環と言ってもいい。担当すべきであることは自覚している。先生に聞けば,教員免許更新制はこれから先も継続することが見込まれている。大学教員を続けることを考えると,避けて通ることは避けた方がよい。私は事情に納得し,「初めてのことでもあるので,1コマだけ担当させていただきます。」と応え,講師を担当するに至った。講習は,「教育の探求・リニューアル」<幼稚園教諭向け>の一連の講習に位置付けられた。講習名は「幼児教育と心理学」とした。
講習の構造について書く。NHK将棋講座2015年8月号には,糸谷哲郎竜王の特集がある。そこには,将棋解説に関する糸谷竜王の考えが記されている。引用する。
「タイトルを取ってからは,イベントに出演することが増えました。解説の仕事も増えています。昔はお客さんの反応を見ないと話せなかったんですが,スタジオの無観客の解説に慣れてきましたね。昔は対話をしていたけど,解説ができるようになってきたということですかね。」
哲学を専門とする糸谷竜王が「対話」という表現を用いたことは興味深いが,それはそれとして,この文章に私は感心した。私自身,対話型の授業を展開していたことを自覚したのである。また,この夏,出張で東京を訪れ,社会学者のセミナーを聴講した。そのセミナーは,2時間で1つのアイディアを論考するものだった。配布資料はない。講師である社会学者は,自身が持つ講義メモのようなサムシングを頼りに,淡淡と話を展開した。私は感心した。そして,その姿勢を参考にしようと思った。大学教育を遡ると,学者である教員の研究姿勢諸般から得られるものをあれこれ獲得し,学生は学習を展開した。時が経ち,「分かりやすい授業」という耳触りだけは秀逸な授業が求められたり,「視聴覚教材を用いた授業」という十分条件を拡大する授業が求められたり,「学習者のニーズに合わせた授業」という学習者が授業なんて辞めてしまいましょうと言い出したらどうすればいいのか困ってしまうような授業が求められるようになった。私が学部に入学した年は2002年で,教授陣が各種メディアを用いて授業を展開することは当たり前だった。OHP(overhead projector)の時代はすでに終わっており,配布資料はもちろん,CDやVHSやDVD,スライドによるプレゼンテイション形式の授業が一般的になっていた。言語情報より図表情報が多い授業は珍しくなかった。コミュニケイションペイパーやリアクションシートと呼ばれる紙に授業における考察や質問や感想を紙に書かせて教授陣は回収し,評価や次回の講義に活用していた。在学中に国立大学は国立大学法人に移行した。国家公務員ではなくなったことに教育者としての矜持を削がれた教員がいた。私自身が大学で教えるようになってからは,自分が学んできた方法をそのまま援用するかたちで,上記のような授業を行った。テキストを指定し,ただただそれを読み込む授業,それに情報を付加するだけの授業は展開したことがない。しかし,糸谷竜王の文章で私は授業で対話していたことに気付くとともに,社会学者の論考で講師の説明力が高ければ資料の多寡は問題ではないと考えた。図表情報に甘えて説明能力の涵養を蔑ろにしてきた可能性を自覚する瞬間もあった。この夏,私は,自身の大学教育の来し方を振り返る機会を持ったということになる。私は,話を主体にする講習とすることにした。ただ,話すだけでは受講者もつらいと思う。そこで,トピックと写真を掲載したスライドを提示し,ホワイトボードを用いて説明しながら情報を書字することとした。メモを取る時には,私の書字が効果的だろうと考えた。
講習の内容について書く。昨年12月に依頼を受けてから,講習で話す内容をずっと考えてきた。講習をどのようなものにするかが,ずっと頭の片隅にあったと言える。私の認知機能をCPU(central processing unit)とするならば,CPUの数パーセントを「免許状更新講習で何を話すか」に割いていたと言える。是非話すべきことは論文や参考書や各種メディアを検索して情報を集め,面白そうなことを思いつけば所構わずiPhoneやMacBook AirやiMacでメモをし,学部教員と何か話すことがあれば,事のついでに講習のインスピレイションを得るように努めた。教員によっては,「手当が出るから免許状更新講習はいいですよ。」と提示していたが,私は手当は問題としていない。私は,依頼されて出張講義などをした経験がない。汎用的心理学的噺は実装していない。ひとくち話のストックはあるが,それを乱れ打ちするのは芸がない。噺家のように,洗練された古典落語のレパートリのようなサムシングを持たず,話芸はまだまだ稚拙だと思われ,場数の関係からどっしりと構える度胸は大きくなく,舞台勘も低い。人事を尽くすしかない。気張りすぎと思われるかもしれない。普段大学で教えている内容を提示すれば済むだろうと思われるかもしれない。私にとって今回の講習は初めての講習である。講習の概要や例年の雰囲気は島根大学教育学部附属教師教育研究センターの先生などから入手できたし,受講者の講習に対するニーズは事前調査結果の一覧が講師に周知されていたので掌握もできた。しかし,私が何かを提供する人となり,講習受講者が何かを受容する人となるだけの構造は面白くない。私もこの講習で少し欲張り,学びたいと思う。受講者は,34・35歳,44・45歳,54・55歳の幼稚園教諭が中心である。講習を通した反応や現場における情報を得たい。できる限りの工夫をしようと思った。大袈裟に聞こえるかもしれないが,これが私の本心である。講習では,心理学はどういう学問か,発達心理学の知見,幼児教育と心理学の関係,心理学的視点の社会への適応,島根大学教育学部附属幼稚園における心理学的な関与について話をした。Ho Chi Minhから帰国するフライトで得たベイマックスの知見や,心理学業界では現職教員に喜ばれるとされている発達諸諸の知見,心理学から幼児教育を見ることで浮かび上がる学術的問い,島根大学教育学部附属幼稚園における保育の話などをした。
講習を終えた所感について書く。講習は1コマ80分だった。私は,80分話続けられるだろうかと不安だった。島根大学教育学部附属教師教育研究センターの先生は,「10分くらい早く終わっても問題ないですよ。その時間を活用して質疑応答を設けていただけると,受講されている先生方も喜ばれると思います。」と言っていた。20分余ってしまうかもしれない。私は,簡単なワークシートも用意し,「潰しが効く」講習を準備していた。結果としては,具体的な説明を心がけ,学びを向上させて欲しいという私の意を尽くす姿勢でしゃべりにしゃべり,所定時間ちょうどに講習を終えた。大学と比較すると,他の学校種は時間に厳しいと言われる。講習で時間を超過することは結構嫌われると聞いていたので,最後の数トピックは滑り込みセーフといった感じで時間内に説明を終えた。パンクチュアルを自負している私が超過しそうになったのは,不慣れだからこそである。普段の授業ではトピックとトピックの間に7秒から10秒ほど時間を取って認知の切り替えを促すが,今回の講習では5秒ほどしか取れず,受講者にはテンポが早く感じられたかもしれない。質疑応答の時間も取れなかった。最後の10分ほどは,ワイヤレスマイクの感度が悪く,部分的に声が途切れて聴き心地が悪かったかもしれない。いつもならマイク調整などはイージーだが,会場は島根大学出雲キャンパスの医学部看護学科で,こちらも不慣れで,調整するより講義をやり切ることに集中していた。受講者の声を広くたくさん聞きたかったが,ほとんどできなかった。それでも,話したいことは話せたと自負している。具体的な点数は付けないが,及第点は出せると思っている。
島根大学の「教員免許状更新講習のご案内」のパンフレットに関連してひとつだけ書く。このパンフレットには,「「明日使えない」講習もあえて開設!変化が激しい時代だからこそ「不易」も大事にします」と記載されている。毎年講習を担当されている教員に話を聞くと,「明日使えることは明後日使えなくなるかもしれないので,明日使えないようなことも講義するんです。」と言っていた。ほう。でも,それでは,先生が提示される話は使えないだけの話ではないですか,と言われることになる。一見使えないように見えるが思考の根本を支えるものであるとか,教育的文脈では注目されにくい原理的観点であるといった説明の方がよいのではないだろうか。国立大学法人の人文社会科学系分野再編が議論されている。教員養成系学部も定員削減などが全国的に課題となっている。教員養成系に限って言えば,再編論が上がった要因としては,教員養成に関して私立大学が手厚い制度を構築していることがあるように思われる。学生確保の観点から教員養成を展開しているのである。私立大学の手厚く自発的な展開に,国立大学法人はいかに違えることができるかを考える時期にさしかかったのだろう。そんな中,国立大学法人の人文社会科学系分野再編の議論では,反対意見として,文系分野は理系分野とは異なり,アチーヴメントを短期でコンスタントに提出できないため,長期的に評価する必要がある,というものがある。これでは,「じゃあ,10年後にちゃんと業績を提示してね。」と言われてその評価に応える必要がある。私には,居直りたいけど居直れない事情が分かる。ただ,それでは,理系分野に押されるだけ押された「ジリ貧縮小」となってしまう。いっそのこと,思い切りのよい居直りとして,「アチーヴメントとして提示できないことを担っている。」といった主張はどうだろうか。心理学,文学,哲学,政治学,社会学,理系と比較すると業績数は稼ぎにくいかもしれない。しかし,それぞれの学問分野が担ってきた学術的社会的歴史的役割は,そのまま伝承していく必要があると私は思う。また,少し余計かもしれないが,加えて私見を書けば,「理系据え置き文系再編」的発想は,かなり理系的であり,文系的涵養が不足しているように思われる。因みに,上述の通り,正式名称は「教員免許更新制」に関する「免許状更新講習」であって「教員免許状更新講習」ではないため,島根大学のパンフレットの記載も正式ではない。webで検索すると,全国の国立大学法人を筆頭として免許状更新講習が展開されているが,名称は「免許状更新講習」から「教員免許更新講習」や「教員免許状更新講習」と様様である。
2015-09-12
ヴァレーボールのサーヴィスについて
FIVB World Cup Volleyball 2015が開催されているので,6人制ヴァレーボールのサーヴィスについてひとつ主張したいことを書いておく。私の主張は,どのプレイヤーも,もっとサーヴィスの精度を上げてほしい,ということである。ミスが多過ぎる。相手コートから大きく逸れてしまったジャンプサーヴィスに対する解説者のコメントを聞けば「狙って失敗してしまったのは仕方がないですね。」といった評価が聞こえてくる。私は中学3年間ヴァレーボール部に所属した。プレーしていると,ネットに引っかかって相手チームのコートに届かなかったチームメイトのサーヴィスに対して「オッケー,ドンマイ,次は入れて行こうぜ。」といった励ましなどが聞こえてくる。サーヴィスのミスに対しては,「しょうがないことだ。」,「まあ,いいってことよ。」といった趣がある。緩いと思う。私はこのコンセンサスにずっと争ってきた。コートの広さ,ネットの高さ,ボールのサイズ,これらはいずれも変わらない。サーヴィスを相手コート内に収められないこと,サーヴィスが相手コートに届かないこと,これらはシンプルに練習不足である。テニスであれば,風が影響してサーヴィスが流れることがあるだろう。しかし,ヴァレーボールは室内競技であり,場合に依っては空調の影響はあるがほぼ無風である。プレイヤーとしての経験から,ヴァレーボールは,体育館によって感覚が変わることを私は知っている。体育館の広さと天井高が変わることで,ボールとの距離感が変わる。ただ,これらにadjustすることは,プレイヤーとして当然のことである。ワールドカップ出場レヴェルでは,歯牙にもかからないことである。現行のルールでは,強烈なスパイクでも,巧みなフェイントでも,サーヴィスのミスでも,等しく1点が加点される。サーヴィスを蔑ろにしてはいけない。相手コート隅を狙って球速の速いサーヴィスを試合で打つのであれば,練習で鍛錬して成功できるようにするべきである。一か八かで打つものではない。私のサーヴィスはどうか?私はプレーしていた時,試合でサーヴィスを外したことがない。試合では,練習したようにサーヴィスを打ち,練習したようにサーヴィスを決めてきた。相手コート隅ぎりぎりのポイントやアタックラインとネットの間などに打ち分けていた。ネットインサーヴィスも得意で,狙えばネットに当ててイレギュラーさせて相手コートにボールを落とし,得点していた。私でもできるのであるから,ワールドカップに出場しているプレイヤーであればイージーだろう。もし,サーヴィスを打ち分ける私の能力が授かりし天才であれば,今すぐにでも日本代表に招集いただきたい。プレイヤーでなければ,特別講師でもいい。認知行動療法の知見を用いて,監督を筆頭にコーチからプレイヤーまで,サーヴィスに対する価値観を変容させて差し上げられると思う。そして,日本のヴァレーボールのサーヴィスの精度を上げ,勝利に貢献したく思う。日本男子の6人制ヴァレーボールは,身長の低さが弱点のひとつである。世界各国のプレイヤーがサーヴィスの精度を欠く中,日本だけその精度が上がれば,かなりの強みとなるだろう。冗談に聞こえるだろうか。ヴァレーボールのサーヴィスは,練習すれば上達する。失敗するのは,練習不足である。私は本気でそう思っている。
2015-09-11
学校教育実習4の実習生朝礼におけるコメント1
島根大学教育学部附属中学校における学校教育実習4の実習生朝礼に出掛けてコメントを提供した。朝礼および終礼におけるコメントは,実習部会に所属する学部教員がローテーションを組んで行う。先日の終礼からほどなくして朝礼に出掛けた。
松江は雨が続き気温の変化も比較的大きく,体調不良を自覚する実習生数に増加の兆しが見られたので,私は,「曇や雨ではセロトニン(serotonin)分泌量が低下するため気分は上がりにくい。週末にかけて晴れるので,行動調整に配慮して欲しい。」とメッセージした。脳内物質セロトニンの観点から言えば,人間の活動水準は日照に影響を受ける。日照時間が短かったり日照強度が弱かったりすると,やる気が出にくかったり不安を覚えやすくなったりする。心身の調子は相関する。曇や雨が続けば,身体の調子を崩すこともある。私のメッセージは,体調不良の幾分かは天候の影響を受ける仕方ないものでもある,というメッセージである。気象予報士の世界では,よく提供されるクレームとして,曇や雨や風を以って天候不良や悪天候と評するのは勝手が過ぎるのではないか,というものがあるらしい。晴れが良くて曇や雨や風が悪いと勝手に決めてくれるな,という意見である。尤もである。ただ,セロトニンの観点から言えば,曇や雨に関しては,良くない天候と言える。
曇や雨でもセロトニン分泌を促し気分を向上させる方法はいくつかある。上に「体調不良の幾分かは天候の影響を受ける仕方ないもの」と書いた心は,幾分かは介入によってセロトニン分泌を促すことができるためである。ひとつは,光を浴びることである。光を浴びて,セロトニン分泌を促進する。この方法は光療法としてうつ病の治療にも用いられている。ひとつは,食事に配慮することである。特に,セロトニンの原料となるタンパク質の一種トリプトファン(triptophan),トリプトファンをセロトニンに合成するビタミンB6,ナイアシン(niacin),マグネシウム,トリプトファンを効率的に脳に取り込ませるインスリン(insulin)分泌を促す炭水化物を摂取することである。中野信子著「脳はどこまでコントロールできるか?」を参照すると,セロトニンの原料はトリプトファンであり,トリプトファンをセロトニンに合成するにはビタミンB6,ナイアシン,マグネシウムが必要で,かつ,トリプトファンを効率的に血液中から脳に取り込むには炭水化物を摂取した際に分泌されるインスリンの働きが重要だと分かる。トリプトファンが多く含まれている食材の一例として,卵,豆腐,マグロの赤身,肉,ピーナツ,バナナ,ナッツ,牛乳,チーズが挙げられていた。これらを摂取することはイージーだ。
松江は今日は晴れ,実習生よ,充実した実習を送って欲しい。
松江は雨が続き気温の変化も比較的大きく,体調不良を自覚する実習生数に増加の兆しが見られたので,私は,「曇や雨ではセロトニン(serotonin)分泌量が低下するため気分は上がりにくい。週末にかけて晴れるので,行動調整に配慮して欲しい。」とメッセージした。脳内物質セロトニンの観点から言えば,人間の活動水準は日照に影響を受ける。日照時間が短かったり日照強度が弱かったりすると,やる気が出にくかったり不安を覚えやすくなったりする。心身の調子は相関する。曇や雨が続けば,身体の調子を崩すこともある。私のメッセージは,体調不良の幾分かは天候の影響を受ける仕方ないものでもある,というメッセージである。気象予報士の世界では,よく提供されるクレームとして,曇や雨や風を以って天候不良や悪天候と評するのは勝手が過ぎるのではないか,というものがあるらしい。晴れが良くて曇や雨や風が悪いと勝手に決めてくれるな,という意見である。尤もである。ただ,セロトニンの観点から言えば,曇や雨に関しては,良くない天候と言える。
曇や雨でもセロトニン分泌を促し気分を向上させる方法はいくつかある。上に「体調不良の幾分かは天候の影響を受ける仕方ないもの」と書いた心は,幾分かは介入によってセロトニン分泌を促すことができるためである。ひとつは,光を浴びることである。光を浴びて,セロトニン分泌を促進する。この方法は光療法としてうつ病の治療にも用いられている。ひとつは,食事に配慮することである。特に,セロトニンの原料となるタンパク質の一種トリプトファン(triptophan),トリプトファンをセロトニンに合成するビタミンB6,ナイアシン(niacin),マグネシウム,トリプトファンを効率的に脳に取り込ませるインスリン(insulin)分泌を促す炭水化物を摂取することである。中野信子著「脳はどこまでコントロールできるか?」を参照すると,セロトニンの原料はトリプトファンであり,トリプトファンをセロトニンに合成するにはビタミンB6,ナイアシン,マグネシウムが必要で,かつ,トリプトファンを効率的に血液中から脳に取り込むには炭水化物を摂取した際に分泌されるインスリンの働きが重要だと分かる。トリプトファンが多く含まれている食材の一例として,卵,豆腐,マグロの赤身,肉,ピーナツ,バナナ,ナッツ,牛乳,チーズが挙げられていた。これらを摂取することはイージーだ。
松江は今日は晴れ,実習生よ,充実した実習を送って欲しい。
2015-09-09
学校教育実習4の実習生終礼におけるコメント1
島根大学教育学部附属中学校における学校教育実習4の実習生終礼において提供した大学教員としてのコメントを記述する。中学校における学校教育実習4が,4週間の日程で展開されている。人数が多いため,実習は2グループに分かれて進行する。すなわち,島根大学教育学部附属中学校は,学校教育実習4だけでも2か月間実施していることになる。コメントを以下に記す。
「季節の変わり目で気温の変動が大きい,『体調管理に配慮するように。』といったことは散散言われているだろうから,人間生活環境教育講座の教員らしいことを選言すれば,私からのメッセージは,雨が続いているので洗濯に気を使ってね,ということになる。臭いと生徒に嫌われちゃうからね。」
アイスブレイクではなく,私は真剣に洗濯に気を使って欲しいと思っている。私は,攻撃行動の心理学的研究を専門のひとつとしている。臭い(odor)は,挑発の源泉(source of provocation)として,他者を不快にさせる欲求不満(frustration)を含む嫌悪事象(aversive event)になり得ることが明らかにされている。すなわち,臭いと良くないことが起きやすいのである。教育実習生の行動規程には,実習中は香水を使用しないことが明記されている。実習の事前指導では,中学校の実習指導担当の教諭からの直言として,香水は使用しないこと,体臭が気になる人は無効性のデオドラントスプレイを使うこと,という指示がなされた。しかし,服の臭いに関する規程はない。「臭くならないようにちゃんと洗濯するように。」ということは言われない。当然のことなので言われないのであるが,大学にいると,雨が続く時期は,授業をしたり学生と交流したりしていると,部屋干しに失敗した臭いがする学生がいる。女子学生でもそうだったりする。多くはないが,少なくもない。実習生は,スケジュール上は8時から18時頃まで中学校で過ごす。日中は家を不在にすることに加えて,連日の雨では,部屋干しをする実習生がたくさんいることはポッシブルである。嫌な臭いはさせないように注意して欲しい。幸い,現在は用途に応じた多種多彩な洗濯洗剤と柔軟剤が発売されている。因みに,香水が禁止されても,柔軟剤をふんだんに使えば,芳香豊かにできるが,柔軟剤の過剰使用は禁止されていない。香りを楽しむことが好きな実習生は,このオプションを採択しているかもしれない。
家に帰って,新発売のザ・モルツを飲んだ,ザ・プレミアムモルツと比較すると,苦味とボディ感が強く,美味しかった。香りは低いが,そこはアロマホップを贅沢に使ったザ・プレミアムモルツとしても譲れないところだろう。関係ないな。
「季節の変わり目で気温の変動が大きい,『体調管理に配慮するように。』といったことは散散言われているだろうから,人間生活環境教育講座の教員らしいことを選言すれば,私からのメッセージは,雨が続いているので洗濯に気を使ってね,ということになる。臭いと生徒に嫌われちゃうからね。」
アイスブレイクではなく,私は真剣に洗濯に気を使って欲しいと思っている。私は,攻撃行動の心理学的研究を専門のひとつとしている。臭い(odor)は,挑発の源泉(source of provocation)として,他者を不快にさせる欲求不満(frustration)を含む嫌悪事象(aversive event)になり得ることが明らかにされている。すなわち,臭いと良くないことが起きやすいのである。教育実習生の行動規程には,実習中は香水を使用しないことが明記されている。実習の事前指導では,中学校の実習指導担当の教諭からの直言として,香水は使用しないこと,体臭が気になる人は無効性のデオドラントスプレイを使うこと,という指示がなされた。しかし,服の臭いに関する規程はない。「臭くならないようにちゃんと洗濯するように。」ということは言われない。当然のことなので言われないのであるが,大学にいると,雨が続く時期は,授業をしたり学生と交流したりしていると,部屋干しに失敗した臭いがする学生がいる。女子学生でもそうだったりする。多くはないが,少なくもない。実習生は,スケジュール上は8時から18時頃まで中学校で過ごす。日中は家を不在にすることに加えて,連日の雨では,部屋干しをする実習生がたくさんいることはポッシブルである。嫌な臭いはさせないように注意して欲しい。幸い,現在は用途に応じた多種多彩な洗濯洗剤と柔軟剤が発売されている。因みに,香水が禁止されても,柔軟剤をふんだんに使えば,芳香豊かにできるが,柔軟剤の過剰使用は禁止されていない。香りを楽しむことが好きな実習生は,このオプションを採択しているかもしれない。
家に帰って,新発売のザ・モルツを飲んだ,ザ・プレミアムモルツと比較すると,苦味とボディ感が強く,美味しかった。香りは低いが,そこはアロマホップを贅沢に使ったザ・プレミアムモルツとしても譲れないところだろう。関係ないな。
2015-09-04
谷川浩司著「常識外の一手」を読む
谷川浩司著「常識外の一手」を読んだ,面白かった。私が将棋ファンである理由のひとつは,プロ棋士の人生観を面白いと思うことにある。本書は谷川会長の価値観や会長職のバックステージ情報が豊富に掲載されていた。具体的には,プロ棋士がコンピュータ将棋特有の指し方を研究すればより勝つことができると思うが,普段人間同士で対局しているプロ棋士がコンピュータ将棋研究にエネルギーを費やすことは本来的かというコンピュータ将棋とプロ棋士との棋力の関係に関する考察,会長1年目であった2013年10月のスケジュールの開示,10年ほど前の森内九段,羽生四冠,佐藤九段との赤坂プリンスホテルにおける将棋普及の展望を議論した会合の逸話,棋士職と会長職のバランスに対する所信,などを楽しく読んだ。新潮新書の,テンポよく読める体裁も加わって,すいすい読めて楽しかった。
2015-08-07
パンケーキ
暑いので,気晴らしにAQUAで学生とドライヴする。ドライヴしても暑さは変わらない。炎天下に駐車した車の車内温度は高く,走り出してエアコンが効くまでは辛い。それでも,暑さは認知に依存するものなので,ドライヴで気晴らしをして凌ぐことにする。
松江の笹子ビーチを訪れる。松江には海水浴場がいくつかある。直接日本海に面していることに加えて,人口も少ないので,松江の海の水質は良い。海水浴場のいくつかは,去年AQUAで走りまわった時に横目に見ていた。笹子ビーチは,松江の海水浴場の中でもあまり知られていない,小規模で穏やかなビーチらしい。学生が勧めるのでロケイションを教えてもらう。島根大学松江キャンパスから15kmほどのところにある。実際に訪れると,確かに,小規模で穏やかな感じの良い雰囲気がある。水の透明度も良い。私は,本州四国九州のビーチで遊ばなくなって久しい。ここなら遊んでもいいなと思った。
海を眺めた後,カフェに行くことにする。松江には,美味しそうなメニュをサーヴするカフェやお洒落なカフェが結構ある。行ってみたいところはいくつかあった。
抹茶をサーヴする店が定休日だったので,workaroundとして服部珈琲工房のカフェであるSalone del Cafe Hattoriを訪れる。商談と思しきペア,子連れのグループ,学生と思しきペア,私にはよく分からないグループ,雑誌を読み込むおひとりなど,たくさんの人で賑わっていた。内装とソファとチェアはシック,照明は柔らかな暖色,お洒落でよろしい。
メニュをパラパラと参照し,パンケーキを食べる,美味しい。先日,絵本作成と幼児教育の参考にするべく福岡アジア美術館の企画展「絵本ミュージアム」を訪れた際,「こぐまちゃんえほんシリーズ」をフィーチャーしたブースに魅了された。私は,「こぐまちゃんえほんシリーズ」の「しろくまちゃんのほっとけーき」が好きである。そのブースでは,ホットケーキが焼けるまでを描写した見開きのシーンを,しろくまちゃんとこぐまちゃんのぬいぐるみを配しながらクッション等を用いて忠実に再現していた。とてもかわいいと感じたので,「こぐまちゃんえほんシリーズ」のグッズも購入した。私は,認知におけるホットケーキに関連するネットワークが活性化された。プライミング(priming)である。福岡ではプライオリティをより高次に設定していた博多とんこつラーメンの食べ比べをしていたので,ホットケーキは温存するかたちを採用した。今回,カフェのメニュにパンケーキを見つけ,即決した。ベリーをふんだんに使ったパンケーキは美味しかった。酸味とコクのバランスが良いコーヒーとのマッチングも良かった。因みに,ホットケーキとパンケーキの差異性は議論があるところであるが,私としては美味しいケーキなのでどちらでも良いと思っている。さらに因むと,Waikikiでパンケーキを食べ比べた経験では,Eggs'n Thingsでパンケーキを食べるなら,足労厭わず本店であるFlagship店に行くことをお勧めする。
お洒落でパンケーキも美味しかったので,淡野研究室の3年生に,今度集まるならSalone del Cafe Hattoriにしようと提案する。7月中旬,研究室の前期のゼミが終了した。私の所感では,この前期,研究室単位では打ち上げるほどのことはしていない。4年生は,それぞれテーマが決まり,研究の輪郭が見えてきた。今後の進捗は,概ね,努力との関数で決まる。文献を10読む必要があるなら10読む。文献を100読む必要があるなら100読む。レヴューとしてまとめるなら読んだものをまとめる。仮説を検証するなら,データを取る。データを取って仮説と合致しないなら,合致しないという研究として提出してもいいし,さらにデータを取ってもいい。3年生は,自身のアイディアを言語化する段階にある。自身の知識の中にあるキーワードを頼りに先行研究をあたる。先行研究をあたるうちに,自身の選好するテーマがより明確に見えてくる。自身の知識の中には無かったキーワードを手に入れるようになる。3年生はその真っ只中にいるといった感じである。私は,研究室で何かしたかったらやるけど無かったら後期まで夏休みだ,と伝えた。個人的には,この夏は花火をしたいと思っていた。しかし,特段研究室単位でやるものではない。BBQもしたい。しかし,こちらも研究室単位でやるものではない。仲間や恋人やサークルやバイト単位でやればいい。もちろん,ゼミ生が研究室として花火やBBQを積極的にしたいと言えばやりたい。しかし,そうではないのでやらない。そんな折,3年生にラヴハプニングが生起した。学生が,研究室に報告にやって来る。集まって話そうという流れになる。しかし,日程をアレンジすると,時間がないことが分かる。学生は,前期末試験と保育士試験がある。また今度にしましょうということになる。そんな経緯で,パンケーキを食べた後,淡野研究室の3年生に,今度集まるならSalone del Cafe Hattoriにしようと提案した。
学生から,Salone del Cafe Hattoriの林檎のスイーツがどうしても食べたいと彼女が言うので明日行きませんか,と連絡が来る。時間がないという話だったが,アレンジできるらしい。なんだ,できるじゃないか。食べたいと思ったものは食べた方が良い,私はそう確信している。欲するものを正確に把握し,的確に摂取することで,健康に過ごすことができる。
3年生ふたりとSalone del Cafe Hattoriに行き,学生はランチや林檎やパンケーキを食べ,私は2日連続のパンケーキを食べる,美味しかった。おかわりの趣である。同じパンケーキであるが,用いるフルーツが異なっていた。
コーヒーとともにパンケーキを楽しんでいる途中,学生が女性の店員さんに向かって,「かわいいですね。」と自身の認識表明を行う様子を目の当たりにする。私は少し面食らう。私は,「へえ,直接伝えるんや?」と尋ねる。学生は,「はい,私は言っちゃいますね。」と応える。私の周囲では,類比的に軟派なビヘイヴィアは,学部生の時にほとんど収束した。学部生の頃,愉快な仲間たちと楽しく過ごしていた。仲間の中には店員さんに声を掛ける者もいた。どのような仲間かと言えば,次の通りである。夜な夜な集まって飲んだりゲームをしたりする。その後,雑魚寝で眠る。私は我儘を通すタイプなので,仲間の部屋であろうとベッドを占有する。炬燵で数人が寝る。カーペットで数人が寝る。布団も毛布も足りなくなる。「知ーらない。」と言って皆我先に眠る。朝起きて,さすがに「あいつ,風邪ひいてへんやろか。」と心配になる。目をやると,金色と言うのか銀色と言うのか,きらきらした巨大な折り紙のようなサムシングに包まって眠る仲間を見つける。何だそれはと問うと,「宇宙服の開発技術を応用した遮熱シートだ。」と言う。保温性が抜群で,包まれば冬でも寒くない。どこで手に入れたんだと問うと,「淡野,お前が彼女と科学館に行ったお土産で買ってきたんやろ。」と言う。そうだった。ある時は,股間が痒いと思って目を醒ますと,仲間たちが笑っていた。どうしたんだと問うと,「淡野,お前はいつもベッドで寝るから,仕返しだ。」と言う。詳しく聞けば,猫よけスプレーを私の股間に噴射したらしい。ベランダで餌付けた猫が留守中に部屋に入って困ると言った部屋の住人が猫よけスプレーを購入していた。いつもベッドを占有する私に悪戯をするべく,ひとりが私の股間に猫よけスプレーを噴射した。私は,せっせとシャワーを浴びた。そんな愉快な仲間たちだった。仲間の中には,軟派に声を掛ける者がいた。店員さんを見てかわいいと思った時に,かわいいと伝えるビヘイヴィアは珍しくなかった。しかし,学部卒業以来,そのようなビヘイヴィアはほとんど見ていなかった。今回は女性同士のやり取りであるが,久しぶりに見た。
パンケーキ2days,美味しく楽しかった。しろくまちゃんが作るには少し難しいかな。
松江の笹子ビーチを訪れる。松江には海水浴場がいくつかある。直接日本海に面していることに加えて,人口も少ないので,松江の海の水質は良い。海水浴場のいくつかは,去年AQUAで走りまわった時に横目に見ていた。笹子ビーチは,松江の海水浴場の中でもあまり知られていない,小規模で穏やかなビーチらしい。学生が勧めるのでロケイションを教えてもらう。島根大学松江キャンパスから15kmほどのところにある。実際に訪れると,確かに,小規模で穏やかな感じの良い雰囲気がある。水の透明度も良い。私は,本州四国九州のビーチで遊ばなくなって久しい。ここなら遊んでもいいなと思った。
海を眺めた後,カフェに行くことにする。松江には,美味しそうなメニュをサーヴするカフェやお洒落なカフェが結構ある。行ってみたいところはいくつかあった。
抹茶をサーヴする店が定休日だったので,workaroundとして服部珈琲工房のカフェであるSalone del Cafe Hattoriを訪れる。商談と思しきペア,子連れのグループ,学生と思しきペア,私にはよく分からないグループ,雑誌を読み込むおひとりなど,たくさんの人で賑わっていた。内装とソファとチェアはシック,照明は柔らかな暖色,お洒落でよろしい。
メニュをパラパラと参照し,パンケーキを食べる,美味しい。先日,絵本作成と幼児教育の参考にするべく福岡アジア美術館の企画展「絵本ミュージアム」を訪れた際,「こぐまちゃんえほんシリーズ」をフィーチャーしたブースに魅了された。私は,「こぐまちゃんえほんシリーズ」の「しろくまちゃんのほっとけーき」が好きである。そのブースでは,ホットケーキが焼けるまでを描写した見開きのシーンを,しろくまちゃんとこぐまちゃんのぬいぐるみを配しながらクッション等を用いて忠実に再現していた。とてもかわいいと感じたので,「こぐまちゃんえほんシリーズ」のグッズも購入した。私は,認知におけるホットケーキに関連するネットワークが活性化された。プライミング(priming)である。福岡ではプライオリティをより高次に設定していた博多とんこつラーメンの食べ比べをしていたので,ホットケーキは温存するかたちを採用した。今回,カフェのメニュにパンケーキを見つけ,即決した。ベリーをふんだんに使ったパンケーキは美味しかった。酸味とコクのバランスが良いコーヒーとのマッチングも良かった。因みに,ホットケーキとパンケーキの差異性は議論があるところであるが,私としては美味しいケーキなのでどちらでも良いと思っている。さらに因むと,Waikikiでパンケーキを食べ比べた経験では,Eggs'n Thingsでパンケーキを食べるなら,足労厭わず本店であるFlagship店に行くことをお勧めする。
お洒落でパンケーキも美味しかったので,淡野研究室の3年生に,今度集まるならSalone del Cafe Hattoriにしようと提案する。7月中旬,研究室の前期のゼミが終了した。私の所感では,この前期,研究室単位では打ち上げるほどのことはしていない。4年生は,それぞれテーマが決まり,研究の輪郭が見えてきた。今後の進捗は,概ね,努力との関数で決まる。文献を10読む必要があるなら10読む。文献を100読む必要があるなら100読む。レヴューとしてまとめるなら読んだものをまとめる。仮説を検証するなら,データを取る。データを取って仮説と合致しないなら,合致しないという研究として提出してもいいし,さらにデータを取ってもいい。3年生は,自身のアイディアを言語化する段階にある。自身の知識の中にあるキーワードを頼りに先行研究をあたる。先行研究をあたるうちに,自身の選好するテーマがより明確に見えてくる。自身の知識の中には無かったキーワードを手に入れるようになる。3年生はその真っ只中にいるといった感じである。私は,研究室で何かしたかったらやるけど無かったら後期まで夏休みだ,と伝えた。個人的には,この夏は花火をしたいと思っていた。しかし,特段研究室単位でやるものではない。BBQもしたい。しかし,こちらも研究室単位でやるものではない。仲間や恋人やサークルやバイト単位でやればいい。もちろん,ゼミ生が研究室として花火やBBQを積極的にしたいと言えばやりたい。しかし,そうではないのでやらない。そんな折,3年生にラヴハプニングが生起した。学生が,研究室に報告にやって来る。集まって話そうという流れになる。しかし,日程をアレンジすると,時間がないことが分かる。学生は,前期末試験と保育士試験がある。また今度にしましょうということになる。そんな経緯で,パンケーキを食べた後,淡野研究室の3年生に,今度集まるならSalone del Cafe Hattoriにしようと提案した。
学生から,Salone del Cafe Hattoriの林檎のスイーツがどうしても食べたいと彼女が言うので明日行きませんか,と連絡が来る。時間がないという話だったが,アレンジできるらしい。なんだ,できるじゃないか。食べたいと思ったものは食べた方が良い,私はそう確信している。欲するものを正確に把握し,的確に摂取することで,健康に過ごすことができる。
3年生ふたりとSalone del Cafe Hattoriに行き,学生はランチや林檎やパンケーキを食べ,私は2日連続のパンケーキを食べる,美味しかった。おかわりの趣である。同じパンケーキであるが,用いるフルーツが異なっていた。
コーヒーとともにパンケーキを楽しんでいる途中,学生が女性の店員さんに向かって,「かわいいですね。」と自身の認識表明を行う様子を目の当たりにする。私は少し面食らう。私は,「へえ,直接伝えるんや?」と尋ねる。学生は,「はい,私は言っちゃいますね。」と応える。私の周囲では,類比的に軟派なビヘイヴィアは,学部生の時にほとんど収束した。学部生の頃,愉快な仲間たちと楽しく過ごしていた。仲間の中には店員さんに声を掛ける者もいた。どのような仲間かと言えば,次の通りである。夜な夜な集まって飲んだりゲームをしたりする。その後,雑魚寝で眠る。私は我儘を通すタイプなので,仲間の部屋であろうとベッドを占有する。炬燵で数人が寝る。カーペットで数人が寝る。布団も毛布も足りなくなる。「知ーらない。」と言って皆我先に眠る。朝起きて,さすがに「あいつ,風邪ひいてへんやろか。」と心配になる。目をやると,金色と言うのか銀色と言うのか,きらきらした巨大な折り紙のようなサムシングに包まって眠る仲間を見つける。何だそれはと問うと,「宇宙服の開発技術を応用した遮熱シートだ。」と言う。保温性が抜群で,包まれば冬でも寒くない。どこで手に入れたんだと問うと,「淡野,お前が彼女と科学館に行ったお土産で買ってきたんやろ。」と言う。そうだった。ある時は,股間が痒いと思って目を醒ますと,仲間たちが笑っていた。どうしたんだと問うと,「淡野,お前はいつもベッドで寝るから,仕返しだ。」と言う。詳しく聞けば,猫よけスプレーを私の股間に噴射したらしい。ベランダで餌付けた猫が留守中に部屋に入って困ると言った部屋の住人が猫よけスプレーを購入していた。いつもベッドを占有する私に悪戯をするべく,ひとりが私の股間に猫よけスプレーを噴射した。私は,せっせとシャワーを浴びた。そんな愉快な仲間たちだった。仲間の中には,軟派に声を掛ける者がいた。店員さんを見てかわいいと思った時に,かわいいと伝えるビヘイヴィアは珍しくなかった。しかし,学部卒業以来,そのようなビヘイヴィアはほとんど見ていなかった。今回は女性同士のやり取りであるが,久しぶりに見た。
パンケーキ2days,美味しく楽しかった。しろくまちゃんが作るには少し難しいかな。
2015-08-05
学生の誕生日イヴェント
学生の誕生日イヴェントにinvolveされることがある。昨日,用事があって人間生活環境教育専攻の学生研究室に入ると,学生の誕生日イヴェントの真っ最中,それも写真撮影の真っ最中だった。学生たちは盛り上がっていた。「淡野先生も一緒に写真に写ってくださーい。」と言われ,私も一緒に写真に写った。ある時は,「ケーキを冷やしておきたいので研究室の冷蔵庫を使ってもいいですか。」とお願いされてケーキを保管したり,「サプライズでクラッカーを鳴らすので淡野先生も一緒にお願いします。」とオファーを受けたこともある。大学では学生の年齢は多様であるが,教員養成系の教育学部の学生は,教員採用に年齢制限がある等の影響で,ほとんどが高校卒業後に入学するアラウンド20歳の学生である。学生の誕生日は,アラウンド20歳の誕生日である。殊に20歳の誕生日となれば,思うことはたくさんあるだろう。めでたい。誰か撮った写真を送ってね。
2015-08-04
平成27年度島根大学オープンキャンパス
2015年8月8日および9日に,平成27年度島根大学オープンキャンパスが開催される。教育学部は,8月9日に諸諸の行事を行う。盛夏なので暑さ対策をお忘れなく。教育学部がある松江キャンパスは,コンパクトなキャンパスなので,歩き回ってぐったりしてしまうということはないとは思いますが,備えるに越したことはありません。
2015-07-15
体調管理
大学業務におけるストレスについて考える機会があった。大学では,各教員の裁量に委ねられている業務がある。私が大学教員を志したきっかけのひとつは,業務における裁量の程度の高さに希望のようなサムシングを感じたことにある。意外な知見が研究にリンクする,自分が面白いと思ったハンドブックを授業で用いる,内閣官房が「ゆう活」を提案するずっと前から朝型生活を展開して過ごす,これらは私としては愉悦と言える程に楽しい。独特なイデオロギーを有する教員がいても受容できる。心理学を専門とする私から見ると,学生に対する強引な評価を展開していると感じられる教員がいる。観点によって評価が異なることは自明であるし,心理学はその点を強調さえしているので,私は受容できる。そういう教員がいた方が面白くなることもある。しかし,干渉的なビヘイヴィアは困る。自身のイデオロギーを正当化し,スタンダードとして干渉的に提供されるのは面白くない。別に,個人的に干渉されたわけではない。内省的に考えれば自身のイデオロギーと気付けるようなことをスタンダードとして主張する教員がいた。「ズレてるなあ。」と感じることが何度かあった。ズットズレテルズというバンドがいる。このバンド名のように,「あの人ずっとズレてるなあ。」と感じることがあった。
心理学における健康は,身体の健康と精神の健康を包含したものを指す。心身相関という言葉が示す通り,身体の健康と精神の健康は相関する。身体と精神のバランスが重要である。
私は,ストレスマネジメントを含む大学教員の体調管理の具体的事例が知りたくなった。体調管理の知見は,文献を参照すれば分かる。ただ,それらは,科学的アプローチを採用した,人人の共通点に焦点を当てた一般法則である。私が知りたいのは,大学教員に特化した体調管理である。具体的事例が知りたくなった。
出張で以前勤めた職場を訪れた際,時間を見つけて教授陣の研究室を訪ね,体調管理について聞いた。教授には,研究科長や副理事や講座主任がいる。当該講座は,国立大学法人の心理学講座としては類比的に大きな講座である。文部科学省や学会本部への出張,外勤講師や講演の展開,学位審査等,職務はイージーではないだろうから,教授陣の体調管理から得るものは多いと考えた。お土産として松江の和菓子を大量に携え,私は研究室に在室の教員を訪ねて回った。
ある教授は,「特別なことは何もしていないなあ。強いて言えば,飲みたい物を飲み,食べたい物を食べ,特に節制はしていないことかな。」と提示した。教授は,才能も適性も高いと言われている人である。特別なことをしなくても問題ないのだろう。因みに,私自身も,飲みたい物を飲み,食べたい物を食べ,特に節制はしていない。体重58kg,体脂肪率10%は,普通に過ごして出来した数値である。私は,教授と話す中で,「淡野,心理学者ならそういうことは自分で考えるものだよ。」と諭されているように感じた。多くを語らない教授から,生き様を学んだ。
ある教授は,「私は運動します。」と提示した。40歳の頃はエアロビクスをしていたらしい。教授は,「40歳の頃が一番元気でした。」と言った。また,個個の教員では操作しにくい「コントロール可能性が低い」業務への態度として,「なるようになると考えるといいかもしれませんよ。」と提示した。認知の問題,すなわち,物事の見方の問題であるならば,なるようになると考える方が良いということである。なるほど。
ある教授は,上述した,干渉的なビヘイヴィアに私が少しばかり困惑した件について,「大学教員としてのキャリアが長くなれば慣れるかもしれないね。」と言った。そういうものかもしれない。
American Psychological Associationのwebsiteを見ると,タイムリーなことに,Psychology Newsとして「To combat stress, exercise harder」という記事をフィーチャーしていた。そこには,「People who do spend more time exercising are less likely to be depressed and have lower rates of anxiety, said Dr. Edward M. Phillips, director of the Institute of Lifestyle Medicine at the Joslin Diabetes Center. There’s no formula for how much exercise is best for beating stress. And though research suggests that aerobic exercise like running, biking, or swimming is most effective, mixing it up with strength training and mind-body exercises, including yoga and meditation, is also great, he said.」とあった。私は夕方にヨーガをしている。有酸素運動を交えるとストレス低減に良いようだ。ただ,私は走ることは好きではない。ストレス低減のためにランニングをしても,それ自体がストレスになり兼ねない。カラオケはダメかな?科学的アプローチを採用した,人人の共通点に焦点を当てたストレスの一般法則に関する知見であれば,私が外れ値(outlier)としてカラオケとヨーガでストレスを低減できる人であっても何もおかしくはない。
心理学における健康は,身体の健康と精神の健康を包含したものを指す。心身相関という言葉が示す通り,身体の健康と精神の健康は相関する。身体と精神のバランスが重要である。
私は,ストレスマネジメントを含む大学教員の体調管理の具体的事例が知りたくなった。体調管理の知見は,文献を参照すれば分かる。ただ,それらは,科学的アプローチを採用した,人人の共通点に焦点を当てた一般法則である。私が知りたいのは,大学教員に特化した体調管理である。具体的事例が知りたくなった。
出張で以前勤めた職場を訪れた際,時間を見つけて教授陣の研究室を訪ね,体調管理について聞いた。教授には,研究科長や副理事や講座主任がいる。当該講座は,国立大学法人の心理学講座としては類比的に大きな講座である。文部科学省や学会本部への出張,外勤講師や講演の展開,学位審査等,職務はイージーではないだろうから,教授陣の体調管理から得るものは多いと考えた。お土産として松江の和菓子を大量に携え,私は研究室に在室の教員を訪ねて回った。
ある教授は,「特別なことは何もしていないなあ。強いて言えば,飲みたい物を飲み,食べたい物を食べ,特に節制はしていないことかな。」と提示した。教授は,才能も適性も高いと言われている人である。特別なことをしなくても問題ないのだろう。因みに,私自身も,飲みたい物を飲み,食べたい物を食べ,特に節制はしていない。体重58kg,体脂肪率10%は,普通に過ごして出来した数値である。私は,教授と話す中で,「淡野,心理学者ならそういうことは自分で考えるものだよ。」と諭されているように感じた。多くを語らない教授から,生き様を学んだ。
ある教授は,「私は運動します。」と提示した。40歳の頃はエアロビクスをしていたらしい。教授は,「40歳の頃が一番元気でした。」と言った。また,個個の教員では操作しにくい「コントロール可能性が低い」業務への態度として,「なるようになると考えるといいかもしれませんよ。」と提示した。認知の問題,すなわち,物事の見方の問題であるならば,なるようになると考える方が良いということである。なるほど。
ある教授は,上述した,干渉的なビヘイヴィアに私が少しばかり困惑した件について,「大学教員としてのキャリアが長くなれば慣れるかもしれないね。」と言った。そういうものかもしれない。
American Psychological Associationのwebsiteを見ると,タイムリーなことに,Psychology Newsとして「To combat stress, exercise harder」という記事をフィーチャーしていた。そこには,「People who do spend more time exercising are less likely to be depressed and have lower rates of anxiety, said Dr. Edward M. Phillips, director of the Institute of Lifestyle Medicine at the Joslin Diabetes Center. There’s no formula for how much exercise is best for beating stress. And though research suggests that aerobic exercise like running, biking, or swimming is most effective, mixing it up with strength training and mind-body exercises, including yoga and meditation, is also great, he said.」とあった。私は夕方にヨーガをしている。有酸素運動を交えるとストレス低減に良いようだ。ただ,私は走ることは好きではない。ストレス低減のためにランニングをしても,それ自体がストレスになり兼ねない。カラオケはダメかな?科学的アプローチを採用した,人人の共通点に焦点を当てたストレスの一般法則に関する知見であれば,私が外れ値(outlier)としてカラオケとヨーガでストレスを低減できる人であっても何もおかしくはない。
2015-07-11
とある土曜日のこと
今日土曜日,朝大学に来ると,何かのイヴェントが開催されるようで,7時にいくつかの研究室の照明がついていた。教育学部はたくさんのイヴェントを開催している。土日に子どもの声が聞こえることは珍しくない。
昼,研究室を出ると,やはり何かのイヴェントが開催されていて,とある教室がわいわいと親子連れで賑わっていた。イヴェントの関係か,教育学部棟を出たところの路面には,チョークでたくさんの絵が描かれていた。雨が降るまで絵は残るだろう。
朝競り炉端日本いちで,定跡外しの「茄子と豚肉のスタミナ炒め」を食べた。私は,週末,朝競り炉端日本いちで魚を食べる。提供される魚の種類に応じて,焼き魚定食,煮魚定食,海鮮丼定食,週替わり定食を選択することを定跡としている。今日は,気温30度,湿度70%を超える暑い日になったので,週替わり定食の「茄子と豚肉のスタミナ炒め」に惹かれ,定跡外しのオーダーを採択した。朝競り炉端日本いちのランチメニュは,基本的には魚であるが,週替わり定食は魚以外をメインに据えることがある。メインが魚でなくても,何かしらの刺身があるので,魚推しの面目は保っている。
食事を終えて大学に戻って来ると,イヴェントが終了し,たくさんの親子連れが教室から出てきていた。ある先生が,送迎の車を見送っていた。
研究棟の廊下で,とある先生に出会い,「先生,今日はお仕事ですか?」と訊かれ,「いろいろとやっています。」と応えた。私は,「淡野先生,朝早くから大学に来られていますね。」とか「休日も研究室におられますよね?」と言われることがある。事実なので,「はい,そうです。」と応える。ただ,仕事をしているかどうかと問われると,応えはイージーではない。授業の準備をすることもあれば,業務の書類を作成することもある。これらはダイレクトに仕事と言える。作家のエセーを読むことがあれば,録画したTV番組を視聴することもある。これらは,ダイレクトに仕事とは言い難い。ただ,作家のエセーを引用して授業に取り入れたりヴァラエティ番組から得た情報を心理学の知見の例示として採用したりすることもある。この点では,インダイレクトに仕事と言える。しかし,ただただ「楽しかったなあ。」といって終わることもある。その場合は娯楽で終わる。心理学は,日常生活のあれこれがネタになりやすいので,仕事なのか娯楽なのかわからないファジーなものが栄養になると考えて私は日日あれこれしている。セレンディピティ(serendipity)という言葉がある。偶然の出来事が新たな発見を導いたり,なんでもないような知識のストックが後に活きてきたりすることがある。なんとも言い難いので,「いろいろとやっています。」というアンサーになる。
昼寝をしていると,学生が島根大学の卒業生である友人を連れて研究室にやって来た。朝競り炉端日本いちでサーヴされる白米は美味しく,量が多いので,食後は眠くなって昼寝することがある。今日も,私は昼寝をしていた。寝ていると,研究室にノックの音が響いた。「ノックされたかな。」と思って応答すると,学生だった。私は,卒業生である友人とは面識はないが,学生としゃべる中で話には聞いていた。相手は相手で,私の話を聞いていたらしい。「こんにちは。初めまして。話には聞いています。」と言われ,「こんにちは。初めまして。」と応えた。「今度飲みに行きましょう。」と言われ,「ええ,行きましょう。」と応えた。深めの眠りから急に起きたところだったので,応対の記憶は曖昧である。失礼はなかったかと内省したが,記憶が曖昧なので上手くいかない。とにかく,今度飲みに行きましょう。
そして,ブログを書いた。ブログを書き終えたので,今日は帰る。
昼,研究室を出ると,やはり何かのイヴェントが開催されていて,とある教室がわいわいと親子連れで賑わっていた。イヴェントの関係か,教育学部棟を出たところの路面には,チョークでたくさんの絵が描かれていた。雨が降るまで絵は残るだろう。
朝競り炉端日本いちで,定跡外しの「茄子と豚肉のスタミナ炒め」を食べた。私は,週末,朝競り炉端日本いちで魚を食べる。提供される魚の種類に応じて,焼き魚定食,煮魚定食,海鮮丼定食,週替わり定食を選択することを定跡としている。今日は,気温30度,湿度70%を超える暑い日になったので,週替わり定食の「茄子と豚肉のスタミナ炒め」に惹かれ,定跡外しのオーダーを採択した。朝競り炉端日本いちのランチメニュは,基本的には魚であるが,週替わり定食は魚以外をメインに据えることがある。メインが魚でなくても,何かしらの刺身があるので,魚推しの面目は保っている。
食事を終えて大学に戻って来ると,イヴェントが終了し,たくさんの親子連れが教室から出てきていた。ある先生が,送迎の車を見送っていた。
研究棟の廊下で,とある先生に出会い,「先生,今日はお仕事ですか?」と訊かれ,「いろいろとやっています。」と応えた。私は,「淡野先生,朝早くから大学に来られていますね。」とか「休日も研究室におられますよね?」と言われることがある。事実なので,「はい,そうです。」と応える。ただ,仕事をしているかどうかと問われると,応えはイージーではない。授業の準備をすることもあれば,業務の書類を作成することもある。これらはダイレクトに仕事と言える。作家のエセーを読むことがあれば,録画したTV番組を視聴することもある。これらは,ダイレクトに仕事とは言い難い。ただ,作家のエセーを引用して授業に取り入れたりヴァラエティ番組から得た情報を心理学の知見の例示として採用したりすることもある。この点では,インダイレクトに仕事と言える。しかし,ただただ「楽しかったなあ。」といって終わることもある。その場合は娯楽で終わる。心理学は,日常生活のあれこれがネタになりやすいので,仕事なのか娯楽なのかわからないファジーなものが栄養になると考えて私は日日あれこれしている。セレンディピティ(serendipity)という言葉がある。偶然の出来事が新たな発見を導いたり,なんでもないような知識のストックが後に活きてきたりすることがある。なんとも言い難いので,「いろいろとやっています。」というアンサーになる。
昼寝をしていると,学生が島根大学の卒業生である友人を連れて研究室にやって来た。朝競り炉端日本いちでサーヴされる白米は美味しく,量が多いので,食後は眠くなって昼寝することがある。今日も,私は昼寝をしていた。寝ていると,研究室にノックの音が響いた。「ノックされたかな。」と思って応答すると,学生だった。私は,卒業生である友人とは面識はないが,学生としゃべる中で話には聞いていた。相手は相手で,私の話を聞いていたらしい。「こんにちは。初めまして。話には聞いています。」と言われ,「こんにちは。初めまして。」と応えた。「今度飲みに行きましょう。」と言われ,「ええ,行きましょう。」と応えた。深めの眠りから急に起きたところだったので,応対の記憶は曖昧である。失礼はなかったかと内省したが,記憶が曖昧なので上手くいかない。とにかく,今度飲みに行きましょう。
そして,ブログを書いた。ブログを書き終えたので,今日は帰る。
2015-07-10
言葉遣い
言葉遣いに配慮するようにという注意が展開される時,槍玉に挙げられやすいのは,普及し始めた新しい言葉である。そこでは,概ね,「マジ」とか「ヤバい」といった語法は慎むべきという見解が提示される。島根大学に来てから,教育実習などの文脈で,私は何度かそういう指導を耳にした。因みに,新語・流行語大賞は,ユーキャンが展開している賞である。ユーキャンが提示する会社概要を参照すると,ユーキャンは,教育・文化・エンタテインメントの分野において,学ぶ楽しさ,知る喜びを創造する企業である。言葉遣いに配慮するようにという注意が展開される時に槍玉に挙げられやすい言葉の中には,ユーキャンの新語・流行語大賞を受賞する言葉が少なくない。
言葉の変化を面白く思わない人の存在は,古い資料にも掲載されている。徒然草22段には,次のような記述がある。「何事も,古き世のみぞ慕はしき。今様は,無下にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる,うつくしき器物も,古代の姿こそをかしと見ゆれ。文の詞などぞ,昔の反古どもはいみじき。ただ言ふ言葉も,口をしうこそなりもてゆくなれ。古は,「車もたげよ」,「火かかげよ」とこそ言ひしを,今様の人は,「もてあげよ」,「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮人数立て」と言ふべきを,「たちあかししろくせよ」と言ひ,最勝講の御聴聞所なるをば「御講の廬」とこそ言ふを,「講廬」と言ふ。口をしとぞ,古き人は仰せられし」。「古き人」は,「今様の人」の言葉を「口をし」と言ったらしい。
また,増井元著「辞書の仕事」を参照すると,現在から見て少し過去の辺りの日本語を「正しい」として,そこからの「変化」を「乱れ」として嘆く人がいることが分かる。「古典文学などに現れて以後まったく使われないようなことばでなく,現代社会の中で生きていることばであれば,今に到るまでに必ずなんらかの変化を受け,また今も変化し続けている--いささかでもことばを観察すれば,それは明らかです。その変化とは,もとの意味・用法からの逸脱です。それを「乱れ」と呼ぶのであれば,ことばはいつも「乱れ」ています。しかし,ことばの正しさとはいつの時点での姿を言うのでしょうか。いまの日本語は乱れているから,奈良時代のことばに戻れ,とおっしゃる方はいません。現在から見て少し過去の辺りの日本語を「正しい」として,そこからの「変化」を「乱れ」として嘆かれるのです」。
私は,言葉の変化を面白く思わない人は,テクスト(text)ではなくコンテクスト(context)を面白く思わないのではないかと思う。地位が低い人は損をしがち,という知見は,同意されると思う。私は,発する言葉は同じであっても,発言者の地位が異なるだけで表出されるやつ当たりとしての攻撃の強度が異なるといった研究を提出したことがある。また,文部科学省が公表している学校教員統計調査を参照すると,教員の平均年齢は,平成元年以降だけを見ても,概して向上している。10代の実習生や20代の教員と年齢が離れた50代の教員比率が増えている。その所謂「老境モード」の教員が,10代の実習生や20代の教員を「若者」と見なし,「気に入らないなあ。」と思うことはポッシブルである。ここで,10代の実習生や20代の教員を「若者」と見なし,「気に入らないなあ。」と思った人は歳を取ったと言うこともポッシブルとなる。しかし,そういうことを私が言うと,おそらく怒り出す人が出てくることもポッシブルである。大学教員としては若手である31歳大学講師の私の発言と,60歳大学教授の発言は,意味が異なるのである。「ポッシブル,ポッシブルって,うるさいなあ。」と思う人がいることもポッシブルである。
私は,蔑称や嫌悪なイメージを連想させる可能性が高い言葉や英語のf-wordやparental advisoryが付されるようなlyricsの運用は意識して抑制するが,普及し始めた新しい言葉は結構使うし,何が良い言葉遣いで何が悪い言葉遣いなのか分からない部分が多い。「マジ」とか「ヤバい」といった語法は慎むべきだという指導が行われている場で,私は,「マジか,ヤバいなあ。俺は普段から使ってるよお。」と思ってしまったこともある。中学校英語の授業で,「マジ?過去と過去完了の違いが分からないの?」は悪くて,「するってぇと何かい?過去と過去完了の違いが分からねぇのかい?」は良いのだろうか。言語表現を丁寧にして,「するってぇと何ですかい?過去と過去完了の違いが分からねぇって言うんですかい?」は良いのだろうか。協議の場で,「所与を知悉したビッグネームから舌鋒鋭く半端ないdisrespect,気圧されると共にプライドは瓦解しもはや阿鼻叫喚,しかし,よく考えると摘示は尤も,ブレイクスルーによって邪な思いと友敵図式がミッシングリンクとともに解消,気分は清冽となり後に高揚,ちっぽけな自分が一回り成長,学恩に感謝今ではマジrespect。」はどうだろう。Hip Hop始めようかな。
言葉の変化を面白く思わない人の存在は,古い資料にも掲載されている。徒然草22段には,次のような記述がある。「何事も,古き世のみぞ慕はしき。今様は,無下にいやしくこそなりゆくめれ。かの木の道の匠の造れる,うつくしき器物も,古代の姿こそをかしと見ゆれ。文の詞などぞ,昔の反古どもはいみじき。ただ言ふ言葉も,口をしうこそなりもてゆくなれ。古は,「車もたげよ」,「火かかげよ」とこそ言ひしを,今様の人は,「もてあげよ」,「かきあげよ」と言ふ。「主殿寮人数立て」と言ふべきを,「たちあかししろくせよ」と言ひ,最勝講の御聴聞所なるをば「御講の廬」とこそ言ふを,「講廬」と言ふ。口をしとぞ,古き人は仰せられし」。「古き人」は,「今様の人」の言葉を「口をし」と言ったらしい。
また,増井元著「辞書の仕事」を参照すると,現在から見て少し過去の辺りの日本語を「正しい」として,そこからの「変化」を「乱れ」として嘆く人がいることが分かる。「古典文学などに現れて以後まったく使われないようなことばでなく,現代社会の中で生きていることばであれば,今に到るまでに必ずなんらかの変化を受け,また今も変化し続けている--いささかでもことばを観察すれば,それは明らかです。その変化とは,もとの意味・用法からの逸脱です。それを「乱れ」と呼ぶのであれば,ことばはいつも「乱れ」ています。しかし,ことばの正しさとはいつの時点での姿を言うのでしょうか。いまの日本語は乱れているから,奈良時代のことばに戻れ,とおっしゃる方はいません。現在から見て少し過去の辺りの日本語を「正しい」として,そこからの「変化」を「乱れ」として嘆かれるのです」。
私は,言葉の変化を面白く思わない人は,テクスト(text)ではなくコンテクスト(context)を面白く思わないのではないかと思う。地位が低い人は損をしがち,という知見は,同意されると思う。私は,発する言葉は同じであっても,発言者の地位が異なるだけで表出されるやつ当たりとしての攻撃の強度が異なるといった研究を提出したことがある。また,文部科学省が公表している学校教員統計調査を参照すると,教員の平均年齢は,平成元年以降だけを見ても,概して向上している。10代の実習生や20代の教員と年齢が離れた50代の教員比率が増えている。その所謂「老境モード」の教員が,10代の実習生や20代の教員を「若者」と見なし,「気に入らないなあ。」と思うことはポッシブルである。ここで,10代の実習生や20代の教員を「若者」と見なし,「気に入らないなあ。」と思った人は歳を取ったと言うこともポッシブルとなる。しかし,そういうことを私が言うと,おそらく怒り出す人が出てくることもポッシブルである。大学教員としては若手である31歳大学講師の私の発言と,60歳大学教授の発言は,意味が異なるのである。「ポッシブル,ポッシブルって,うるさいなあ。」と思う人がいることもポッシブルである。
私は,蔑称や嫌悪なイメージを連想させる可能性が高い言葉や英語のf-wordやparental advisoryが付されるようなlyricsの運用は意識して抑制するが,普及し始めた新しい言葉は結構使うし,何が良い言葉遣いで何が悪い言葉遣いなのか分からない部分が多い。「マジ」とか「ヤバい」といった語法は慎むべきだという指導が行われている場で,私は,「マジか,ヤバいなあ。俺は普段から使ってるよお。」と思ってしまったこともある。中学校英語の授業で,「マジ?過去と過去完了の違いが分からないの?」は悪くて,「するってぇと何かい?過去と過去完了の違いが分からねぇのかい?」は良いのだろうか。言語表現を丁寧にして,「するってぇと何ですかい?過去と過去完了の違いが分からねぇって言うんですかい?」は良いのだろうか。協議の場で,「所与を知悉したビッグネームから舌鋒鋭く半端ないdisrespect,気圧されると共にプライドは瓦解しもはや阿鼻叫喚,しかし,よく考えると摘示は尤も,ブレイクスルーによって邪な思いと友敵図式がミッシングリンクとともに解消,気分は清冽となり後に高揚,ちっぽけな自分が一回り成長,学恩に感謝今ではマジrespect。」はどうだろう。Hip Hop始めようかな。
2015-07-04
道徳
学校教育実践研究2で,中学校における道徳教育の事前指導があった。私は,興味深く拝聴した。以下に,授業を聞いた私なりのまとめを記述する。
2014年12月に開催された文部科学省の「道徳教育の充実に関する懇談会」(今後の道徳教育の改善・充実方策について(報告)新しい時代を,人としてより良く生きる力を育てるために)は,学校教育における道徳教育では「道徳的実践」のカルティヴェイションを重視すべきとしながらも,ハンブルに展開すべきとしている。報告には,「道徳教育の目標について」,「改善の方向」として,「内面的資質としての道徳的実践力が強調されるあまり,道徳教育における実践的な行動力等の育成が軽視されがちな面がある。」とある。そして,「特に,道徳教育の目標は,道徳的な心情のみならず,道徳的な判断力,実践意欲と態度,習慣などの育成も含む総合的なものであり,児童生徒の内面を育てること,さらにその内面の力によって自発的・自律的に道徳的な行為ができるようにすることが重要である。このため,道徳の時間においても,内面的な「道徳的実践力」を育成することにより,将来の具体的な行為としての「道徳的実践」につながるようにすることを明確に意識して取り組むことが重要であることをあわせて示すべきである。」とある。「道徳的実践」にコミットすべきという記述である。評価については,「道徳教育については,一人一人の道徳性を培うものであり,道徳性はきわめて多様な心情,価値,態度等を前提としていることにかんがみれば,数値による評価を行うことは不適切であり,この考え方は引き続き維持すべきである。また,児童生徒の内面そのものを評価の対象としたり,入学者選抜等の他の判断の基礎としたりすることについても厳に慎むべきと考える。一方,現行の学習指導要領でも,児童生徒の道徳性を理解し評価することとされているように,児童生徒の成長の振り返りや指導計画・指導方法の改善のためにも評価は重要であり,その過程を含めて教師と児童生徒とが共有していくことが求められる。その際,教師と児童生徒の温かな人格的な触れ合いなどに基づく共感的な理解の下,児童生徒のよい点や進歩の状況などを積極的に評価するとともに,児童生徒が自らの人間としての生き方についての自覚を深め,人間としてより良く成長していくことを支える評価となるよう十分配慮する必要がある。このような配慮の下,児童生徒の道徳性をより高めていくための資料として,指導要録の中に,例えば,児童生徒の学習の様子を記録し,その意欲や可能性をより引き出したり,励まし勇気付けたりするような記述式の欄を設けることや,指導要録の「行動の記録」の欄をより効果的に活用する方策など,道徳教育の目標や内容を踏まえながら,その特性を生かした多様な評価の方法について検討すべきである。」とある。
道徳の位置付けに関する議論は面白い。事前指導では,レクチャーを担当した大学教員が,「「教科,道徳,総合的な学習の時間,特別活動の4分類から道徳が教科に組み込まれることを以って,格上げと言ってよいのか,教科に組み込まれる格下げではないのか。」という議論がある。」と提示していた。加えて,「「そもそも格があるのか。」という議論もある。」と続けた。なるほど。毎日新聞2015年7月4日朝刊では,「「道徳」教科化」という見出しで,道徳の教科への「格上げ」がフィーチャーされていた。毎日新聞としては格があると考え,かつ,教科に組み込まれることが格上げと考えていることを示している。
「道徳教育は道徳的に。」と私は思う。上記の「道徳教育の充実に関する懇談会」の言葉で言えば,道徳的実践力を強引に道徳的実践に結びつけるような教育は道徳的ではないと思う。極端な行動主義的道徳教育は,実践重視になり,困っている人がいたら助けるビヘイヴィアを採択することを強要しかねない。また,そのビヘイヴィアを採択しなければギルティに感じることを強要しかねない。電車やバスで,高齢者やサポートを要する人に座席を譲るかどうかについて迷う人は多いと思う。高齢人口が年年増える日本社会において,所謂「元気なご老人」は,座席を譲られて不快感を示すことがある。「頑固なご老人」は,怒り出すかもしれない。座席を譲って相手を不快にしてしまうこと,場合によっては相手が怒り出してしまうことを勘案して逡巡し,座席を譲るか否か思案した結果として行動できないでいる人は,私は十分に道徳的だと思う。ソーシャルスキル(social skills,社会的スキル)という概念がある。ソーシャルスキル研究は,社会的適応の文脈などで介入研究を展開する中で,ソーシャルスキルを内在化させているが外在化させない人間がいることを明らかにしてきた。すなわち,ソーシャルスキルは持っているものの実際には行動に移さない人間がいることを明らかにしてきた。行動レヴェルで定量すると,ソーシャルスキルを内在化させているが外在化させない人間は,ソーシャルスキルが低い人間ということになる。あいさつは相手に伝わるように明瞭にした方が良いと思うし,困っている人がいたら基本的には援助した方が良いと思う。しかし,行動レヴェルで定量されるソーシャルスキルが全てではない。国語の試験であれば,「設問の熟語は知っていたけど書かなかっただけだ。」という主張は虚しく響くが,道徳では「行動に移すかどうか迷った結果従事しなかった。」という主張はフィージブルだと思う。教育実習部会には,哲学の教員がいる。私は,「哲学者によって見解は異なることは承知していますが」と断りを入れた上で,哲学領域における道徳の見解を訪ねた。その結果,「Prof. Immanuel Kantは,動機が重要だと指摘します。」というアンサーを得た。今日の食事に困る人がおり,施し(give)をしたいとは思うが,施しをすると自分が今日の食事に困ってしまうため施すことができない場合がある。Prof. Kantは,施したいという動機を道徳において重視するという。参考情報を書く。私が大学院生の時,研究室の先輩が,攻撃行動に対する幼児の善悪判断に関する研究を展開していた。その関係で,私は,攻撃行動と道徳の関係に関心がある。先輩は,一連の研究によって,攻撃行動に対する善悪判断は,幼児期の段階において防衛,報復,擁護,制裁などの動機や目的を勘案して行われるようになることを示した。義務教育を受ける前の段階で,幼児は状況に応じて善悪判断を違えるようになる。
ここでひとつ,道徳的課題が浮かび上がる。7月に入り,公立学校教員試験のシーズンとなった。島根大学教育学部の掲示板にも,平成28年度採用の公立学校教員募集ポスターがいくつか掲示されている。公立学校教員募集は,都道府県を主とする自治体ごとの募集が基本である。TVや新聞は,各自治体が「優秀な人材」を確保するために積極的な活動を展開している旨を報道する。さて,「優秀な人材」を囲い込んだ結果,他の自治体に「劣等な人材」が溢れてもよいのだろうか。教員採用を行う教職員は,教員採用の道徳をどのように考えているのだろうか。因みに,平成28年度採用島根県公立学校教員募集ポスターは,しまねっこを起用した写真に,「しまねっこの先生になる」というなんだかよく分からないコピーを付した仕上がりとなっている。島根県に「優秀な人材」を囲い込むことを記さない点においては,なんだかよく分からないが道徳的なコピーと言える。
2014年12月に開催された文部科学省の「道徳教育の充実に関する懇談会」(今後の道徳教育の改善・充実方策について(報告)新しい時代を,人としてより良く生きる力を育てるために)は,学校教育における道徳教育では「道徳的実践」のカルティヴェイションを重視すべきとしながらも,ハンブルに展開すべきとしている。報告には,「道徳教育の目標について」,「改善の方向」として,「内面的資質としての道徳的実践力が強調されるあまり,道徳教育における実践的な行動力等の育成が軽視されがちな面がある。」とある。そして,「特に,道徳教育の目標は,道徳的な心情のみならず,道徳的な判断力,実践意欲と態度,習慣などの育成も含む総合的なものであり,児童生徒の内面を育てること,さらにその内面の力によって自発的・自律的に道徳的な行為ができるようにすることが重要である。このため,道徳の時間においても,内面的な「道徳的実践力」を育成することにより,将来の具体的な行為としての「道徳的実践」につながるようにすることを明確に意識して取り組むことが重要であることをあわせて示すべきである。」とある。「道徳的実践」にコミットすべきという記述である。評価については,「道徳教育については,一人一人の道徳性を培うものであり,道徳性はきわめて多様な心情,価値,態度等を前提としていることにかんがみれば,数値による評価を行うことは不適切であり,この考え方は引き続き維持すべきである。また,児童生徒の内面そのものを評価の対象としたり,入学者選抜等の他の判断の基礎としたりすることについても厳に慎むべきと考える。一方,現行の学習指導要領でも,児童生徒の道徳性を理解し評価することとされているように,児童生徒の成長の振り返りや指導計画・指導方法の改善のためにも評価は重要であり,その過程を含めて教師と児童生徒とが共有していくことが求められる。その際,教師と児童生徒の温かな人格的な触れ合いなどに基づく共感的な理解の下,児童生徒のよい点や進歩の状況などを積極的に評価するとともに,児童生徒が自らの人間としての生き方についての自覚を深め,人間としてより良く成長していくことを支える評価となるよう十分配慮する必要がある。このような配慮の下,児童生徒の道徳性をより高めていくための資料として,指導要録の中に,例えば,児童生徒の学習の様子を記録し,その意欲や可能性をより引き出したり,励まし勇気付けたりするような記述式の欄を設けることや,指導要録の「行動の記録」の欄をより効果的に活用する方策など,道徳教育の目標や内容を踏まえながら,その特性を生かした多様な評価の方法について検討すべきである。」とある。
道徳の位置付けに関する議論は面白い。事前指導では,レクチャーを担当した大学教員が,「「教科,道徳,総合的な学習の時間,特別活動の4分類から道徳が教科に組み込まれることを以って,格上げと言ってよいのか,教科に組み込まれる格下げではないのか。」という議論がある。」と提示していた。加えて,「「そもそも格があるのか。」という議論もある。」と続けた。なるほど。毎日新聞2015年7月4日朝刊では,「「道徳」教科化」という見出しで,道徳の教科への「格上げ」がフィーチャーされていた。毎日新聞としては格があると考え,かつ,教科に組み込まれることが格上げと考えていることを示している。
「道徳教育は道徳的に。」と私は思う。上記の「道徳教育の充実に関する懇談会」の言葉で言えば,道徳的実践力を強引に道徳的実践に結びつけるような教育は道徳的ではないと思う。極端な行動主義的道徳教育は,実践重視になり,困っている人がいたら助けるビヘイヴィアを採択することを強要しかねない。また,そのビヘイヴィアを採択しなければギルティに感じることを強要しかねない。電車やバスで,高齢者やサポートを要する人に座席を譲るかどうかについて迷う人は多いと思う。高齢人口が年年増える日本社会において,所謂「元気なご老人」は,座席を譲られて不快感を示すことがある。「頑固なご老人」は,怒り出すかもしれない。座席を譲って相手を不快にしてしまうこと,場合によっては相手が怒り出してしまうことを勘案して逡巡し,座席を譲るか否か思案した結果として行動できないでいる人は,私は十分に道徳的だと思う。ソーシャルスキル(social skills,社会的スキル)という概念がある。ソーシャルスキル研究は,社会的適応の文脈などで介入研究を展開する中で,ソーシャルスキルを内在化させているが外在化させない人間がいることを明らかにしてきた。すなわち,ソーシャルスキルは持っているものの実際には行動に移さない人間がいることを明らかにしてきた。行動レヴェルで定量すると,ソーシャルスキルを内在化させているが外在化させない人間は,ソーシャルスキルが低い人間ということになる。あいさつは相手に伝わるように明瞭にした方が良いと思うし,困っている人がいたら基本的には援助した方が良いと思う。しかし,行動レヴェルで定量されるソーシャルスキルが全てではない。国語の試験であれば,「設問の熟語は知っていたけど書かなかっただけだ。」という主張は虚しく響くが,道徳では「行動に移すかどうか迷った結果従事しなかった。」という主張はフィージブルだと思う。教育実習部会には,哲学の教員がいる。私は,「哲学者によって見解は異なることは承知していますが」と断りを入れた上で,哲学領域における道徳の見解を訪ねた。その結果,「Prof. Immanuel Kantは,動機が重要だと指摘します。」というアンサーを得た。今日の食事に困る人がおり,施し(give)をしたいとは思うが,施しをすると自分が今日の食事に困ってしまうため施すことができない場合がある。Prof. Kantは,施したいという動機を道徳において重視するという。参考情報を書く。私が大学院生の時,研究室の先輩が,攻撃行動に対する幼児の善悪判断に関する研究を展開していた。その関係で,私は,攻撃行動と道徳の関係に関心がある。先輩は,一連の研究によって,攻撃行動に対する善悪判断は,幼児期の段階において防衛,報復,擁護,制裁などの動機や目的を勘案して行われるようになることを示した。義務教育を受ける前の段階で,幼児は状況に応じて善悪判断を違えるようになる。
ここでひとつ,道徳的課題が浮かび上がる。7月に入り,公立学校教員試験のシーズンとなった。島根大学教育学部の掲示板にも,平成28年度採用の公立学校教員募集ポスターがいくつか掲示されている。公立学校教員募集は,都道府県を主とする自治体ごとの募集が基本である。TVや新聞は,各自治体が「優秀な人材」を確保するために積極的な活動を展開している旨を報道する。さて,「優秀な人材」を囲い込んだ結果,他の自治体に「劣等な人材」が溢れてもよいのだろうか。教員採用を行う教職員は,教員採用の道徳をどのように考えているのだろうか。因みに,平成28年度採用島根県公立学校教員募集ポスターは,しまねっこを起用した写真に,「しまねっこの先生になる」というなんだかよく分からないコピーを付した仕上がりとなっている。島根県に「優秀な人材」を囲い込むことを記さない点においては,なんだかよく分からないが道徳的なコピーと言える。
2015-07-01
傘の話
梅雨なので傘の話をふたつ書く。傘を貸す話と傘を借りる話である。
傘を貸す話を書く。私は研究室に傘を数本ストックしている。大学に来る時に雨が降っていなくて大学に来てから雨が降った時には,ストックしている傘を用いて学内を移動したり,帰宅したりする。大学に来る時に雨が降っていて大学に来てから雨が止んだ時には,持ってきた傘をストックする。研究室によく傘を借りに来る学生がいる。彼は,大学に来る時に雨が降っていなくて,大学に来てから雨が降った時に傘を借りに来る。私は,どうぞどうぞと貸してあげる。先日も,彼は傘を借りに研究室にやって来た。私は,「好きな傘を持って行っていいよ。」と言う。彼は,「1番安い傘を貸してください。」と尋ねる。私は,「どれも200円や300円で,同じようなものだ。」と応える。学生は1番大きな傘を持って行った。
傘を借りる話を書く。雨が降ったある日,学生から返ってきた傘を差して学食に向かった。傘立てに傘を立て,学食で食事をした。食事を終えて,傘立てを見ると,私の傘が無くなっていることに気付いた。私は,5秒ほど,その場で固まってしまった。私の視界で傘がフラッシュしているような感覚があった。アニメなどで描写される,そこにあるはずのものが無くなってしまった時にフラッシュするあの感じだった。誰かが間違って私の傘を帯出したのだと思った。盗まれたとは思わない。私は性善説を採択しているし,その日は朝から雨だったので,「雨が降り出したからこの傘をもらってしまおう。」というサムワンのビヘイヴィアは想像しにくいし,200円や300円の傘なので同じような傘は巷に溢れている。たぶん,もう,私の手元には戻って来ない。仕方がないので,私は,教育学部棟まで最も雨に濡れないルートを通って研究室に戻ることにした。私は,普段,第1食堂で昼食を食べる。島根大学には,第1食堂に加えて第2食堂がある。第2食堂は,第1食堂に隣接し,かつ,第1食堂よりも教育学部棟側に建っている。教育学部棟側に建っているのに私が第1食堂を利用する理由は,第1食堂のメニュがより豊富なためである。私は,第1食堂から第2食堂に入り,通り抜けた。食堂内には通路や廊下のようなサムシングはない。食事時に通り抜けるために食堂内に入るのは推奨されることではないが,今回は非常なので許して欲しい。第2食堂と教育学部棟の間はおよそ60mほどある。途中,大学ホールという数百人を収容できる講演や講義に使えるホールがある。そこのエントランスは雨を凌ぐことができる。その長さは10mほどなので,50mほどをなんとか駆け抜ければよい。私は昼食時には,論文を持参する。研究テーマに関連する論文,興味関心から読みたい論文,興味関心はないが授業の関係で参照すべき論文まで,内容は様様である。論文は,ファイルに入れて持ち歩く。私は,論文をファイルから取り出し,ファイルと論文で雨を凌ぐことにした。ちょうど,論文は読み切ったところだったので,濡れても支障はない。そもそも,論文データはPDFで保存してある。私は準備を整えた。そして,第2食堂から駆け出した。駆け出した瞬間,傘を指して教育学部棟方面に歩いている見覚えのある学生に気付いた。人間生活環境教育専攻の学生だった。私は,彼女に声を掛け,一瞬で事情を説明し,傘に入れてもらった。教育学部棟まで傘の半分を借りた。ほとんど濡れずに済んだ。ありがとう。
傘を貸す話を書く。私は研究室に傘を数本ストックしている。大学に来る時に雨が降っていなくて大学に来てから雨が降った時には,ストックしている傘を用いて学内を移動したり,帰宅したりする。大学に来る時に雨が降っていて大学に来てから雨が止んだ時には,持ってきた傘をストックする。研究室によく傘を借りに来る学生がいる。彼は,大学に来る時に雨が降っていなくて,大学に来てから雨が降った時に傘を借りに来る。私は,どうぞどうぞと貸してあげる。先日も,彼は傘を借りに研究室にやって来た。私は,「好きな傘を持って行っていいよ。」と言う。彼は,「1番安い傘を貸してください。」と尋ねる。私は,「どれも200円や300円で,同じようなものだ。」と応える。学生は1番大きな傘を持って行った。
傘を借りる話を書く。雨が降ったある日,学生から返ってきた傘を差して学食に向かった。傘立てに傘を立て,学食で食事をした。食事を終えて,傘立てを見ると,私の傘が無くなっていることに気付いた。私は,5秒ほど,その場で固まってしまった。私の視界で傘がフラッシュしているような感覚があった。アニメなどで描写される,そこにあるはずのものが無くなってしまった時にフラッシュするあの感じだった。誰かが間違って私の傘を帯出したのだと思った。盗まれたとは思わない。私は性善説を採択しているし,その日は朝から雨だったので,「雨が降り出したからこの傘をもらってしまおう。」というサムワンのビヘイヴィアは想像しにくいし,200円や300円の傘なので同じような傘は巷に溢れている。たぶん,もう,私の手元には戻って来ない。仕方がないので,私は,教育学部棟まで最も雨に濡れないルートを通って研究室に戻ることにした。私は,普段,第1食堂で昼食を食べる。島根大学には,第1食堂に加えて第2食堂がある。第2食堂は,第1食堂に隣接し,かつ,第1食堂よりも教育学部棟側に建っている。教育学部棟側に建っているのに私が第1食堂を利用する理由は,第1食堂のメニュがより豊富なためである。私は,第1食堂から第2食堂に入り,通り抜けた。食堂内には通路や廊下のようなサムシングはない。食事時に通り抜けるために食堂内に入るのは推奨されることではないが,今回は非常なので許して欲しい。第2食堂と教育学部棟の間はおよそ60mほどある。途中,大学ホールという数百人を収容できる講演や講義に使えるホールがある。そこのエントランスは雨を凌ぐことができる。その長さは10mほどなので,50mほどをなんとか駆け抜ければよい。私は昼食時には,論文を持参する。研究テーマに関連する論文,興味関心から読みたい論文,興味関心はないが授業の関係で参照すべき論文まで,内容は様様である。論文は,ファイルに入れて持ち歩く。私は,論文をファイルから取り出し,ファイルと論文で雨を凌ぐことにした。ちょうど,論文は読み切ったところだったので,濡れても支障はない。そもそも,論文データはPDFで保存してある。私は準備を整えた。そして,第2食堂から駆け出した。駆け出した瞬間,傘を指して教育学部棟方面に歩いている見覚えのある学生に気付いた。人間生活環境教育専攻の学生だった。私は,彼女に声を掛け,一瞬で事情を説明し,傘に入れてもらった。教育学部棟まで傘の半分を借りた。ほとんど濡れずに済んだ。ありがとう。
2015-06-27
トビウオ
松江に来てから,山陰名産で,島根県の「県の魚」でもあるトビウオが好きになり,刺身でよく食べる。トビウオの刺身の何が好きかと言えば,食感と味である。私の評定では,トビウオの身の柔らかさは,moderateから柔らかいの間くらいである。私は,少し厚めの刺身が好きである。食物の味は,舌の味覚受容体に食物が接触することで知覚される。味覚受容体への接触体積が大きい程,味を感じやすい。私は,口の中で5秒ほど味わう食べ方が好きである。トビウオはどういう味かと問われると,私は答えに窮する。魚に詳しくない私が持つ魚の味に関するヴォキャブラリは乏しい。春先に視聴したNHK総合テレビ「ためしてガッテン」の知見に依ると,魚の味の多くは脂に含まれており,脂を感じにくく刺すと味の差異性は小さくなる。実際,出演者は,脂を感じにくく刺したサーモン,マグロ,アジの刺身を食べた結果,同定することができなかった。そんなこともあって,私はトビウオが好きだというシンプルな個人的感受性を記述するに留める。「トビウオが好きだ。」,よい響きだ。気になる方は是非食していただきたい。トビウオに関する先日あった話をひとつ書く。夕食を作るべく買い物に出掛け,食材と一緒に朝獲れのトビウオの刺身を購入した。帰宅して,プレミアムモルツを飲み,夕食の煮物を作りながら,歌って踊っていた。歌って踊っているうちに,煮物が完成した。そうこうしているうちに,私は,トビウオの刺身を購入したことを忘れてしまった。冷蔵庫には,刺身が取り残された。翌朝,そのトビウオの刺身を食べた。美味しかった。何の話だよ。
2015-06-25
アフォーダンスと環境構成
学生が授業でプロジェクションを用いない発表を行う際,プレゼンテイションテーブルの配置を教壇下の教卓前の中央に配置する工夫をしている。アフォーダンス(affordance)というDr. James Jerome Gibsonの造語がある。有斐閣心理学辞典によると,アフォーダンスは,環境世界が知覚者に対して与えるものである。Dr. Gibsonは,環境世界は,人間や動物にとって,たんなる物質的な存在ではなく,直接的に意味や価値を提供(アフォード)するものであると考える。平凡社最新心理学事典によると,アフォーダンスは,動物との関係において意味をなす環境の特性である。アフォーダンスは,人が事物をどのように使うことができるかを事物側から提示され決定を促される最も基礎的な特徴を意味する。これらの知見に従うと,プレゼンテイションテーブルは,その前面に立ち,資料を据え,プレゼンテイションを行うことをアフォードすると言える。プレゼンテイションのために作られたのだから,当然と言えば当然である。プレゼンテイションテーブルのアフォーダンスは,知覚者のビヘイヴィアと置かれる場所に影響を受ける。知覚には個人差があり,知覚されなければアフォードもされない。学生が授業でブリーフィングに近いプレゼンテイションを行う際,「教卓かプレゼンテイションテーブルのどちらか好きな方を使っておくれ。」と私が伝えると,教卓もプレゼンテイションテーブルも使わず,教卓前に立ち,資料を手に持ち,プレゼンテイションを行う学生が続出した。中には,教卓を使う学生もいたが,ほとんどの学生はどちらも使わなかった。受講生にはハンブルな学生が多いらしい。教卓は教壇下の中央に,プレゼンテイションテーブルは教壇下の比較的端の方に,それぞれ配置されていた。教卓は,私の目測で,高さ120cm,幅150cm,奥行き70cmほどある。教卓を使うと,少し仰仰しい。学生に尋ねると,やはり仰仰しいから使いにくいと応えた。プレゼンテイションテーブルは,高さ100cm,幅40cm,奥行き40cmほどである。教卓と比較するとアヴェイラブルな感じである。フロアの聞き手にクールな印象を与えることもできる。私はプレゼンテイションテーブルを教壇下の教卓前の中央に配置することにした。すると,学生たちは,プレゼンテイションテーブルを使うようになった。学部の授業「子どもの発達と環境」では,環境構成の重要性を議論する。プレゼンテイションテーブルの配置の工夫は,私の授業における環境構成である。尚,教壇下の教卓前の中央に配置されたプレゼンテイションテーブルを使わず,その隣でプレゼンテイションをする学生もいた。それでいい,アフォードされ,かつ,使いたい人が使えばいい。
2015-06-18
学校教育実習3の実習生終礼および朝礼におけるコメント
島根大学教育学部附属中学校における学校教育実習3の実習生終礼および朝礼において提供した大学教員としてのコメントを記述する。コメントしたのは2週間ほど前である。学校教育実習3は,1週間の日程で展開された。教育実習部会に所属していると,学校教育実習における実習生朝礼や終礼に大学教員として出席し,実習生の出欠や体調の確認をし,教育学部と教育学部附属学校園の連絡を繋ぎ,実習生が輪番で担当する日直や島根大学教育学部附属学校園の教諭のコメントに続いて大学教員としてコメントする必要がある。私は,木曜日の終礼と,金曜日の朝礼に出席した。すなわち,最終日を翌日に控えた終礼と,最終日の朝礼に出席した。コメントを順に記す。
「これまでの経験を明日最終日,今後の教育実習,さらにはキャリアデザインに活かして欲しい。教職志望の人も,教職志望でない人も,教育実習で得た知見はキャリアにインパクトを及ぼすと思う。体調管理の際は,心と体の調子は関連するという心身相関を考慮し行動調整するとよい。幸い,教育学部で集団で教育実習を展開しているので,たくさんの実習生仲間がいる,サポートし合うと良い。」
「前日の終礼に連続するのであえて違えてコメントすると,快晴の前日と比較して今日は天候が曇雨の予報なので,生徒および実習生自身の活動水準が比較的低くなることを考慮して行動調整すると良い。開くと,今日は日照が弱く,また,前日との対比効果(contrast effect)もあって,セロトニン分泌量が低下して生理的主観的に活動水準が比較的低くなり,生徒の授業への関心や意欲が低下することが考えられる。学習指導に活かして欲しい。最終日なので,別れを惜しむには適した天候かもしれない。あまりそういうことを言うと冷めてしまうかもしれないから,この辺で。」
実習生終礼および朝礼において大学教員としてコメントするのは初めての経験なので,コメントの草案作成の際には,事前に学部教員と学生に相談した。教育実習部会に所属したことがある同僚にアドヴァイスを求めた。教員は,淡野の学術的背景を活かしたコメントが良いだろう,というアンサーを提供した。終礼や朝礼は,教科教育の微細を議論する場ではない。また,教科教育や学校園における学習指導は教諭の方が専門性が高い。自身の学術的背景を活かしたコメントが適応的である。なるほど。島根大学教育学部の一連の教育実習を修めた大学院生に教育実習のことを訊いた。大学院生は,大学教員から言われることを実習生は分かっている,と応えた。大学教員から提供される,実習に際しての諸注意や残り何日だから頑張れといった励ましを,実習生は分かっているというのである。なるほど。ゼミ生に教育実習のことを訊いた。ゼミ生は,学校教育実習3は学校教育実習4に接続する位置付けにあるため展望的コメントを提供してはどうか,と応えた。なるほど。
同僚と学生の話を受けて,心理学の話と教職志向性に依存しない展望的話を提供するに至った。大学教員なのだから,教育実習に際してもアカデミックな話をするのは常識である。また,教科教育や学習指導に不用意に言及することは,大学附属学校園や教育学部附属学校園の教諭と大学教員の不和を生じさせる可能性があることも広く知られている。そこで,私は,心理学的な話をすることとした。私は,心身相関の件は,実習生も自覚してはいるだろうが,明確な知見として提供することは意義があると考えた。そして,実習生仲間が多いことをソーシャルサポートのリソースが豊富であると捉える視点を提供し,有意義な時間を過ごして欲しいとメッセージした。加えて,教職志向性に依存しない展望的話をすることとした。大学では,教職志望でない学生から,「大学の講義でも実習先の教諭の話でも,教員になることを前提として話が進むので,面白くないことがあります。」という趣旨の嘆きのようなサムシングが聞こえてくる。島根大学教育学部は,鳥取大学との定員交換による組織再編を全国で初めて実現し,2004年度より山陰地域唯一の教員養成特化型学部となった教員養成系の教育学部である。教員の講義が学生を教員志望と前提して展開されることは何もおかしくはない。ただ,文部科学省が公開している教員養成分野のミッションの再定義を一覧すると,日本の国立大学法人の教員養成系の学部であっても,教員採用率や占有率の数値目標を過度に高く設定しているところはない。当然であるが,学生全員が教員になることも,学生全員を教員にしたいとも,考えていないのである。学生は,教員養成系の学部で修学した結果教職志望を改めることもある。2015年春の島根大学教育学部の卒業生進路内訳を参照すると,卒業生155人のうち,幼稚園,小学校,中学校,高等学校,特別支援学校の教員となった人数は101人,保育所に進んだ人数は1人だった。つまり,卒業生の35%は教職もしくは養護以外のキャリア選択を行っている。いくら教員養成系の学部であっても,講義や教員の話が教職に偏るのは面白くない。もちろん,大学院進学後に教職に就く学生もいるだろうが,35%という割合は3分の1という割合であり,小さくない。そこで,「これまでの経験を明日最終日,今後の教育実習,さらにはキャリアデザインに活かして欲しい。教職志望の人も,教職志望でない人も,教育実習で得た知見はキャリアにインパクトを及ぼすと思う。」とコメントした。教育実習で教職志望を改める学生もいる。私は,恐らくマイノリティではあるが,彼彼女たちにも有益なメッセージをしたいと考えた。私の経験では,天候によって人間のビヘイヴィアが影響を受けることについて,言われてみればなるほど,と思う学生は意外にも多い。この方針を採択した理由は,他にもある。実習生たちは,すでに厳格な指導を何度も受けている。島根大学教育学部は,実習生として望ましいとされる立ち居振る舞いやメンタルセットを1年次前期から学生にメッセージしている。私が改めてコメントすることはない。毎回の朝礼および終礼における大学教員のコメントは,実習部会のメーリングリストで部会員に送信される。メールを参照すると,プラクティカルな話は,私が担当するまでに他の学部教員がメッセージしてくれていた。私は相対的な人間である。他の教員が言っていないことを選択的にメッセージすることとした。終礼と朝礼のために実習生控え室に入った時,時間があったので比較的近しい実習生と話をすると,両日,大学院生と同様に,実習に際しての諸注意やあと何日だから頑張れという励ましを分かっているという意見を得た。例外なく,実習生たちはそう応えた。メタ的視点から教育実習を俯瞰できていた。私は,木曜日は気分転換にオールバックのルックにしていた。学生の中には,「淡野先生の髪型で私たちはざわついています。」という,なんだかよく分からない報告をする余裕がある学生もいた。世の中には,言うべきこと,指導するべきことがある。しかし,言うべきことを言い続けること,指導するべきことを指導し続けることは,言わないとできなくなることや指導しないとできなくなることを強化する背理を含有する。厳格な指導にコミットする学部教員が,過去の経験から言い続けるビヘイヴィアや指導し続けるビヘイヴィアを採択している事情は推測できるし了解できる。そんな中で,私は,実習生の主体性に委ねる選択をした。終礼の際には,「明日の朝礼も私が担当する。連続するため,同じようなことを言うかもしれない。」と言った。実習生たちは笑った。また,翌日の朝礼の際には,「前日の終礼に連続するのであえて違えてコメントすると」と付言した。実習生たちは笑った。実習生の教育実習に際したメタ認知を刺激できたと自負している。
「これまでの経験を明日最終日,今後の教育実習,さらにはキャリアデザインに活かして欲しい。教職志望の人も,教職志望でない人も,教育実習で得た知見はキャリアにインパクトを及ぼすと思う。体調管理の際は,心と体の調子は関連するという心身相関を考慮し行動調整するとよい。幸い,教育学部で集団で教育実習を展開しているので,たくさんの実習生仲間がいる,サポートし合うと良い。」
「前日の終礼に連続するのであえて違えてコメントすると,快晴の前日と比較して今日は天候が曇雨の予報なので,生徒および実習生自身の活動水準が比較的低くなることを考慮して行動調整すると良い。開くと,今日は日照が弱く,また,前日との対比効果(contrast effect)もあって,セロトニン分泌量が低下して生理的主観的に活動水準が比較的低くなり,生徒の授業への関心や意欲が低下することが考えられる。学習指導に活かして欲しい。最終日なので,別れを惜しむには適した天候かもしれない。あまりそういうことを言うと冷めてしまうかもしれないから,この辺で。」
実習生終礼および朝礼において大学教員としてコメントするのは初めての経験なので,コメントの草案作成の際には,事前に学部教員と学生に相談した。教育実習部会に所属したことがある同僚にアドヴァイスを求めた。教員は,淡野の学術的背景を活かしたコメントが良いだろう,というアンサーを提供した。終礼や朝礼は,教科教育の微細を議論する場ではない。また,教科教育や学校園における学習指導は教諭の方が専門性が高い。自身の学術的背景を活かしたコメントが適応的である。なるほど。島根大学教育学部の一連の教育実習を修めた大学院生に教育実習のことを訊いた。大学院生は,大学教員から言われることを実習生は分かっている,と応えた。大学教員から提供される,実習に際しての諸注意や残り何日だから頑張れといった励ましを,実習生は分かっているというのである。なるほど。ゼミ生に教育実習のことを訊いた。ゼミ生は,学校教育実習3は学校教育実習4に接続する位置付けにあるため展望的コメントを提供してはどうか,と応えた。なるほど。
同僚と学生の話を受けて,心理学の話と教職志向性に依存しない展望的話を提供するに至った。大学教員なのだから,教育実習に際してもアカデミックな話をするのは常識である。また,教科教育や学習指導に不用意に言及することは,大学附属学校園や教育学部附属学校園の教諭と大学教員の不和を生じさせる可能性があることも広く知られている。そこで,私は,心理学的な話をすることとした。私は,心身相関の件は,実習生も自覚してはいるだろうが,明確な知見として提供することは意義があると考えた。そして,実習生仲間が多いことをソーシャルサポートのリソースが豊富であると捉える視点を提供し,有意義な時間を過ごして欲しいとメッセージした。加えて,教職志向性に依存しない展望的話をすることとした。大学では,教職志望でない学生から,「大学の講義でも実習先の教諭の話でも,教員になることを前提として話が進むので,面白くないことがあります。」という趣旨の嘆きのようなサムシングが聞こえてくる。島根大学教育学部は,鳥取大学との定員交換による組織再編を全国で初めて実現し,2004年度より山陰地域唯一の教員養成特化型学部となった教員養成系の教育学部である。教員の講義が学生を教員志望と前提して展開されることは何もおかしくはない。ただ,文部科学省が公開している教員養成分野のミッションの再定義を一覧すると,日本の国立大学法人の教員養成系の学部であっても,教員採用率や占有率の数値目標を過度に高く設定しているところはない。当然であるが,学生全員が教員になることも,学生全員を教員にしたいとも,考えていないのである。学生は,教員養成系の学部で修学した結果教職志望を改めることもある。2015年春の島根大学教育学部の卒業生進路内訳を参照すると,卒業生155人のうち,幼稚園,小学校,中学校,高等学校,特別支援学校の教員となった人数は101人,保育所に進んだ人数は1人だった。つまり,卒業生の35%は教職もしくは養護以外のキャリア選択を行っている。いくら教員養成系の学部であっても,講義や教員の話が教職に偏るのは面白くない。もちろん,大学院進学後に教職に就く学生もいるだろうが,35%という割合は3分の1という割合であり,小さくない。そこで,「これまでの経験を明日最終日,今後の教育実習,さらにはキャリアデザインに活かして欲しい。教職志望の人も,教職志望でない人も,教育実習で得た知見はキャリアにインパクトを及ぼすと思う。」とコメントした。教育実習で教職志望を改める学生もいる。私は,恐らくマイノリティではあるが,彼彼女たちにも有益なメッセージをしたいと考えた。私の経験では,天候によって人間のビヘイヴィアが影響を受けることについて,言われてみればなるほど,と思う学生は意外にも多い。この方針を採択した理由は,他にもある。実習生たちは,すでに厳格な指導を何度も受けている。島根大学教育学部は,実習生として望ましいとされる立ち居振る舞いやメンタルセットを1年次前期から学生にメッセージしている。私が改めてコメントすることはない。毎回の朝礼および終礼における大学教員のコメントは,実習部会のメーリングリストで部会員に送信される。メールを参照すると,プラクティカルな話は,私が担当するまでに他の学部教員がメッセージしてくれていた。私は相対的な人間である。他の教員が言っていないことを選択的にメッセージすることとした。終礼と朝礼のために実習生控え室に入った時,時間があったので比較的近しい実習生と話をすると,両日,大学院生と同様に,実習に際しての諸注意やあと何日だから頑張れという励ましを分かっているという意見を得た。例外なく,実習生たちはそう応えた。メタ的視点から教育実習を俯瞰できていた。私は,木曜日は気分転換にオールバックのルックにしていた。学生の中には,「淡野先生の髪型で私たちはざわついています。」という,なんだかよく分からない報告をする余裕がある学生もいた。世の中には,言うべきこと,指導するべきことがある。しかし,言うべきことを言い続けること,指導するべきことを指導し続けることは,言わないとできなくなることや指導しないとできなくなることを強化する背理を含有する。厳格な指導にコミットする学部教員が,過去の経験から言い続けるビヘイヴィアや指導し続けるビヘイヴィアを採択している事情は推測できるし了解できる。そんな中で,私は,実習生の主体性に委ねる選択をした。終礼の際には,「明日の朝礼も私が担当する。連続するため,同じようなことを言うかもしれない。」と言った。実習生たちは笑った。また,翌日の朝礼の際には,「前日の終礼に連続するのであえて違えてコメントすると」と付言した。実習生たちは笑った。実習生の教育実習に際したメタ認知を刺激できたと自負している。
2015-06-13
園内研究会における共同研究者としてのスピーチ 2015年6月
島根大学教育学部附属幼稚園における園内研究会で共同研究者としてコメントしたので,2クラスの保育について,クラスごとのコメントと総じたコメントの内容を記す。ただ,以下の文章は,回想に基づいた,ブリーフな概ねの内容である。クラスは,ともに4歳児クラスである。
「ひとつは,朝の共有活動における1日の活動の提示は,子どもが1日の活動を見通すことを可能にする点において認知心理学的に有効と言えます。朝の共有活動,自分でみつけた遊び,遊びの後の共有活動,片付け,昼食,片付け,降園といった活動の流れを朝の段階で提示することで,子どもはいつ何をするのか把握することができ,行動選択や活動展開をスムースにすると考えられます。先生は自己評価の際に,子どもが「昼食はまだなの?」と言って,自分でみつけた遊びや遊びの後の共有活動において昼食に気が向いてしまう点が短所だと言われました。もちろん,4歳児は成人と比較すると認知機能が劣っており,提示内容を全て把握できなかったり,当該活動以外の活動に気が向いてしまったりすることもあります。先生は,ホワイトボードに活動内容を記述することに加えて文字だけでなく具体的な絵を用いて活動内容を明示され,また,1日の活動内容の提示を毎日繰り返されているということで,子どもたちは習慣として内容提示を内面化し,提示内容を把握できると考えられます。
ひとつは,朝の共有活動における「わくわくタイム」や「わくわくマン」のコンセプトが議論に上がりましたが,子どもが抱く「自分でみつけた遊びを今日も展開したい」という感覚や「(季節感のあるものに触れるという観点から製造している)梅ジュースの変化が日日楽しみである」という感覚が,「わくわく」という感覚であることを提示すること自体が教育となります。心やその働きは,言われて初めて気付くことがあります。心理学は,心とその働きを研究します。心理学は,心とその働きを操作的に定義し,言語化することで,目に見えないことが少なくない心とその働きを研究対象とし,人間や生物に対する理解範囲を拡大します。大学で心理学を教授すると,学生から「あの感覚は心理学ではこう説明できるんですね,今まで不思議に思っていたことが腑に落ちました。」とか,「言われてみるとなるほどと思いました。」といった声が聞かれます。シンプルに,感覚の名前を伝えることが教育になります。これは,情操教育にもリンクすると考えます。
ひとつは,担任の先生と学年担任の先生の連携がスマートだとシンプルに感じました。
以上です。ありがとうございました。」
「3人の子どもが遊びの後の共有活動において各自の自分でみつけた遊びを発表していました,自己効力感(self-efficacy)を高める経験になったと考えます。3人はそれぞれ,不安や緊張から小声で発表していましたが,ごっこ遊びにおけるヒーローの再現でも,色水遊びで作ったジュースの披露でも,それぞれの子どもがそれぞれの趣向や発見やポイントを最後まで説明し切りました。4歳児クラスには,幼稚園という文脈における集団生活にまだ不慣れな子どももいると伺いました。共有活動という場で人前で発表できたことは,自信に繋がると考えられます。
ひとつは,先生の保育における視野が広がっていると観察できました。私が観察した限りですが,前回の園内研究会と比較して,子どもの活動への配慮や環境の構成と働きかけが広い視野から展開されていると思いました。
ひとつは,学年担任の先生は園内研究会ということで普段と違うビヘイヴィアを採択した点を反省されていましたが,私は担任の先生との連携はスマートだと観察しました。遊びの後の共有活動では,学年担任の先生のサポートによって子どもの関心を共有活動に集めることに成功していたと観察できました。
以上です。ありがとうございました。」
「園内研究会を通したコメントとして,フィジカルコンタクトを用いることは,学術的に子どもの安心感を向上させることに有効だと考えられことを挙げます。今回の園内研究会では,いずれの保育指導案においても,幼稚園生活への適応の観点から,子どもの安心感への配慮が記述されています。そして,そこでは,安心感を促進する受容性やフィジカルコンタクトであるスキンシップを用いる件が記述されています。受容的な行動やフィジカルコンタクトは,幸福感や安心感を感じさせる下垂体後葉ホルモン(posterior pituitary hormone)であるオキシトシン(oxytocin)やインドールアミン(indoleamine)であるセロトニン(serotonin)の分泌を促進するとされています。4歳児クラスには,幼稚園という文脈における集団生活にまだ不慣れな子どももいると伺いました。登園後に主たる養育者と離れる際に不安を表出したり泣いたりする子どもには,受容的行動を行ったり,手を取ったり,側に寄り添ったり,場合によっては抱擁したりすることで,安心感を向上させることが可能になると考えられます。ただ,条件があり,オキシトシンおよびセロトニン分泌促進効果は,好意的でない相手では調整されるとされていますので留意してください。
以上です。ありがとうございました。」
ふたつ付言しておく。共有活動における自己効力感についてコメントしたが,自分の考えを人に伝えることや人前で発表することを不得手とする子どもは,強要されたり,失敗したりすることで,人前での発表がトラウマティックな事象(traumatic event)となることも考えられる。「そんなこと言い出したら,教育できないじゃないか。」と思われるかもしれないが,幼少期の嫌悪事象が原因して当該案件が苦手になることは珍しくない。「幼稚園の時にみんなの前で発表させられた時に失敗したのは苦い思い出だ。」と少し赤面して脈拍が少し上がる程度であれば比較的受容できており問題となることはあまりないが,思い出すことさえ苦痛で憚られるようであればトラウマである。指名する子どもが有する行動特徴に配慮することが保育者には求められる。また,幼稚園生活の安心感は,幼稚園教育要領にも記述がある。幼稚園教育要領の「第1章総則」の「第1幼稚園教育の基本」の1には,「幼児は安定した情緒の下で自己を十分に発揮することにより発達に必要な体験を得ていくものであることを考慮して,幼児の主体的な活動を促し,幼児期にふさわしい生活が展開されるようにすること。」と記述されている。幼稚園教育要領の記述は多義的で曖昧であるが,学術的知見は教諭のこれからの保育に有用であると考え,私は上記のようなコメントをした。
「ひとつは,朝の共有活動における1日の活動の提示は,子どもが1日の活動を見通すことを可能にする点において認知心理学的に有効と言えます。朝の共有活動,自分でみつけた遊び,遊びの後の共有活動,片付け,昼食,片付け,降園といった活動の流れを朝の段階で提示することで,子どもはいつ何をするのか把握することができ,行動選択や活動展開をスムースにすると考えられます。先生は自己評価の際に,子どもが「昼食はまだなの?」と言って,自分でみつけた遊びや遊びの後の共有活動において昼食に気が向いてしまう点が短所だと言われました。もちろん,4歳児は成人と比較すると認知機能が劣っており,提示内容を全て把握できなかったり,当該活動以外の活動に気が向いてしまったりすることもあります。先生は,ホワイトボードに活動内容を記述することに加えて文字だけでなく具体的な絵を用いて活動内容を明示され,また,1日の活動内容の提示を毎日繰り返されているということで,子どもたちは習慣として内容提示を内面化し,提示内容を把握できると考えられます。
ひとつは,朝の共有活動における「わくわくタイム」や「わくわくマン」のコンセプトが議論に上がりましたが,子どもが抱く「自分でみつけた遊びを今日も展開したい」という感覚や「(季節感のあるものに触れるという観点から製造している)梅ジュースの変化が日日楽しみである」という感覚が,「わくわく」という感覚であることを提示すること自体が教育となります。心やその働きは,言われて初めて気付くことがあります。心理学は,心とその働きを研究します。心理学は,心とその働きを操作的に定義し,言語化することで,目に見えないことが少なくない心とその働きを研究対象とし,人間や生物に対する理解範囲を拡大します。大学で心理学を教授すると,学生から「あの感覚は心理学ではこう説明できるんですね,今まで不思議に思っていたことが腑に落ちました。」とか,「言われてみるとなるほどと思いました。」といった声が聞かれます。シンプルに,感覚の名前を伝えることが教育になります。これは,情操教育にもリンクすると考えます。
ひとつは,担任の先生と学年担任の先生の連携がスマートだとシンプルに感じました。
以上です。ありがとうございました。」
「3人の子どもが遊びの後の共有活動において各自の自分でみつけた遊びを発表していました,自己効力感(self-efficacy)を高める経験になったと考えます。3人はそれぞれ,不安や緊張から小声で発表していましたが,ごっこ遊びにおけるヒーローの再現でも,色水遊びで作ったジュースの披露でも,それぞれの子どもがそれぞれの趣向や発見やポイントを最後まで説明し切りました。4歳児クラスには,幼稚園という文脈における集団生活にまだ不慣れな子どももいると伺いました。共有活動という場で人前で発表できたことは,自信に繋がると考えられます。
ひとつは,先生の保育における視野が広がっていると観察できました。私が観察した限りですが,前回の園内研究会と比較して,子どもの活動への配慮や環境の構成と働きかけが広い視野から展開されていると思いました。
ひとつは,学年担任の先生は園内研究会ということで普段と違うビヘイヴィアを採択した点を反省されていましたが,私は担任の先生との連携はスマートだと観察しました。遊びの後の共有活動では,学年担任の先生のサポートによって子どもの関心を共有活動に集めることに成功していたと観察できました。
以上です。ありがとうございました。」
「園内研究会を通したコメントとして,フィジカルコンタクトを用いることは,学術的に子どもの安心感を向上させることに有効だと考えられことを挙げます。今回の園内研究会では,いずれの保育指導案においても,幼稚園生活への適応の観点から,子どもの安心感への配慮が記述されています。そして,そこでは,安心感を促進する受容性やフィジカルコンタクトであるスキンシップを用いる件が記述されています。受容的な行動やフィジカルコンタクトは,幸福感や安心感を感じさせる下垂体後葉ホルモン(posterior pituitary hormone)であるオキシトシン(oxytocin)やインドールアミン(indoleamine)であるセロトニン(serotonin)の分泌を促進するとされています。4歳児クラスには,幼稚園という文脈における集団生活にまだ不慣れな子どももいると伺いました。登園後に主たる養育者と離れる際に不安を表出したり泣いたりする子どもには,受容的行動を行ったり,手を取ったり,側に寄り添ったり,場合によっては抱擁したりすることで,安心感を向上させることが可能になると考えられます。ただ,条件があり,オキシトシンおよびセロトニン分泌促進効果は,好意的でない相手では調整されるとされていますので留意してください。
以上です。ありがとうございました。」
ふたつ付言しておく。共有活動における自己効力感についてコメントしたが,自分の考えを人に伝えることや人前で発表することを不得手とする子どもは,強要されたり,失敗したりすることで,人前での発表がトラウマティックな事象(traumatic event)となることも考えられる。「そんなこと言い出したら,教育できないじゃないか。」と思われるかもしれないが,幼少期の嫌悪事象が原因して当該案件が苦手になることは珍しくない。「幼稚園の時にみんなの前で発表させられた時に失敗したのは苦い思い出だ。」と少し赤面して脈拍が少し上がる程度であれば比較的受容できており問題となることはあまりないが,思い出すことさえ苦痛で憚られるようであればトラウマである。指名する子どもが有する行動特徴に配慮することが保育者には求められる。また,幼稚園生活の安心感は,幼稚園教育要領にも記述がある。幼稚園教育要領の「第1章総則」の「第1幼稚園教育の基本」の1には,「幼児は安定した情緒の下で自己を十分に発揮することにより発達に必要な体験を得ていくものであることを考慮して,幼児の主体的な活動を促し,幼児期にふさわしい生活が展開されるようにすること。」と記述されている。幼稚園教育要領の記述は多義的で曖昧であるが,学術的知見は教諭のこれからの保育に有用であると考え,私は上記のようなコメントをした。
2015-06-05
学習指導要領の価格のバックステージ情報
出版社の営業担当者が,図書販売で研究室にやって来た。営業氏は,「幼児教育系の授業は淡野先生が担当されていると伺ったのでお邪魔しました。」と言った。他の研究室を訪ねてから私の研究室に来たようだった。最初に営業を受けた教員が,「うちはいらないけど,淡野先生だったら購入するかもしれないよ。」と営業回避方略として私の研究室を提案したのかもしれない。
営業氏がプッシュする新刊2冊に目を通した。タイトルと目次を一覧して,幼児教育に関するプラクティカルな本だと推論した。そして,内容を概観して,推論の通りだと断定した。営業氏に確認すると,「ええ,そうです,幼児教育のプラクティカルな内容を網羅する2冊です。」と返ってきた。
私は,それら2冊の本を購入することにした。私個人の研究ではこれら2冊を引用することはおそらくない。また,プラクティカル過ぎるので授業で使うこともおそらくない。ただ,ゼミ生や人間生活環境教育専攻の学生が修学の際に参照することはポッシブルである。また,自分の意思では講読しない文献を参照すると,何かインスパイアされるかもしれない。私は購入を決めた。営業氏の話に知性を感じたことが購入にリンクしたのかもしれない。
営業氏が所属する出版社が国政に関する図書を出版している会社だったので,私は学習指導要領の価格について質問した。学習指導要領の価格は,とにかく安い。私が授業で用いる要領や指針の価格は,幼稚園教育要領が100円と税,幼稚園教育要領解説が190円と税,保育所保育指針が120円と税,保育所保育指針解説書が190円と税,中学校学習指導要領解説技術・家庭編が76円と税,高等学校学習指導要領解説家庭編が267円と税である。破格だ。幼稚園教育要領解説は299頁で190円と税である。印刷,製本,輸送のコストを考えると,どう贔屓目に考えても赤字である。これら一連の要領や指針は,文部科学省や厚生労働省のwebsiteでPDFをダウンロードできる。幼稚園教育要領解説の場合は,コピー用紙,トナー,電気などのコストを勘案すると,手元でプリントアウトするより図書で購入した方が安いくらいだ。出版社に益するものはあるのだろうか。赤字でも出版社の名前を周知できるとか,印刷体制を維持できるといったことがメリットとして考えられる。実際はどうなのだろう。ある時,教育実習部会に所属する学校教育に詳しいと思われる教授にこの件について訊いてみたが,教授は知らなかった。出版社の営業氏なら知っているかもしれないと思い,私は質問した。
アンサーは,学習指導要領を含む国政に関する図書の出版は,他の高額な国政に関する図書の出版と合わせて入札するので,トータルで黒字になる,というものだった。営業氏の話の趣旨は次の通りである。国政に関する図書の出版は,競争入札で出版社を決定する。競争入札に参加できる出版社は,規模が中規模以上で経営が比較的健全な出版社に限定される。競争入札では,一連の図書をいくつか合わせて入札する。要領系の図書の出版だけでは赤字になるが,他の高額な国政に関する図書の出版による黒字が大きいので,トータルで黒字になる。なるほど。黒字にできる構造が保証されているのだった。
学習指導要領の価格のバックステージ情報を知ることができて面白かったことに加えて,競争入札に参加できる出版社が規模が中規模以上で経営が比較的健全な出版社に限定される点も面白かった。日本では,場合によっては,規模が小さな企業は国のオファーを受けることができない件が批判される。NHK番組「プロフェッショナル」,TBS番組「情熱大陸」,TBS番組「がっちりマンデー!!」などを観ると,規模が小さな企業が,秀でた技術等を認めた外国や外国行政機関からオファーを受ける件をフィーチャーすることがある。その際,日本と外国のオファー方針について,経営規模に関係なく外国は良いものは良いと認めてオファーする一方,日本は経営規模でオファーを制限する点は問題だ,と批判する。日本の方針には一理ある。オファーした後に倒産して事業が滞ると困る。出版事業の場合,要領系図書が印刷されないとなると,教育関係で困る人が出てくるだろう。
営業氏がプッシュする新刊2冊に目を通した。タイトルと目次を一覧して,幼児教育に関するプラクティカルな本だと推論した。そして,内容を概観して,推論の通りだと断定した。営業氏に確認すると,「ええ,そうです,幼児教育のプラクティカルな内容を網羅する2冊です。」と返ってきた。
私は,それら2冊の本を購入することにした。私個人の研究ではこれら2冊を引用することはおそらくない。また,プラクティカル過ぎるので授業で使うこともおそらくない。ただ,ゼミ生や人間生活環境教育専攻の学生が修学の際に参照することはポッシブルである。また,自分の意思では講読しない文献を参照すると,何かインスパイアされるかもしれない。私は購入を決めた。営業氏の話に知性を感じたことが購入にリンクしたのかもしれない。
営業氏が所属する出版社が国政に関する図書を出版している会社だったので,私は学習指導要領の価格について質問した。学習指導要領の価格は,とにかく安い。私が授業で用いる要領や指針の価格は,幼稚園教育要領が100円と税,幼稚園教育要領解説が190円と税,保育所保育指針が120円と税,保育所保育指針解説書が190円と税,中学校学習指導要領解説技術・家庭編が76円と税,高等学校学習指導要領解説家庭編が267円と税である。破格だ。幼稚園教育要領解説は299頁で190円と税である。印刷,製本,輸送のコストを考えると,どう贔屓目に考えても赤字である。これら一連の要領や指針は,文部科学省や厚生労働省のwebsiteでPDFをダウンロードできる。幼稚園教育要領解説の場合は,コピー用紙,トナー,電気などのコストを勘案すると,手元でプリントアウトするより図書で購入した方が安いくらいだ。出版社に益するものはあるのだろうか。赤字でも出版社の名前を周知できるとか,印刷体制を維持できるといったことがメリットとして考えられる。実際はどうなのだろう。ある時,教育実習部会に所属する学校教育に詳しいと思われる教授にこの件について訊いてみたが,教授は知らなかった。出版社の営業氏なら知っているかもしれないと思い,私は質問した。
アンサーは,学習指導要領を含む国政に関する図書の出版は,他の高額な国政に関する図書の出版と合わせて入札するので,トータルで黒字になる,というものだった。営業氏の話の趣旨は次の通りである。国政に関する図書の出版は,競争入札で出版社を決定する。競争入札に参加できる出版社は,規模が中規模以上で経営が比較的健全な出版社に限定される。競争入札では,一連の図書をいくつか合わせて入札する。要領系の図書の出版だけでは赤字になるが,他の高額な国政に関する図書の出版による黒字が大きいので,トータルで黒字になる。なるほど。黒字にできる構造が保証されているのだった。
学習指導要領の価格のバックステージ情報を知ることができて面白かったことに加えて,競争入札に参加できる出版社が規模が中規模以上で経営が比較的健全な出版社に限定される点も面白かった。日本では,場合によっては,規模が小さな企業は国のオファーを受けることができない件が批判される。NHK番組「プロフェッショナル」,TBS番組「情熱大陸」,TBS番組「がっちりマンデー!!」などを観ると,規模が小さな企業が,秀でた技術等を認めた外国や外国行政機関からオファーを受ける件をフィーチャーすることがある。その際,日本と外国のオファー方針について,経営規模に関係なく外国は良いものは良いと認めてオファーする一方,日本は経営規模でオファーを制限する点は問題だ,と批判する。日本の方針には一理ある。オファーした後に倒産して事業が滞ると困る。出版事業の場合,要領系図書が印刷されないとなると,教育関係で困る人が出てくるだろう。
2015-06-02
Sigh
とある研究室で文献を参照していると,机上に平積みされていた「求められる人材になる」的タイトルの本が目に入った。当該研究室の専門に関する本とは思えなかったので,何のための本か尋ねた。それは,学生のキャリア指導に用いられる予定の本だった。業務の関係で献本されたらしい。
巷間で新卒予定大学生等を対象に運用される「求められる人材」という表現は,既存の価値観や文化において活動する既存の組織に「求められる人材」という意味合いが強い。就職活動に際したエントリシートにおける記述や面接における応対では,当該領域において自分がいかに有用であるかをアピールする戦略的コミュニケイションおよび戦略的プレゼンテイションが求められる。すなわち,「私は使える人間なので雇用してください。」とメッセージすることが求められる。
振り返った時に「求められる人材」だったと評される人材や,キャリアの開始時点から経営者となって「求められる人材を求める人材」や,革新的な価値観や文化を創造する点において世界や社会に「求められる人材」がもっとフィーチャーされるべきである。大学では,就職支援講座的サムシングが開催される。教育学部では,教員採用試験対策講座的サムシングが展開される。そこでは,いかに上手に「私は使える人間なので雇用してください。」とメッセージするかがプラクティカルに指導される。一連の指導で社会的に望ましいとされる立ち居振る舞いや社会構造のフォーマットを内面化できる点は面白いと思う。しかし,単純なプラクティカルに留まるのは,大学の取り組みとしては疑問である。新聞を参照すると,新卒予定大学生のキャリアデザインは既存の組織への就職と同義的に議論されることが多く,起業して世界を面白くするとか,人人の想像を超えたサムシングをクリエイトするといった件はフィーチャーされることはほとんどない。
一瞬で以上のことを考えた後,私はため息をついた。それは,以上の考察は,大学教員として「求められる人材」が提出する王道の考察だからである。嫌になったというわけではないが,「求められる人材」を議論すること自体が「求められる人材」が採択するビヘイヴィアだと気付いて,「そうかあ。」とため息が出た。大学は,最高学府であり,知の自由や,自由な発想に基づく研究が保証されている。大学における活動の実質は,クリエイティヴでcutting edgeな活動ばかりではない。誰かがどこかで既に提出した案件の焼き直し的活動もたくさんある。吉見俊哉著「大学とは何か」では,制度としての大学についての議論が記述されている。「問題はしかし,哲学であれ,人文学であれ,リベラルアーツであれ,「自由の理性」の場を大学の学部として制度的に確保した場合,果たしてそのような確保が,「自由」の維持の自己目的化,つまり新しい大学で「理性」の自律性の組織的維持が自己目的化され,これを担う学部はその目的に奉仕する他律的な存在と化していかないのか,という点である」。他律的な枠組みにおける外発的動機づけを包含する学問は学問か,という議論である。ため息に関する連合ネットワークが活性化した影響で,昔ついたため息を思い出した。ひとりの教員と話をした時のことである。私とその教員の話題は,学生のビヘイヴィアに関する話題になった。その教員は,当該学生のビヘイヴィアを評して,「あの学生は教員が喜ぶことを言うのが上手いんですよ。」と言った。このやり取り自体が教員が喜ぶことだったので,私はため息をついた。最近の件も思い出した。TVを観ていると,礼儀作法の権威的人物が,街行く人人の立ち居振る舞いを観察し,その立ち居振る舞いがいかに無礼かを指摘する様子が放送されていた。度が過ぎるとその指摘自体も無礼である。私はため息をついてチャンネルを変えた。
巷間で新卒予定大学生等を対象に運用される「求められる人材」という表現は,既存の価値観や文化において活動する既存の組織に「求められる人材」という意味合いが強い。就職活動に際したエントリシートにおける記述や面接における応対では,当該領域において自分がいかに有用であるかをアピールする戦略的コミュニケイションおよび戦略的プレゼンテイションが求められる。すなわち,「私は使える人間なので雇用してください。」とメッセージすることが求められる。
振り返った時に「求められる人材」だったと評される人材や,キャリアの開始時点から経営者となって「求められる人材を求める人材」や,革新的な価値観や文化を創造する点において世界や社会に「求められる人材」がもっとフィーチャーされるべきである。大学では,就職支援講座的サムシングが開催される。教育学部では,教員採用試験対策講座的サムシングが展開される。そこでは,いかに上手に「私は使える人間なので雇用してください。」とメッセージするかがプラクティカルに指導される。一連の指導で社会的に望ましいとされる立ち居振る舞いや社会構造のフォーマットを内面化できる点は面白いと思う。しかし,単純なプラクティカルに留まるのは,大学の取り組みとしては疑問である。新聞を参照すると,新卒予定大学生のキャリアデザインは既存の組織への就職と同義的に議論されることが多く,起業して世界を面白くするとか,人人の想像を超えたサムシングをクリエイトするといった件はフィーチャーされることはほとんどない。
一瞬で以上のことを考えた後,私はため息をついた。それは,以上の考察は,大学教員として「求められる人材」が提出する王道の考察だからである。嫌になったというわけではないが,「求められる人材」を議論すること自体が「求められる人材」が採択するビヘイヴィアだと気付いて,「そうかあ。」とため息が出た。大学は,最高学府であり,知の自由や,自由な発想に基づく研究が保証されている。大学における活動の実質は,クリエイティヴでcutting edgeな活動ばかりではない。誰かがどこかで既に提出した案件の焼き直し的活動もたくさんある。吉見俊哉著「大学とは何か」では,制度としての大学についての議論が記述されている。「問題はしかし,哲学であれ,人文学であれ,リベラルアーツであれ,「自由の理性」の場を大学の学部として制度的に確保した場合,果たしてそのような確保が,「自由」の維持の自己目的化,つまり新しい大学で「理性」の自律性の組織的維持が自己目的化され,これを担う学部はその目的に奉仕する他律的な存在と化していかないのか,という点である」。他律的な枠組みにおける外発的動機づけを包含する学問は学問か,という議論である。ため息に関する連合ネットワークが活性化した影響で,昔ついたため息を思い出した。ひとりの教員と話をした時のことである。私とその教員の話題は,学生のビヘイヴィアに関する話題になった。その教員は,当該学生のビヘイヴィアを評して,「あの学生は教員が喜ぶことを言うのが上手いんですよ。」と言った。このやり取り自体が教員が喜ぶことだったので,私はため息をついた。最近の件も思い出した。TVを観ていると,礼儀作法の権威的人物が,街行く人人の立ち居振る舞いを観察し,その立ち居振る舞いがいかに無礼かを指摘する様子が放送されていた。度が過ぎるとその指摘自体も無礼である。私はため息をついてチャンネルを変えた。
2015-06-01
5月が好き
31年生きた現時点で,私は日本においては1年の中で5月が好きだと結論付けた。日の出時刻は5時前後となる。私の朝型生活とマッチするので,日の出とともに5時前後に起床することも珍しくない。体を動かしても,昼寝をしても気持ちが良い。気温が25℃以上の夏日となっても,湿度は梅雨や夏のように高くならないので爽やかに感じられる。5月は,見頃を迎える花が多くて楽しい。全国的にフラワーフェスティヴァル的サムシングが開催されるのも,5月を含むゴールデンウィーク前後である。私は花の名前には疎いが,花の形状や色を楽しむことは好きである。私はスギ花粉症との付き合いがあるので,花粉の飛散がなくなる点も嬉しい。5月は食べ物も美味しい。5月は,島根の魚のヴァライエティが豊富になる。この5月,旬かどうかは知らないが,私は,トビウオ,ブリ,カワハギ,サバ,レンコダイ,カマス,黒ムツを堪能した。島根に来て以来,魚の名前と味をこつこつ記銘している。気温と湿度の点では,10月は5月と同じような月である。しかし,日の出時刻は6時前後となり,朝型生活の私も朝の目覚めが類比的に悪く感じられる。夜長が影響し,セロトニンなどの脳内物質の分泌量が低下し,人恋しい感覚を覚えることもある。草花も紅葉するまでは良いが,枯れゆくので寂しく思う。私は,秋には「食欲の秋」を体感し,食全般を美味しく楽しく展開する。ただ,秋を「食欲の秋」たらしめる規定要因のひとつは,セロトニンなどの脳内物質の分泌量低下と言われるので,単純に喜ばしいこととは言えない。秋を「食欲の秋」たらしめる規定要因には,夏を終えた涼しさによる食欲増進が知られているが,脳内物質の分泌量を調整する反応としての食欲増進もある。要するに,5月は私の生理との相性が良い。
2015-05-27
装い
学校教育実践研究で,教育実習に係る服装に関する指導があった。私は,実習部会の教員としてその指導を聞いていた。教育実習では,実習生の服装に詳細な規定があった。知らなかった。
服装規定には,gender stereotypicalな規定がいくつかあった。例えば,頭髪の長さは,女性はショート,ミディアム,ロングのいずれでもよいが,男性は短髪にする。男性はショートオンリーでロングヘアはno goodらしい。
服装規定の根拠が知りたくなったので,実習部会の会議でナイーヴな疑問として根拠を尋ねた。私は,島根大学に所属して2年目,実習部会は所属して1年目である。知らないことが多いので,シンプルな疑問やナイーヴな疑問は多い。
リプライは,島根大学教育学部附属学校部が実習生の服装規定を定めているというものだったが,根拠は特になかった。島根大学教育学部附属学校園における教職員の服装は教職員の裁量に委ねるが,島根大学教育学部附属学校園における教育実習の実習生の服装は詳細に規定しているとのことだった。
島根県の教員採用試験における服装も知りたくなったので,私はついでに「男性の教員志願者がロングヘアで教員採用試験を受験すると不利になりますか?」と尋ねた。実習部会には,ヴァライアティに富んだ教員が所属している。教育研究歴が長い教授や複数の学校種の管理職を歴任した実務家教員がいる。教員採用試験に造詣が深い教員が何人もいる。この質問は,実習部会の議題ではない。しかし,私は是非聞いておきたかった。会議で主題から脱線して長長と話をする人が出席者の時間をスポイルすることは,今も昔も理である。その点を踏まえ,私はブリーフに質問した。
リプライの主旨は,教員採用試験の評価情報は非公表のため評価に及ぼす服装の影響は分からないということだったが,私の観察では「何か問題でも?」という表情の教員が多かったので,男性の教員志願者がロングヘアで教員採用試験を受験する事態も,私のような疑問を抱く教員がいることも,レアであると考えられた。その後,私は,実習部会とは別に,教員採用試験に携わったことがある教授に同様の質問を投げかけてみた。その結果,関与した限りでは性やルックが問題となったことはないという回答を得た。教授は,山陰では慣習的に短髪の男性が多いので,ロングヘアだと奇異に映って何かしらの影響が出る可能性はあるかもしれない,と続けた。また,そのような教員志願者がいる場合は,事前に当該の事務局に相談するといいだろうと言った。車椅子の志願者がいれば必要な対応を行うように,性に関する案件でも必要な対応を行うのではないか,というものだった。
私がこのようなことに疑問を抱いた理由は以下の通りである。私は,島根大学教育学部で幼児心理学と家庭科保育学をレクチャーしている。発達に関する講義では,intrinsic factorsとextrinsic factorsの交互作用を考察する。nature versus nurtureの議論で遺伝要因と環境要因の交互作用を考察する。性の3大区分では,性は,生物学的な性であるセックス(sex),社会文化心理的性であるジェンダー(gender),性的指向性のセクシュアリティ(sexuality)に区分される。行動傾向の差異は,セックスの差異による心身(e.g. 脳機能)の影響による差異,ジェンダーの差異による環境(e.g. 文化)の影響による差異,および,それらの交互作用で議論される。また,講義では,セックスとジェンダーの不一致やセクシュアリティがマイナーであることに起因する社会的不適応の研究も提示する。LGBT(lesbian, gay, bisexual, and transgender)という,セックス,ジェンダー,セクシュアリティに関する言葉がある。この言葉は,概ね,セックスが女で女が好き,セックスが男で男が好き,異性も同性も好き,セックスとジェンダーの不一致,として用いられる。LGBTは,数的に少ない点でsexual minorityと表現されることもある。私は授業で,以前のブログ「教育的ニーズについて」で触れたように,池田清彦著「メスの流儀オスの流儀」による男女二分法という世間のイデオロギーへの問題提起に言及することもあるし,以前のブログ「人間生活環境教育専攻1年生歓迎会と2次会と3次会」で触れたように,私がバーのマスターに気に入られて好意を示す諸諸のビヘイヴィアの対象となった話をすることもある。先日,通勤の際,iPhoneでBBCのアプリのニュースを聴いていると,セックスに関するトピックが議論されていた。人体の構造は女性を基本としており,授乳器官であるnippleが男性にもあるのは性分化時の名残である件などが紹介されていた。類比的によく聞く話だが,ちょうどよいタイミングだったので,先日の授業ではさっそくこの件にも言及した。島根大学教育学部の他の授業における性に関する議論の取り扱いは知らないが,少なくとも私は,現代は,宗教やタイトな慣習を除けば,セックス,ジェンダー,セクシュアリティが強要される時代ではないと提示する。しかし,教育実習では,femininityおよびmasculinityを求めるようなgender stereotypicalな服装規定に同意することが求められる。教育行政の動きもある。文部科学省は,2015年4月30日付で,「性同一性障害に係る児童生徒に対するきめ細かな対応の実施等について」を各都道府県教育委員会を筆頭に全国に通知した。児童生徒に対してきめ細かな対応をすることが周知されたにも関わらず,実習生にはgender stereotypicalな服装を求め続けるのだろうか。世の中に不整合が存在することは了解している。私自身,分からないまま展開している大学の仕事がある。教育学部における自己評価やアンケートでは,achievement goalとして「◯◯力」といった名前の様様な構成概念を測定するとされる質問項目を目にする。心理学的にはなんだかよく分からない構成概念や質問項目もあるが,心理学者ではなくひとりの大学教員として当該案件に関与する限りにおいては,私は構成概念や質問項目を批判しない。私の知らない学術的背景があって質問項目が作成された可能性もある。文部科学省が提示する構成概念にもどのように操作的に定義されたのか分からないものもある。昨日のブログ「考え方次第」に記したように,人生をコントと捉えるオプションを私は留保している。私は,与えられた役を演じるに留める時がある。しかし,教育実習で性に関して非常にクリティカルな矛盾があるのは如何だろうか。学生たちがどのように捉えているかを知りたかったので,私はアヴェイラブルな学生に所感を尋ねた。学生は,gender stereotypicalな服装規定に特別な所感はないと応えた。私がアクセスした学生に関しては,性に関する不協和や不適応が生じる事態は生起していないようである。学生は,服装規定の提示方法を問題視していたが,それは別の話である。
おそらく,教育実習や教員採用試験において性に関する問題が外在化したり,現在よりも社会的な関心が向上したりしてきた時に対応が進むのだと思う。教育実習の服装規定では,地毛が金髪や白髪の人への対応や,宗教上の理由で服装を厳格に調整している学生への配慮は聞かれなかった。問題化した前例がなく,明文化する必要性がないのだろう。
私は,教育的文脈において性に関する案件が問題化した時には,尾木直樹氏の活躍を個人的に期待する。尾木氏は,「ママ」という商用イメージを活用して幅広い活動を展開している。尾木氏が有する教育の内部事情と外部事情,性の内部事情と外部事情に関する知識は豊富だと推測できる。教育的文脈において性に関する案件が問題化した時には,「ママ」というイメージと,そのイメージを活用することで得た知見を存分に発揮して欲しい。
教育的文脈以外の採用と性および服装が気になったので,私は知り合いにアクセスして尋ねた。知人が少ない私としては,有益な知見を獲得できたと思っている。以下に概要を記す。
今春の企業就職について訊いた。私が以前所属していた大学を卒業した女性がいる。彼女は,この春企業に就職した。彼女は,入社後に性に関してcome outしてビヘイヴィアや服装が大きく変わると他の社員が困惑する可能性があること,また,実際的対応(e.g. トイレの利用方法の共有)がイージーではないことから,偽るより採用の段階である程度開示することを求める企業が多いのではないか,と指摘した。彼女の所感では,働き出して2か月ほどだが,規模が大きい企業で階級が高い人ほど価値観は固定的だという。既存のルールで出世したのであるから,それが大きく変わることを面白く思わない人は少なくないだろう。彼女は心理学を専攻していた。彼女は,最後に,「企業内および企業間のルールの中には,面倒臭いものもあります。面倒臭いと思った時は,ごっこ遊びだと思って過ごしています。」という趣旨のことを言った。コントと思うのはどうかな?
国際比較について訊いた。私の身近なところには,国際文化を学び,Denmarkに留学し,日本で就職した人がいる。彼女の考察では,巨視的比較では,日本では採用の段階ではgender stereotypicalな装いが求められることが多いという。男性が短髪で採用面接等に臨むことはユージュアルである。また,性に関する事例として,ゲイの先輩が面接時に自分のセクシュアリティを開示した結果,採用担当者の態度が変わった件を教えてくれた。態度変容がどのようなものか,また,セックスやジェンダーではなくセクシュアリティを開示した理由は不明だったが,この件は,就職活動におけるセクシュアリティの開示が当該の担当者にとっては驚くに足る事項であったことを示している。また,性に無関心もしくは寛容な企業は,セクシュアリティや男性のロングヘアや面接時のカジュアルルックを受容するが,その数は少ない。Denmarkは世界で初めて登録パートナーシップ法が成立した国で,性に関して寛容らしい。彼女が留学時に滞在した寮の入居者には,自身がレズの人や親戚にLGBTの人がいる人がたくさんいたという。そして,企業の採用時には,セックスやジェンダーやセクシュアリティが問われないという。加えて,Europeの就職活動は,大学在学中の長期internship中に交渉を進めることが多いらしく,面接等の短期的交流で採用を決めることは少ないらしい。
地方公務員の事情を訊いた。市役所に勤める人がいる。彼の話では,職員採用は定められた評価基準に準じて評価を行うが,面接では採用担当者個人の思考が大きく影響するらしい。人間が人間を評価するのだから当然と言えば当然である。彼は,地方の役所の文脈では,見た目が派手な人や個性的な人は不利に評定されても仕方ないだろうと指摘した。そして,地方公務員業界は「普通の人」を求めるのではないか,と言った。実際的な話だと思う。
国家公務員はどうだろうか。省庁に勤める人がいる。彼の話では,性の問題で不利になることはないと個人的には思うが,gender stereotypicalでない格好で面接に臨む人がいたら採用担当者は戸惑うだろう,また,古い慣習が根強く残る省庁が正当な理由を付して不利に扱う可能性は低く見積もることはできない,と続けた。彼が,人事院が定める規定があるかもしれない,と指摘したのでwebで調べると,「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」は見つけることができたが,採用に関する事項は見当たらなかった。「おお,淡野はそんな研究をしているのか。」と言われたが,今回の件は研究ではない。
参考までに,ファッション業界を参照しよう。私は蛯原友里氏のファンなので,Samantha Thavasa Japanの情報にアクセスすることがあった。Samantha Thavasaグループの入社式の写真で参照できる新入社員のヘアスタイルは,ファッションコンシャスネスを感じさせる。佐藤智恵著「外資系の流儀」を参照すると,外資系ファッション企業の採用面接は,意識して見た目を整え,「キメ服」で臨む必要があるらしい。また,そこでは,無難なリクルートスーツは無難ではないとも記述されていた。性に関する知見はないが,業種で装いが変わることは明白だ。
私の経験的知見を記す。私が知っている松江市内の幼稚園の過半では,教職員はカラフルで多様な装いを展開することが推奨されている。それは,教職員ともに多様な活動に従事することに依存する部分もあるが,教職員も環境と捉え,子どもの発達に影響を与えると考えられているためである。また,5年以上前になるが,私が非常勤講師を務めた医療センター附属の看護学校では,学生も看護師も教員もパンツルックの白衣が基本だった。世の病院には,院長の意向で女性の看護師の制服がスカートの白衣と規定されている病院もあるらしいが,それは別の話である。研究を志望する大学院生は,教育職や研究職のポスト獲得がテーマとなる。インセンティヴによって女性の教員数を上げる取り組みを展開する機関は少なくない。教員や研究員の募集を参照すると,「男女共同参画基本法の趣旨に基づき業績が同等と認められた場合には女性を積極的に採用します。」とか「男女共同参画を推進しており,業績及び人物の評価において同等と認められた場合には,積極的に女性を採用します。」と記されていることがある。そこでは,性をセックスで判断するのかジェンダーで判断するのかは記載されていない。おそらく,性をセックスで判断するのだろうが,多くの機関は申請者にセックスとジェンダーの不一致があるケースを想定していないのだろう。
装いに関する問題は難しいが,面白いとも思う。大学では,夏期の軽装の励行に関する連絡がメールで届く。期間中の服装は,暑さをしのぎやすい軽装(e.g. 上着を着用しないルック,ノーネクタイ)とする,社会常識を逸脱するような服装は避ける,とある。ファジーだと思う。立場によっては,上着を着用しないルックを無礼と見なすことがある。シャツやブラウスは下着と見なし,下着で仕事をするなという意見である。この立場から見れば,クールビズが浸透した現代は下着姿で働く人で溢れていることになる。この立場がドミナントな文脈では,上着を着用しないルックは常識を逸脱するような服装だと言われる可能性もある。また,立場によっては,下着と見なすことはないまでも,半袖のシャツやブラウスを無礼と見なすことがある。シャツやブラウスは長袖が基本で,半袖は邪道とする考えである。長袖のシャツやブラウスを基本とし,暑く感じる時は袖を捲るに留める立場である。この立場から見れば,クールビズが浸透した現代は無礼者で溢れていることになる。
服装規定には,gender stereotypicalな規定がいくつかあった。例えば,頭髪の長さは,女性はショート,ミディアム,ロングのいずれでもよいが,男性は短髪にする。男性はショートオンリーでロングヘアはno goodらしい。
服装規定の根拠が知りたくなったので,実習部会の会議でナイーヴな疑問として根拠を尋ねた。私は,島根大学に所属して2年目,実習部会は所属して1年目である。知らないことが多いので,シンプルな疑問やナイーヴな疑問は多い。
リプライは,島根大学教育学部附属学校部が実習生の服装規定を定めているというものだったが,根拠は特になかった。島根大学教育学部附属学校園における教職員の服装は教職員の裁量に委ねるが,島根大学教育学部附属学校園における教育実習の実習生の服装は詳細に規定しているとのことだった。
島根県の教員採用試験における服装も知りたくなったので,私はついでに「男性の教員志願者がロングヘアで教員採用試験を受験すると不利になりますか?」と尋ねた。実習部会には,ヴァライアティに富んだ教員が所属している。教育研究歴が長い教授や複数の学校種の管理職を歴任した実務家教員がいる。教員採用試験に造詣が深い教員が何人もいる。この質問は,実習部会の議題ではない。しかし,私は是非聞いておきたかった。会議で主題から脱線して長長と話をする人が出席者の時間をスポイルすることは,今も昔も理である。その点を踏まえ,私はブリーフに質問した。
リプライの主旨は,教員採用試験の評価情報は非公表のため評価に及ぼす服装の影響は分からないということだったが,私の観察では「何か問題でも?」という表情の教員が多かったので,男性の教員志願者がロングヘアで教員採用試験を受験する事態も,私のような疑問を抱く教員がいることも,レアであると考えられた。その後,私は,実習部会とは別に,教員採用試験に携わったことがある教授に同様の質問を投げかけてみた。その結果,関与した限りでは性やルックが問題となったことはないという回答を得た。教授は,山陰では慣習的に短髪の男性が多いので,ロングヘアだと奇異に映って何かしらの影響が出る可能性はあるかもしれない,と続けた。また,そのような教員志願者がいる場合は,事前に当該の事務局に相談するといいだろうと言った。車椅子の志願者がいれば必要な対応を行うように,性に関する案件でも必要な対応を行うのではないか,というものだった。
私がこのようなことに疑問を抱いた理由は以下の通りである。私は,島根大学教育学部で幼児心理学と家庭科保育学をレクチャーしている。発達に関する講義では,intrinsic factorsとextrinsic factorsの交互作用を考察する。nature versus nurtureの議論で遺伝要因と環境要因の交互作用を考察する。性の3大区分では,性は,生物学的な性であるセックス(sex),社会文化心理的性であるジェンダー(gender),性的指向性のセクシュアリティ(sexuality)に区分される。行動傾向の差異は,セックスの差異による心身(e.g. 脳機能)の影響による差異,ジェンダーの差異による環境(e.g. 文化)の影響による差異,および,それらの交互作用で議論される。また,講義では,セックスとジェンダーの不一致やセクシュアリティがマイナーであることに起因する社会的不適応の研究も提示する。LGBT(lesbian, gay, bisexual, and transgender)という,セックス,ジェンダー,セクシュアリティに関する言葉がある。この言葉は,概ね,セックスが女で女が好き,セックスが男で男が好き,異性も同性も好き,セックスとジェンダーの不一致,として用いられる。LGBTは,数的に少ない点でsexual minorityと表現されることもある。私は授業で,以前のブログ「教育的ニーズについて」で触れたように,池田清彦著「メスの流儀オスの流儀」による男女二分法という世間のイデオロギーへの問題提起に言及することもあるし,以前のブログ「人間生活環境教育専攻1年生歓迎会と2次会と3次会」で触れたように,私がバーのマスターに気に入られて好意を示す諸諸のビヘイヴィアの対象となった話をすることもある。先日,通勤の際,iPhoneでBBCのアプリのニュースを聴いていると,セックスに関するトピックが議論されていた。人体の構造は女性を基本としており,授乳器官であるnippleが男性にもあるのは性分化時の名残である件などが紹介されていた。類比的によく聞く話だが,ちょうどよいタイミングだったので,先日の授業ではさっそくこの件にも言及した。島根大学教育学部の他の授業における性に関する議論の取り扱いは知らないが,少なくとも私は,現代は,宗教やタイトな慣習を除けば,セックス,ジェンダー,セクシュアリティが強要される時代ではないと提示する。しかし,教育実習では,femininityおよびmasculinityを求めるようなgender stereotypicalな服装規定に同意することが求められる。教育行政の動きもある。文部科学省は,2015年4月30日付で,「性同一性障害に係る児童生徒に対するきめ細かな対応の実施等について」を各都道府県教育委員会を筆頭に全国に通知した。児童生徒に対してきめ細かな対応をすることが周知されたにも関わらず,実習生にはgender stereotypicalな服装を求め続けるのだろうか。世の中に不整合が存在することは了解している。私自身,分からないまま展開している大学の仕事がある。教育学部における自己評価やアンケートでは,achievement goalとして「◯◯力」といった名前の様様な構成概念を測定するとされる質問項目を目にする。心理学的にはなんだかよく分からない構成概念や質問項目もあるが,心理学者ではなくひとりの大学教員として当該案件に関与する限りにおいては,私は構成概念や質問項目を批判しない。私の知らない学術的背景があって質問項目が作成された可能性もある。文部科学省が提示する構成概念にもどのように操作的に定義されたのか分からないものもある。昨日のブログ「考え方次第」に記したように,人生をコントと捉えるオプションを私は留保している。私は,与えられた役を演じるに留める時がある。しかし,教育実習で性に関して非常にクリティカルな矛盾があるのは如何だろうか。学生たちがどのように捉えているかを知りたかったので,私はアヴェイラブルな学生に所感を尋ねた。学生は,gender stereotypicalな服装規定に特別な所感はないと応えた。私がアクセスした学生に関しては,性に関する不協和や不適応が生じる事態は生起していないようである。学生は,服装規定の提示方法を問題視していたが,それは別の話である。
おそらく,教育実習や教員採用試験において性に関する問題が外在化したり,現在よりも社会的な関心が向上したりしてきた時に対応が進むのだと思う。教育実習の服装規定では,地毛が金髪や白髪の人への対応や,宗教上の理由で服装を厳格に調整している学生への配慮は聞かれなかった。問題化した前例がなく,明文化する必要性がないのだろう。
私は,教育的文脈において性に関する案件が問題化した時には,尾木直樹氏の活躍を個人的に期待する。尾木氏は,「ママ」という商用イメージを活用して幅広い活動を展開している。尾木氏が有する教育の内部事情と外部事情,性の内部事情と外部事情に関する知識は豊富だと推測できる。教育的文脈において性に関する案件が問題化した時には,「ママ」というイメージと,そのイメージを活用することで得た知見を存分に発揮して欲しい。
今春の企業就職について訊いた。私が以前所属していた大学を卒業した女性がいる。彼女は,この春企業に就職した。彼女は,入社後に性に関してcome outしてビヘイヴィアや服装が大きく変わると他の社員が困惑する可能性があること,また,実際的対応(e.g. トイレの利用方法の共有)がイージーではないことから,偽るより採用の段階である程度開示することを求める企業が多いのではないか,と指摘した。彼女の所感では,働き出して2か月ほどだが,規模が大きい企業で階級が高い人ほど価値観は固定的だという。既存のルールで出世したのであるから,それが大きく変わることを面白く思わない人は少なくないだろう。彼女は心理学を専攻していた。彼女は,最後に,「企業内および企業間のルールの中には,面倒臭いものもあります。面倒臭いと思った時は,ごっこ遊びだと思って過ごしています。」という趣旨のことを言った。コントと思うのはどうかな?
国際比較について訊いた。私の身近なところには,国際文化を学び,Denmarkに留学し,日本で就職した人がいる。彼女の考察では,巨視的比較では,日本では採用の段階ではgender stereotypicalな装いが求められることが多いという。男性が短髪で採用面接等に臨むことはユージュアルである。また,性に関する事例として,ゲイの先輩が面接時に自分のセクシュアリティを開示した結果,採用担当者の態度が変わった件を教えてくれた。態度変容がどのようなものか,また,セックスやジェンダーではなくセクシュアリティを開示した理由は不明だったが,この件は,就職活動におけるセクシュアリティの開示が当該の担当者にとっては驚くに足る事項であったことを示している。また,性に無関心もしくは寛容な企業は,セクシュアリティや男性のロングヘアや面接時のカジュアルルックを受容するが,その数は少ない。Denmarkは世界で初めて登録パートナーシップ法が成立した国で,性に関して寛容らしい。彼女が留学時に滞在した寮の入居者には,自身がレズの人や親戚にLGBTの人がいる人がたくさんいたという。そして,企業の採用時には,セックスやジェンダーやセクシュアリティが問われないという。加えて,Europeの就職活動は,大学在学中の長期internship中に交渉を進めることが多いらしく,面接等の短期的交流で採用を決めることは少ないらしい。
地方公務員の事情を訊いた。市役所に勤める人がいる。彼の話では,職員採用は定められた評価基準に準じて評価を行うが,面接では採用担当者個人の思考が大きく影響するらしい。人間が人間を評価するのだから当然と言えば当然である。彼は,地方の役所の文脈では,見た目が派手な人や個性的な人は不利に評定されても仕方ないだろうと指摘した。そして,地方公務員業界は「普通の人」を求めるのではないか,と言った。実際的な話だと思う。
国家公務員はどうだろうか。省庁に勤める人がいる。彼の話では,性の問題で不利になることはないと個人的には思うが,gender stereotypicalでない格好で面接に臨む人がいたら採用担当者は戸惑うだろう,また,古い慣習が根強く残る省庁が正当な理由を付して不利に扱う可能性は低く見積もることはできない,と続けた。彼が,人事院が定める規定があるかもしれない,と指摘したのでwebで調べると,「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」は見つけることができたが,採用に関する事項は見当たらなかった。「おお,淡野はそんな研究をしているのか。」と言われたが,今回の件は研究ではない。
参考までに,ファッション業界を参照しよう。私は蛯原友里氏のファンなので,Samantha Thavasa Japanの情報にアクセスすることがあった。Samantha Thavasaグループの入社式の写真で参照できる新入社員のヘアスタイルは,ファッションコンシャスネスを感じさせる。佐藤智恵著「外資系の流儀」を参照すると,外資系ファッション企業の採用面接は,意識して見た目を整え,「キメ服」で臨む必要があるらしい。また,そこでは,無難なリクルートスーツは無難ではないとも記述されていた。性に関する知見はないが,業種で装いが変わることは明白だ。
私の経験的知見を記す。私が知っている松江市内の幼稚園の過半では,教職員はカラフルで多様な装いを展開することが推奨されている。それは,教職員ともに多様な活動に従事することに依存する部分もあるが,教職員も環境と捉え,子どもの発達に影響を与えると考えられているためである。また,5年以上前になるが,私が非常勤講師を務めた医療センター附属の看護学校では,学生も看護師も教員もパンツルックの白衣が基本だった。世の病院には,院長の意向で女性の看護師の制服がスカートの白衣と規定されている病院もあるらしいが,それは別の話である。研究を志望する大学院生は,教育職や研究職のポスト獲得がテーマとなる。インセンティヴによって女性の教員数を上げる取り組みを展開する機関は少なくない。教員や研究員の募集を参照すると,「男女共同参画基本法の趣旨に基づき業績が同等と認められた場合には女性を積極的に採用します。」とか「男女共同参画を推進しており,業績及び人物の評価において同等と認められた場合には,積極的に女性を採用します。」と記されていることがある。そこでは,性をセックスで判断するのかジェンダーで判断するのかは記載されていない。おそらく,性をセックスで判断するのだろうが,多くの機関は申請者にセックスとジェンダーの不一致があるケースを想定していないのだろう。
装いに関する問題は難しいが,面白いとも思う。大学では,夏期の軽装の励行に関する連絡がメールで届く。期間中の服装は,暑さをしのぎやすい軽装(e.g. 上着を着用しないルック,ノーネクタイ)とする,社会常識を逸脱するような服装は避ける,とある。ファジーだと思う。立場によっては,上着を着用しないルックを無礼と見なすことがある。シャツやブラウスは下着と見なし,下着で仕事をするなという意見である。この立場から見れば,クールビズが浸透した現代は下着姿で働く人で溢れていることになる。この立場がドミナントな文脈では,上着を着用しないルックは常識を逸脱するような服装だと言われる可能性もある。また,立場によっては,下着と見なすことはないまでも,半袖のシャツやブラウスを無礼と見なすことがある。シャツやブラウスは長袖が基本で,半袖は邪道とする考えである。長袖のシャツやブラウスを基本とし,暑く感じる時は袖を捲るに留める立場である。この立場から見れば,クールビズが浸透した現代は無礼者で溢れていることになる。
2015-05-26
考え方次第
人生はコントだと考えると,人生に資すると思う。人は,人生で本音と建前を運用する。他者との関係性を考慮して,自身の考えを伏せたり,思ってもいないことを言ったりすることがある。喜びの席では悲しくても喜びに賛同し,悲しみの会合では愉快なことがあっても悲しみのポーズを採る。その点で,人生は,演技の連続と言える。映画でもいいし,舞台でもいいし,小説でもいいし,演技でもいいが,人生をコントだと考えれば笑いが増えてハッピーではないだろうか。以前のブログ「教育学部はコントの宝庫である」には,ロールプレイングとしての模擬授業はコントと考えられる点,教育学部では模擬授業をたくさん展開する点から「教育学部はコントの宝庫である」と記した。それから半年ほどの間に,私は,模擬授業をはじめとする教育学部における活動に限らず,人生をコントと考えるアイディアを思いついた。私に哲学の素養があれば,哲学者の論考を引用してこのアイディアを固めることができたかもしれない。私に社会学の素養があれば,社会理論を引き合いに出してこのアイディアの理論武装ができたかもしれない。しかし,今の私にはアヴェイラブルな知見がない。そのため,シンプルに,人生は演技の連続であること,笑いが多い方がハッピーと考えることから,人生をコントだと考えると人生は面白くなると提案する。
心理学は,考え方次第でアウトカムが変わることを明らかにしている。例えば,Dr. Lichard LazarusとDr. Susan Folkmanが提唱したtransactional model of stress and coping(ストレスとコーピングのトランスアクショナルモデル)がある。このモデルは,ストレッサー,認知的評価,ストレス反応という分類を仮定する。認知的評価では2種類の評価が行われ,1次的評価ではストレッサーの影響の程度等に関する評価が,2次的評価ではストレッサーのコントロール可能性等に関する評価が行われる。評価の結果,解決策考案などの問題焦点型コーピングや気晴らしによる情動変容などの情動焦点型コーピングが採用される。そして,ストレスの再評価が行われ,ストレス反応が調整される。このモデルは,ストレスのメカニズムを説明し,アウトカムとして生起する問題行動や心身の疾患に対する臨床的介入を喚起した点において学術的社会的に大きな貢献を果たしている。考え方次第でアウトカムが変わる件は,今は広く知られている。ポップスではたくさんの楽曲でこの件が歌われているし,学食における学生の会話の中にもこの件への言及は観察されるし,飲み屋ではこの件をもって上司が部下を諭しているし,VILLAGE VANGUARDに行けばこのテーマを取り扱った本が店員のキャッチーなひとくちコメント付きで並んでいる。
人生をコントだと思えば,楽しいことは楽しく,また,悲しいことも楽しく捉えて生きていけると思う。人には,悲しみに浸りたい時がある。泣きたい時は悲しい映画を見て思い切り泣く,というオプションもある。人生をコントだと考えると絶対的にハッピーだと押し付けるわけではない。人生における悲しみの総量はできるだけ少なくしたいと思う時,自分ではどうにもできないことを可能な範囲で積極的に解釈したい時,人生をコントと考える方法は有用だと思う。
最近,学生の愚痴や悩みが,そこそこの分量で私のところに集まってきた。私は,業務で学生相談を担当しているわけではないし,臨床心理学の資格を取得してカウンセリングを展開しているわけでもないし,相談を受けて「俺は頼りにされているなあ。」と有能感を感じるタイプでもない。そのため,「相談するなら淡野先生だ。」とオフィシャルに学生から認識されることはないし,「相談があればいつでも研究室に来なさい。」と学生に言うこともない。ただ,相談されれば可能な限り誠実に対応するし,相手が比較的親しい学生であればあれこれ付き合うこともあるし,相手が比較的高いリテラシを持つと考えられる学生であれば私的な意見も提示する。そもそも,学生と親しんだり華やいだりすることは類比的に好きである。今回は何が要因したのか分からないが,学生の愚痴や悩みが,そこそこの分量で私のところに集まってきた。
私は学生の相談に対して,考え方次第でアウトカムが変わるという知見を提示した。心理学的知見に基づく応対である。この点は,普通と言えば普通である。
加えて,学生が比較的親しい学生もしくは比較的高いリテラシを持つと考えられる学生だったので,私的な考察を交えて人生をコントだと考えてみることを提案した。学生の口調は概して明るかったが,学生たちの相談行動を動機づけた挑発事象(provoking event)は,学生たちにとっては重要なものであり,かつ,コントールし難いものだった。上述のモデルで開けば,ストレッサーの影響の程度は大きく,コントロール可能性は低く,問題焦点型コーピングの結果,認知変容を試みるオプションが適応的と考えられた。愚痴や悩みの詳細を書くことは避けるが,学生たちの主訴は総じて,教育学部における学生生活において解せないことがある,というものだった。私は,学生の考えも分かるし,挑発の源泉(source of provocation)である制度の問題点や,教員の考えも分かる。世の中には矛盾や誤謬や背理が存在する。教育的文脈であれば,教育的指導という形式で役職上他者に干渉することも必要だ。もちろん,挑発の源泉と対峙し,制度を改革することは不可能ではないし,相手に考えを改めてもらうオプションもある。しかし,それが困難な場合は,それらに不平不満を言い続けるより,見方を変える方が適応的である。心身健康に過ごすことを考えると,挑発の源泉に感情的に反発するより,事象を面白く解釈する方が適応的である。そこで,私は,人生をコントと考えるオプションを提案した。私は学生と,挑発の源泉が制度の件では,シナリオが悪いと考え,「面白い本で演じたかったなあ。」と言ったり,「ここにこんなアレンジがあれば良かった。」とシナリオライターのようにして楽しんだ。挑発の源泉が人の件では,キャスティングおよび演技力が悪いと考え,「配役変えちゃおうよ。」と言ったり,「ここをこうしないとアカデミー賞には程遠いな。」と言ったりして演出家を気取って遊んだ。面白くないと思っていたことでも,認知変容で面白がることは可能である。
最後にひとくち噺を書いておく。以前,学生と話をする中で,とある教員から「あなたたち学生は教員の指導に従順すぎる。態度を改めて,批判したり反論したりしなさい。」という趣旨の指導を受けた件を学生が開示した。教員は,自身の発言の矛盾に気付いていないらしい。学生がこの教育的指導を受けてクリティカルでコントラバヴァーシャルな行動を採用すれば,教員の指導に従順であることを繰り返すことになる。一笑に付すにはもったいない笑い話なので,私はこの逸話を授業で活用している。コントということにして,その教員のセリフを笑ってあげて欲しい。私見を付言すると,こういう教員は,批判したり反論したりすると,怒りがちである。
心理学は,考え方次第でアウトカムが変わることを明らかにしている。例えば,Dr. Lichard LazarusとDr. Susan Folkmanが提唱したtransactional model of stress and coping(ストレスとコーピングのトランスアクショナルモデル)がある。このモデルは,ストレッサー,認知的評価,ストレス反応という分類を仮定する。認知的評価では2種類の評価が行われ,1次的評価ではストレッサーの影響の程度等に関する評価が,2次的評価ではストレッサーのコントロール可能性等に関する評価が行われる。評価の結果,解決策考案などの問題焦点型コーピングや気晴らしによる情動変容などの情動焦点型コーピングが採用される。そして,ストレスの再評価が行われ,ストレス反応が調整される。このモデルは,ストレスのメカニズムを説明し,アウトカムとして生起する問題行動や心身の疾患に対する臨床的介入を喚起した点において学術的社会的に大きな貢献を果たしている。考え方次第でアウトカムが変わる件は,今は広く知られている。ポップスではたくさんの楽曲でこの件が歌われているし,学食における学生の会話の中にもこの件への言及は観察されるし,飲み屋ではこの件をもって上司が部下を諭しているし,VILLAGE VANGUARDに行けばこのテーマを取り扱った本が店員のキャッチーなひとくちコメント付きで並んでいる。
人生をコントだと思えば,楽しいことは楽しく,また,悲しいことも楽しく捉えて生きていけると思う。人には,悲しみに浸りたい時がある。泣きたい時は悲しい映画を見て思い切り泣く,というオプションもある。人生をコントだと考えると絶対的にハッピーだと押し付けるわけではない。人生における悲しみの総量はできるだけ少なくしたいと思う時,自分ではどうにもできないことを可能な範囲で積極的に解釈したい時,人生をコントと考える方法は有用だと思う。
最近,学生の愚痴や悩みが,そこそこの分量で私のところに集まってきた。私は,業務で学生相談を担当しているわけではないし,臨床心理学の資格を取得してカウンセリングを展開しているわけでもないし,相談を受けて「俺は頼りにされているなあ。」と有能感を感じるタイプでもない。そのため,「相談するなら淡野先生だ。」とオフィシャルに学生から認識されることはないし,「相談があればいつでも研究室に来なさい。」と学生に言うこともない。ただ,相談されれば可能な限り誠実に対応するし,相手が比較的親しい学生であればあれこれ付き合うこともあるし,相手が比較的高いリテラシを持つと考えられる学生であれば私的な意見も提示する。そもそも,学生と親しんだり華やいだりすることは類比的に好きである。今回は何が要因したのか分からないが,学生の愚痴や悩みが,そこそこの分量で私のところに集まってきた。
私は学生の相談に対して,考え方次第でアウトカムが変わるという知見を提示した。心理学的知見に基づく応対である。この点は,普通と言えば普通である。
加えて,学生が比較的親しい学生もしくは比較的高いリテラシを持つと考えられる学生だったので,私的な考察を交えて人生をコントだと考えてみることを提案した。学生の口調は概して明るかったが,学生たちの相談行動を動機づけた挑発事象(provoking event)は,学生たちにとっては重要なものであり,かつ,コントールし難いものだった。上述のモデルで開けば,ストレッサーの影響の程度は大きく,コントロール可能性は低く,問題焦点型コーピングの結果,認知変容を試みるオプションが適応的と考えられた。愚痴や悩みの詳細を書くことは避けるが,学生たちの主訴は総じて,教育学部における学生生活において解せないことがある,というものだった。私は,学生の考えも分かるし,挑発の源泉(source of provocation)である制度の問題点や,教員の考えも分かる。世の中には矛盾や誤謬や背理が存在する。教育的文脈であれば,教育的指導という形式で役職上他者に干渉することも必要だ。もちろん,挑発の源泉と対峙し,制度を改革することは不可能ではないし,相手に考えを改めてもらうオプションもある。しかし,それが困難な場合は,それらに不平不満を言い続けるより,見方を変える方が適応的である。心身健康に過ごすことを考えると,挑発の源泉に感情的に反発するより,事象を面白く解釈する方が適応的である。そこで,私は,人生をコントと考えるオプションを提案した。私は学生と,挑発の源泉が制度の件では,シナリオが悪いと考え,「面白い本で演じたかったなあ。」と言ったり,「ここにこんなアレンジがあれば良かった。」とシナリオライターのようにして楽しんだ。挑発の源泉が人の件では,キャスティングおよび演技力が悪いと考え,「配役変えちゃおうよ。」と言ったり,「ここをこうしないとアカデミー賞には程遠いな。」と言ったりして演出家を気取って遊んだ。面白くないと思っていたことでも,認知変容で面白がることは可能である。
最後にひとくち噺を書いておく。以前,学生と話をする中で,とある教員から「あなたたち学生は教員の指導に従順すぎる。態度を改めて,批判したり反論したりしなさい。」という趣旨の指導を受けた件を学生が開示した。教員は,自身の発言の矛盾に気付いていないらしい。学生がこの教育的指導を受けてクリティカルでコントラバヴァーシャルな行動を採用すれば,教員の指導に従順であることを繰り返すことになる。一笑に付すにはもったいない笑い話なので,私はこの逸話を授業で活用している。コントということにして,その教員のセリフを笑ってあげて欲しい。私見を付言すると,こういう教員は,批判したり反論したりすると,怒りがちである。
2015-05-22
将棋界の勝負の厳しさ
先日,学生が研究室に来た際,本棚にある将棋雑誌と図書を見て,「淡野先生,本当に将棋ファンなんですね。」と言った。彼は,松江で開催された第73期将棋名人戦第3局を観戦できなかった無念を綴った私のブログ「第73期将棋名人戦第3局」を読んだらしい。そして,私が将棋ファンである件を知ったらしい。
彼の言葉にインスパイアされて将棋について何か書こうと思ったので,渡辺明棋王の「勝負心」と,森内俊之九段の「覆す力」の2冊を参考資料として,将棋界の勝負の厳しさをお伝えする。渡辺棋王は,2013年,竜王,棋王,王将の三冠時に「勝負心」を出版した。しかし,2014年に竜王位を,2015年には王将位を失い,現在は棋王の一冠である。渡辺棋王は,出版当時,竜王位9連覇中だった。将棋ファンには,竜王位連覇を支えるものは何か,そして,連覇記録をどこまで伸ばすことができるかが注目の的だった。しかし,本を出版した翌年に竜王位を失ってしまった。相手は当時の森内名人だった。この本のレヴューは,以前のブログ「渡辺明著「勝負心」を読む」に記した。因みに,竜王戦は,優勝賞金が4,200万円と将棋界最高であることで知られる。オーディナリな大学教員である私からすると,9連覇で獲得した賞金だけでも経済的満足に足る金額だと思う。渡辺棋王のブログを参照する限り,渡辺棋王は竜王位9連覇中も,失った後も,豪遊するようなことはしていない。渡辺棋王は競馬ファンで,馬券を購入して競馬に興じるとともに,一口馬主として競走馬の育成に関与しているが,一口馬主なので1頭を個人で所有しているわけではない。森内九段は,2014年,竜王と名人の二冠時に「覆す力」を出版した。しかし,2014年に名人位と竜王位を続けて失い,現在は無冠である。無冠なので,九段の段位を名乗っている。将棋ファンには,将棋界の2大タイトルである竜王と名人の二冠を占めていた棋士の所感,そして,その後の防衛が注目の的だった。しかし,本を出版して1年もしないうちに無冠となってしまった。因みに,森内九段は,「覆す力」の中で,カレーが好きなこと,また,自身のカレー好きが広く知られていることに言及している。言及箇所を以下に引用する。
「この竜王戦において,私は2日目の昼食はすべてカレーを選ぶことにしていた。理由はとても簡単だ。カレーが好きだということと,どこで食べてもおいしいということ。そして,緊張感の高まる2日目の昼にメニューのことであれこれと悩みたくないというものだ。カレーさえ選んでおけば,まず間違いなはない。
最近は,インターネットによる対局の生中継などの影響で,私の”2日目のカレー”が将棋ファンの間ですっかり話題になってしまい,ある将棋センターの主催で「森内名人とカレーを食べる」という主旨の将棋イベントが行われたほどだ。
自分ではそれほど意識していたつもりではなかったのだが,こうなってしまうと,私としてもカレー以外のメニューを選びにくくなる。今回の竜王戦でも2日目はすべてカレーで通した。」
将棋世界2013年12月号を参照すると,言及されているイヴェントレポートが掲載されている。イヴェントの題は,「森内名人”名人の英知に学ぶ”自戦解説会およびトークショー」だった。レポートには,イヴェントに北海道から九州まで70人のファンが集まったこと,森内九段(当時は森内竜王・名人)が自戦解説,トーク,書籍サイン会を行ったこと,森内九段がファンと一緒に有機野菜を使った薬膳カレーを食べたこと,森内九段に関するクイズコーナーがあったこと,が記されている。因みに,対局時の食事は味がしない,味わう余裕がない,とする棋士は少なくない。この点を心理学的に開くと,注意としての認知的リソース(resource)の多くが対局に関する情報処理に割かれ,食事で入力される味に関する情報処理にほとんど割かれないことが理由と考えることができる。これは,携帯電話で通話しながら自動車を運転することが危険となる件に同じである。携帯電話で通話しながら自動車を運転すると,認知的リソースが通話に関する情報処理に割かれることで道路状況に関する情報処理が疎かになる。翻るようにさらに因むと,森内九段の対局時のカレー選択は,昼食選択に認知的リソースを割きたくないという考えが外在化したものである。
今日はカレーにしよう。
彼の言葉にインスパイアされて将棋について何か書こうと思ったので,渡辺明棋王の「勝負心」と,森内俊之九段の「覆す力」の2冊を参考資料として,将棋界の勝負の厳しさをお伝えする。渡辺棋王は,2013年,竜王,棋王,王将の三冠時に「勝負心」を出版した。しかし,2014年に竜王位を,2015年には王将位を失い,現在は棋王の一冠である。渡辺棋王は,出版当時,竜王位9連覇中だった。将棋ファンには,竜王位連覇を支えるものは何か,そして,連覇記録をどこまで伸ばすことができるかが注目の的だった。しかし,本を出版した翌年に竜王位を失ってしまった。相手は当時の森内名人だった。この本のレヴューは,以前のブログ「渡辺明著「勝負心」を読む」に記した。因みに,竜王戦は,優勝賞金が4,200万円と将棋界最高であることで知られる。オーディナリな大学教員である私からすると,9連覇で獲得した賞金だけでも経済的満足に足る金額だと思う。渡辺棋王のブログを参照する限り,渡辺棋王は竜王位9連覇中も,失った後も,豪遊するようなことはしていない。渡辺棋王は競馬ファンで,馬券を購入して競馬に興じるとともに,一口馬主として競走馬の育成に関与しているが,一口馬主なので1頭を個人で所有しているわけではない。森内九段は,2014年,竜王と名人の二冠時に「覆す力」を出版した。しかし,2014年に名人位と竜王位を続けて失い,現在は無冠である。無冠なので,九段の段位を名乗っている。将棋ファンには,将棋界の2大タイトルである竜王と名人の二冠を占めていた棋士の所感,そして,その後の防衛が注目の的だった。しかし,本を出版して1年もしないうちに無冠となってしまった。因みに,森内九段は,「覆す力」の中で,カレーが好きなこと,また,自身のカレー好きが広く知られていることに言及している。言及箇所を以下に引用する。
「この竜王戦において,私は2日目の昼食はすべてカレーを選ぶことにしていた。理由はとても簡単だ。カレーが好きだということと,どこで食べてもおいしいということ。そして,緊張感の高まる2日目の昼にメニューのことであれこれと悩みたくないというものだ。カレーさえ選んでおけば,まず間違いなはない。
最近は,インターネットによる対局の生中継などの影響で,私の”2日目のカレー”が将棋ファンの間ですっかり話題になってしまい,ある将棋センターの主催で「森内名人とカレーを食べる」という主旨の将棋イベントが行われたほどだ。
自分ではそれほど意識していたつもりではなかったのだが,こうなってしまうと,私としてもカレー以外のメニューを選びにくくなる。今回の竜王戦でも2日目はすべてカレーで通した。」
将棋世界2013年12月号を参照すると,言及されているイヴェントレポートが掲載されている。イヴェントの題は,「森内名人”名人の英知に学ぶ”自戦解説会およびトークショー」だった。レポートには,イヴェントに北海道から九州まで70人のファンが集まったこと,森内九段(当時は森内竜王・名人)が自戦解説,トーク,書籍サイン会を行ったこと,森内九段がファンと一緒に有機野菜を使った薬膳カレーを食べたこと,森内九段に関するクイズコーナーがあったこと,が記されている。因みに,対局時の食事は味がしない,味わう余裕がない,とする棋士は少なくない。この点を心理学的に開くと,注意としての認知的リソース(resource)の多くが対局に関する情報処理に割かれ,食事で入力される味に関する情報処理にほとんど割かれないことが理由と考えることができる。これは,携帯電話で通話しながら自動車を運転することが危険となる件に同じである。携帯電話で通話しながら自動車を運転すると,認知的リソースが通話に関する情報処理に割かれることで道路状況に関する情報処理が疎かになる。翻るようにさらに因むと,森内九段の対局時のカレー選択は,昼食選択に認知的リソースを割きたくないという考えが外在化したものである。
今日はカレーにしよう。
2015-05-18
松江城天守国宝指定へ
2015年5月15日,文化庁文化審議会が下村文部科学大臣に対し,松江城天守を国宝に指定する答申を行った。私は日本史に疎く,城に対して特別な興味はない。「天守」が何を指すかも今回の国宝指定で学んだほどである。しかし,私は,松江に来てから何度も松江城を訪れ,その魅力を実感している。松江城天守は,黒色の外装と屋根のバランスがスマートで,歩くと木の床の感覚が気持ち良く,県庁所在地であるにも関わらず人口およそ20万人という小さな松江の中心街を宍道湖の水のコントラストとともに見渡せる眺望が美しい,大変よろしいアイコンである。城の敷地は散策に適した広さで,石垣は天守の迫力を演出し,桜やなんじゃもんじゃは花を咲かせると優美である。島根県観光キャラクターのしまねっこやしまねスーパー大使吉田くんは,松江城天守の国宝指定のニュースを受けた祝福コメントを寄せていた。
島根はこのところ,話題を欠かない。2013年,出雲大社の本殿の遷宮が伊勢神宮の遷宮と同じタイミングで行われた。2014年,縁結びブームの中で高円宮家典子さまと千家国麿出雲大社権宮司が結婚された。2015年,松江城天守が国宝に指定されることになった。来年ではあるが,2016年,出雲大社が平成の大遷宮を終える。出雲大社の遷宮は,2013年に完了したと思う人が少なくないらしいが,2013年の件は本殿の遷宮に関する件であり,一連の平成の大遷宮は2016年に完了する。
私は,松江城天守国宝指定のニュースを聞いて,松江城に関するお土産が増えるのではないかと予想する。島根には,ヴァリエイション豊かなお土産がある。松江のお土産だけを取り上げても,松江の和菓子,宍道湖のしじみ,日本海の海産物,勾玉,しまねっこや吉田くんのグッズなどがある。松江から視野を広げれば,どじょう掬いまんじゅうや因幡の白うさぎも有名だ。しかし,私見では,松江城のお土産は少ない。天守などの売店では松江城グッズが販売されているが,種類は少なく,私的には思い切りが悪いと感じる。今回の松江城天守国宝指定を受けて,松江城を訪れる人は増えるだろう。製造関係者にはビジネスチャンスとなるかもしれない。
観光に役立つと思うので,松江城駐車場に関するひとくち情報として,島根県庁が展開する「おもてなし駐車場制度」を記しておく。この制度は,イヴェントなどでイレギュラーする場合を除き,平日9:00-17:00以外と土日祝日に島根県庁構内の駐車場を無料で開放する制度である。当該期間は,連続する場合は24時間無料で駐車場を利用できる。数日間連続で停め置いても構わない。私は,松江観光の際に何度も島根県庁の駐車場を利用している。島根県庁は,松江中心街の中心にあるので,利用しない手はない。ゲートも手続きもなくイージーに駐車できるので非常に便利である。松江城周辺には,いくつか有料駐車場がある。有料駐車場で松江城の最寄りとなるのは松江城大手前駐車場である。島根県庁駐車場は,場所によっては松江城大手前駐車場より松江城に近くなる。すなわち,土日祝日かつ場所によるという限定はあるが,島根県庁駐車場が,松江城の最寄りで無料の駐車場ということになる。この件を知らないためか,有料の松江城大手前駐車場に入庫の車列ができ,無料の島根県庁駐車場が空いているというアイロニーが観察されることがある。ただ,松江城の櫓や石垣を堪能しやすいのは,松江城大手前駐車場側のエントランスであるため,島根県庁駐車場に駐車し,松江城大手前駐車場まで歩いてエントリするオプションがお勧めである。私の歩速では1分しかかからない。観光に役立てば幸いである。FYI。
近くで明るく楽しい話題があることは,シンプルに嬉しい。松江城天守国宝指定おめでとうございます。
島根はこのところ,話題を欠かない。2013年,出雲大社の本殿の遷宮が伊勢神宮の遷宮と同じタイミングで行われた。2014年,縁結びブームの中で高円宮家典子さまと千家国麿出雲大社権宮司が結婚された。2015年,松江城天守が国宝に指定されることになった。来年ではあるが,2016年,出雲大社が平成の大遷宮を終える。出雲大社の遷宮は,2013年に完了したと思う人が少なくないらしいが,2013年の件は本殿の遷宮に関する件であり,一連の平成の大遷宮は2016年に完了する。
私は,松江城天守国宝指定のニュースを聞いて,松江城に関するお土産が増えるのではないかと予想する。島根には,ヴァリエイション豊かなお土産がある。松江のお土産だけを取り上げても,松江の和菓子,宍道湖のしじみ,日本海の海産物,勾玉,しまねっこや吉田くんのグッズなどがある。松江から視野を広げれば,どじょう掬いまんじゅうや因幡の白うさぎも有名だ。しかし,私見では,松江城のお土産は少ない。天守などの売店では松江城グッズが販売されているが,種類は少なく,私的には思い切りが悪いと感じる。今回の松江城天守国宝指定を受けて,松江城を訪れる人は増えるだろう。製造関係者にはビジネスチャンスとなるかもしれない。
観光に役立つと思うので,松江城駐車場に関するひとくち情報として,島根県庁が展開する「おもてなし駐車場制度」を記しておく。この制度は,イヴェントなどでイレギュラーする場合を除き,平日9:00-17:00以外と土日祝日に島根県庁構内の駐車場を無料で開放する制度である。当該期間は,連続する場合は24時間無料で駐車場を利用できる。数日間連続で停め置いても構わない。私は,松江観光の際に何度も島根県庁の駐車場を利用している。島根県庁は,松江中心街の中心にあるので,利用しない手はない。ゲートも手続きもなくイージーに駐車できるので非常に便利である。松江城周辺には,いくつか有料駐車場がある。有料駐車場で松江城の最寄りとなるのは松江城大手前駐車場である。島根県庁駐車場は,場所によっては松江城大手前駐車場より松江城に近くなる。すなわち,土日祝日かつ場所によるという限定はあるが,島根県庁駐車場が,松江城の最寄りで無料の駐車場ということになる。この件を知らないためか,有料の松江城大手前駐車場に入庫の車列ができ,無料の島根県庁駐車場が空いているというアイロニーが観察されることがある。ただ,松江城の櫓や石垣を堪能しやすいのは,松江城大手前駐車場側のエントランスであるため,島根県庁駐車場に駐車し,松江城大手前駐車場まで歩いてエントリするオプションがお勧めである。私の歩速では1分しかかからない。観光に役立てば幸いである。FYI。
近くで明るく楽しい話題があることは,シンプルに嬉しい。松江城天守国宝指定おめでとうございます。
2015-05-15
ライティング
学部の授業「子どもの発達と環境」で,ライティングをレクチャーした。「子どもの発達と環境」は,中学校教諭免許状家庭に関する必修科目であり,「教科に関する科目」の「保育学(実習を含む。)」に該当する。学生は,保育所および島根大学教育学部附属幼稚園で実習を行い,実習に基づいて子どもの発達と環境を考察し,考察を論述する。私は,考察方法,考察の記述方法,および考察の記述方法を内面化することによって可能となる考察の再構築方法をレクチャーする。学生が記述した考察は,実習報告として実習先の保育所および幼稚園に提出する。履修生は,3年次以上の学生であり,卒業研究に際した論文講読および論文執筆に対する意識が高まっている。ライティングの素養は,論文講読および論文執筆に有益と考えられる。実際,昨年の授業評価では,ライティングを学んだことを本授業のprosとして特筆していた学生が何人かいた。私としては,ライティングは子どもの発達と環境を考察する一連の授業の材料として位置付けていたので,その材料が良かったという特筆が見られたことは意外だった。
ライティングを学ぶと,多様な文章を明瞭に記述することができるようになる。倉島保美著「 論理が伝わる世界標準の「書く技術」」を参照すると,厳密な論理性に基づくライティングは,パラグラフライティングである。パラグラフライティングは,1つのトピックを説明する文の集まりであるパラグラフを基本単位とする。パラグラフの1文目には,トピックセンテンス(topic sentence, もしくは主題文,要約文)を記述する。トピックセンテンスは,具体的で簡潔である必要がある。パラグラフの2文目以降は,トピックセンテンスに対する複数の補足情報文を記述する。補足情報文は,3から7文程度が目安であると言われ,トピックが小さく補足情報文が少ない場合はトピックを集約してパラグラフを構成し,トピックが大きく補足情報文が多い場合はトピックを分割してパラグラフを分割する。パラグラフと段落は質を異にする。段落は,文章の大きな切れ目,段,物事の区切りを指し,トピックセンテンスを必要としない。小説(novel),コラム(column),エッセー(essay)などの読み物であれば,パラグラフライティングで記述せず,段落で区切ったり,文単位で記述したりすることがある。このような読み物は,読むこと自体を楽しむ目的があるため,論理的でなくてもよい。野矢茂樹著「新版論理トレーニング」や,同じく野矢茂樹著「入門!論理学」にも同様のことが記述されている。因みに,袋とじの起源は,小説の結末の立ち読み対策として考案されたと聞いたことがある。結末であるポイントだけをイージーに参照されては,著者も出版社も書店も困る。現在では,袋とじは,雑誌のセクシーなグラビアに多用されている。購買意欲を高める効果があるのだろう。ライティングの知識があれば,多様な記述を明瞭に記述することができる。パラグラフライティングは厳密な論理性を要求するので,援用もしくは応用する形式を採用すればよい。トピックセンテンスを設けた段落構成を用いるなどすれば,いろいろな文章が読みやすく分かりやすいものとなる。学校教育実践研究1や学校教育実践研究2では,学生は自己紹介から教育講話,観察に基づく授業協議,アチーヴメントの自己評価,自分が展開する授業に至るまで,多様な文章を記述する。ライティングの素養を活かせば,より明瞭かつ面白い文章が書けると私は思う。
また,ライティングを学ぶと,文章講読やスピーチ聴講がイージーとなる。パラグラフライティングで書かれた文章もしくはパラグラフライティングを援用応用した文章が,パラグラフもしくは段落の冒頭に主題を提示していることが分かれば,読み手は後続の内容に検討がつくため読みやすい。受験のテクニックとして,文章読解は段落の1文目だけを連続して読み進めると概要を把握しやすいと提示されるのは,このためである。心理学では,この方略をテストワイズネス(test-wiseness)と呼ぶ。また,パラグラフライティングで書かれた文章もしくはパラグラフライティングを援用応用した文章は,速読に対応する。1文目だけを読み進めればいいのだから,かなり速く読むことができる。同様に,話の冒頭に主題が提示されることが分かれば,聞き手は後続の内容に検討がつくため聞きやすい。因みに,分かりにくい話をする人は,ライティングの素養がないと言えなくもないが,そういうことを言うと,説教的サムシングを感情的に展開することが好きな人の気分を害しかねないので,詳しく書くことは控えておこう。
ライティングを学ぶと,文章の分量調整もイージーになる。トピックセンテンスを先に記述し,文章全体での主張を先に構築すれば,字数の過不足はイージーに調整できる。学生に字数制限があるレポート課題を課すと,終盤で字数を稼ぐための文章が散見することがある。この文章は,規定を満足させる努力を伝えるものであるが,文章構成能力の低さを露呈するものでもある。
「子どもの発達と環境」の授業の履修生には,言語教育専攻英語教育コースの学生もいたので,English composition(英作文)の話にも触れた。私は,学部時代に,中学校教諭一種免許状外国語(英語)および高等学校教諭一種免許状外国語(英語)の免許を取得した。学部生の時,英語教育の授業を履修し,英語のライティングのトレーニングをした。私は,パラグラフライティングをEnglish compositionとして学んだ。そこでは,トピックセンテンスはthesis statementとして運用した。私たち学生のテーマは,当該の論述を,英語で考えて英語で直接記述するか,日本語で考えて英語に翻訳する方式で記述するか,どちらが良いかというものだった。語彙数は,言語ごとに異なる。日本語と比較すると,英語の語彙数はかなり少ない。当該表現の直訳がない場合は,意訳したり他の語彙を援用したりして翻訳する。その経験を重ねると,当該の論述を,英語で考えて英語で直接記述するか,日本語で考えて英語に翻訳する方式で記述するか,どちらが良いかという疑問が浮かぶようになる。答えなどない。因みに,慣れてくると,英語で考えて英語で直接記述できるようになる。私は,この授業で,日本の教育批評を展開していた。すると,授業を担当していた外国人教員が,「Shota,これこれの本を読んで君の批判的思考をcultivateしなさい。」と言って,教育や行政の国際比較に関する本を何冊か推薦してくれた。私は,それらを楽しく読んだ。懐かしい。
因みに,私のこのブログは,パラグラフライティングを援用し,トピックセンテンスを設けた段落構成を用いた文章である。論文や考察や所感などのアイディアを,少なくとも私自身が読み返した時に明瞭となるように書き留めている。読んだ人をインスパイアすることがあればもちろん嬉しいが,私自身が得するように書いているため,私なりの文章表現となっている。これをして,学生に,「淡野先生のブログは長いですね。」と言われるが,現在のところ,この方式が私的に適当なのでそれで良いと思っている。実際,上述のパラグラフライティングに関する記述も,「補足情報文は,3から7文程度が目安であると言われ,トピックが小さく補足情報文が少ない場合はトピックを集約してパラグラフを構成し,トピックが大きく補足情報文が多い場合はトピックを分割してパラグラフを分割する。」と引用しながら,補足情報文に該当する文は15文以上ある。それでいいと思ってそうしている。
ライティングを学ぶと,多様な文章を明瞭に記述することができるようになる。倉島保美著「 論理が伝わる世界標準の「書く技術」」を参照すると,厳密な論理性に基づくライティングは,パラグラフライティングである。パラグラフライティングは,1つのトピックを説明する文の集まりであるパラグラフを基本単位とする。パラグラフの1文目には,トピックセンテンス(topic sentence, もしくは主題文,要約文)を記述する。トピックセンテンスは,具体的で簡潔である必要がある。パラグラフの2文目以降は,トピックセンテンスに対する複数の補足情報文を記述する。補足情報文は,3から7文程度が目安であると言われ,トピックが小さく補足情報文が少ない場合はトピックを集約してパラグラフを構成し,トピックが大きく補足情報文が多い場合はトピックを分割してパラグラフを分割する。パラグラフと段落は質を異にする。段落は,文章の大きな切れ目,段,物事の区切りを指し,トピックセンテンスを必要としない。小説(novel),コラム(column),エッセー(essay)などの読み物であれば,パラグラフライティングで記述せず,段落で区切ったり,文単位で記述したりすることがある。このような読み物は,読むこと自体を楽しむ目的があるため,論理的でなくてもよい。野矢茂樹著「新版論理トレーニング」や,同じく野矢茂樹著「入門!論理学」にも同様のことが記述されている。因みに,袋とじの起源は,小説の結末の立ち読み対策として考案されたと聞いたことがある。結末であるポイントだけをイージーに参照されては,著者も出版社も書店も困る。現在では,袋とじは,雑誌のセクシーなグラビアに多用されている。購買意欲を高める効果があるのだろう。ライティングの知識があれば,多様な記述を明瞭に記述することができる。パラグラフライティングは厳密な論理性を要求するので,援用もしくは応用する形式を採用すればよい。トピックセンテンスを設けた段落構成を用いるなどすれば,いろいろな文章が読みやすく分かりやすいものとなる。学校教育実践研究1や学校教育実践研究2では,学生は自己紹介から教育講話,観察に基づく授業協議,アチーヴメントの自己評価,自分が展開する授業に至るまで,多様な文章を記述する。ライティングの素養を活かせば,より明瞭かつ面白い文章が書けると私は思う。
また,ライティングを学ぶと,文章講読やスピーチ聴講がイージーとなる。パラグラフライティングで書かれた文章もしくはパラグラフライティングを援用応用した文章が,パラグラフもしくは段落の冒頭に主題を提示していることが分かれば,読み手は後続の内容に検討がつくため読みやすい。受験のテクニックとして,文章読解は段落の1文目だけを連続して読み進めると概要を把握しやすいと提示されるのは,このためである。心理学では,この方略をテストワイズネス(test-wiseness)と呼ぶ。また,パラグラフライティングで書かれた文章もしくはパラグラフライティングを援用応用した文章は,速読に対応する。1文目だけを読み進めればいいのだから,かなり速く読むことができる。同様に,話の冒頭に主題が提示されることが分かれば,聞き手は後続の内容に検討がつくため聞きやすい。因みに,分かりにくい話をする人は,ライティングの素養がないと言えなくもないが,そういうことを言うと,説教的サムシングを感情的に展開することが好きな人の気分を害しかねないので,詳しく書くことは控えておこう。
ライティングを学ぶと,文章の分量調整もイージーになる。トピックセンテンスを先に記述し,文章全体での主張を先に構築すれば,字数の過不足はイージーに調整できる。学生に字数制限があるレポート課題を課すと,終盤で字数を稼ぐための文章が散見することがある。この文章は,規定を満足させる努力を伝えるものであるが,文章構成能力の低さを露呈するものでもある。
「子どもの発達と環境」の授業の履修生には,言語教育専攻英語教育コースの学生もいたので,English composition(英作文)の話にも触れた。私は,学部時代に,中学校教諭一種免許状外国語(英語)および高等学校教諭一種免許状外国語(英語)の免許を取得した。学部生の時,英語教育の授業を履修し,英語のライティングのトレーニングをした。私は,パラグラフライティングをEnglish compositionとして学んだ。そこでは,トピックセンテンスはthesis statementとして運用した。私たち学生のテーマは,当該の論述を,英語で考えて英語で直接記述するか,日本語で考えて英語に翻訳する方式で記述するか,どちらが良いかというものだった。語彙数は,言語ごとに異なる。日本語と比較すると,英語の語彙数はかなり少ない。当該表現の直訳がない場合は,意訳したり他の語彙を援用したりして翻訳する。その経験を重ねると,当該の論述を,英語で考えて英語で直接記述するか,日本語で考えて英語に翻訳する方式で記述するか,どちらが良いかという疑問が浮かぶようになる。答えなどない。因みに,慣れてくると,英語で考えて英語で直接記述できるようになる。私は,この授業で,日本の教育批評を展開していた。すると,授業を担当していた外国人教員が,「Shota,これこれの本を読んで君の批判的思考をcultivateしなさい。」と言って,教育や行政の国際比較に関する本を何冊か推薦してくれた。私は,それらを楽しく読んだ。懐かしい。
因みに,私のこのブログは,パラグラフライティングを援用し,トピックセンテンスを設けた段落構成を用いた文章である。論文や考察や所感などのアイディアを,少なくとも私自身が読み返した時に明瞭となるように書き留めている。読んだ人をインスパイアすることがあればもちろん嬉しいが,私自身が得するように書いているため,私なりの文章表現となっている。これをして,学生に,「淡野先生のブログは長いですね。」と言われるが,現在のところ,この方式が私的に適当なのでそれで良いと思っている。実際,上述のパラグラフライティングに関する記述も,「補足情報文は,3から7文程度が目安であると言われ,トピックが小さく補足情報文が少ない場合はトピックを集約してパラグラフを構成し,トピックが大きく補足情報文が多い場合はトピックを分割してパラグラフを分割する。」と引用しながら,補足情報文に該当する文は15文以上ある。それでいいと思ってそうしている。
2015-05-10
第73期将棋名人戦第3局
2015年5月7日と8日,第73期将棋名人戦第3局が松江市の松江歴史館で開催された。名人戦の島根県開催は49年ぶりらしい。
昨年,今回と同じ松江歴史館で,第72期将棋名人戦第5局の開催が予定されていたが,当時の挑戦者だった羽生三冠が森内名人相手に4連勝し,第5局は開催されずに名人戦は幕を閉じた。羽生ファンには嬉しい。森内ファンには悔しい。私は両者を含めた将棋全体のファンである。名人戦が早く終わって残念だった。そして,何より,松江で名人戦観戦ができずに残念だった。私は,タイトル戦という優れた環境における名局を数多く観たいので,タイトル戦の番勝負はフルセットを希望する。フルセットを希望する考えは,タイトル戦に携わる主催者(主催社)や開催地である地元主催も同じと聞く。それは,スポンサー(i.e. 主催者,主催社)にすれば,新手の発見や定跡の整備や棋士の人間ドラマが期待できるからである。将棋の上位スポンサーは新聞社である。新聞の将棋欄を下支えしているのは,主催する棋戦の棋譜である。地元主催にすれば,タイトル戦自体が観光目的となったり地元資源のアピールの機会となったりするためである。タイトル戦の日程は,基本的に前後の移動日を勘案して前泊と後泊を含む。名人戦の場合,持ち時間9時間の2日制なので,1局に4日を要する。この日程の間,対局者は,立会人や解説者や記者などの関係者と共に,開催地の名所を回ったり,前夜祭で有形文化財や無形文化財を鑑賞したり,対局中に食を楽しんだりする。タイトル戦では対局者の食事とおやつがフィーチャーされるので,地元の名産品特産品が広く知られることになる。対局者は今回,島根の鯛めし,寿司,出雲そば,和菓子,フルーツ,干し柿などを食べていた。
私は,第73期将棋名人戦第3局の大盤解説会に参加して観戦することにした。大盤解説会とは,対局者が将棋を指す対局室の近くで開催される,大きな将棋盤である大盤を用いた対局の解説会である。多くの場合,大盤解説会は,対局室があるホテルや旅館や施設のパーティ会場や会議室で行われる。解説者は,プロ棋士が担当する。立会人や現地に同行したプロ棋士が飛び入りで解説することもある。聞き手は,女流棋士が担当することが多い。TV中継もある。NHKは,これまで,たくさんのタイトル戦を中継してきた。名人戦は持ち時間が9時間と長い。中継は,1時間,長くて2時間ほどしか時間がない。中継の間に指し手が1手も進まないことは珍しくない。局面に変化はないが,そこに至るまでの変化やその後の変化を考慮するのが将棋である。私は,指し手が進まない一見シュールな中継は,将棋の醍醐味を体現するひとつだと考える。アナウンサーが進行し,解説担当のプロ棋士と中継時間をやりくりする。時間が余って,映像を対局室の中継カメラに切り替えることがある。長考する際,対局者は席を外すことがある。トイレに立ったり,顔を洗ってリフレッシュしたり,自室に戻ってリラックスすることに加えて,対局室側の庭園等を散歩することもある。場合によっては,両対局者が対局室にいないこともある。これらを初めて観た人には,何のための中継か分からないかもしれない。これが将棋の実際である。webでは,ニコニコ動画が対局開始から終局まで通して中継している。将棋の実際に触れたついでに,タイトル戦の見学について記す。棋戦によっては,地元の児童生徒学生やファンが対局室に入室して見学する機会が提供されることがある。タイミングは,朝の対局開始時,昼食休憩後の対局再開時,2日制の朝の対局再開時が多い。見学時間は,10分ほどである。昼食休憩後の対局再開時の見学の場合,対局再開の時刻になっても対局者が戻らないことがある。それは,昼食後に長めに休み続けていたり,昼寝をしていたりするためである。その場合,見学者は,対局再開を目にすることなく,見学を終えることとなる。ふたりの対局者のうち,どちらか一方が対局室に戻っていれば,プロ棋士を生で見るという機会となるが,将棋の対局の雰囲気を実感することはできない。見学者全員が将棋ファンであれば受容できるかもしれないが,なんとなく見学することになった小学生などは,「なんだよ,何もなかったじゃないか。」と解せないことにもなる。しかし,それが将棋の実際である。
5月7日と8日は,ともに授業があった。2日制の対局の場合,1日目は本格的な戦いが始まらないことが多い。場合に依っては,定跡を辿って1日が終わることもある。私は,2日目の5月8日に観戦することを考えた。5月8日は,5コマに学校教育実践研究2の授業があった。島根大学の時間割は,5コマが16:15から17:45となっている。名人戦は,2日目に夕食休憩がある。夕方にハイライトを迎えることが多いが,終局は20時や21時になることが多い。18時頃に松江歴史館に向かっても,決して遅くはない。授業の合間を縫って観戦するオプションもあるが,それは私の嗜好に合わない。予定を思案していたある日,島根大学教育学部附属幼稚園で行う学校教育実習6のオリエンテイションが,5月8日に決まった。日程調整を行った幼稚園の教諭から,オリエンテイションは16:00から17:00で開催するとの連絡があった。私は,教育実習部会において,島根大学教育学部附属幼稚園で行う学校教育実習6の代表を務めている。今回は,5コマの学校教育実践研究2を欠席し,学校教育実習6のオリエンテイションに出席する必要がある。渡りに船的ラッキーだった。オリエンテイションの終了予定時間は,学校教育実践研究2の終了予定時間より早い。松江歴史館に向かう時間が早くなる。
5月8日の詳細な予定を立てた。学校教育実習6のオリエンテイションにはAQUAで向かう。オリエンテイションを終えた後,AQUAで松江歴史館に直行する。松江歴史館の周辺駐車場にAQUAを止める。松江歴史館は,松江城や塩見縄手と連続する位置にある。つまり,観光地にある。また,島根県庁もすぐ側にある。その関係で,たくさんの飲食店がある。webで調べると,美味しいコロッケ屋さんとカレー屋さんが見つかった。松江歴史館に向かう前に,コロッケをひとつサクッと食べたい。大盤解説会に参加する。夕食休憩時にカレーを食べたい。夕食休憩後,終局まで将棋を観戦する。対局が長引いても問題はない。千日手指し直しになったとしても,それはそれでドラマがあって趣深い。昨年も観戦予定を立てていただけに,今回にかける思いは強い。
5月8日の昼,私はwebで,対局の動向にキャッチアップした。名人戦の中継は,名人戦棋譜速報という有料サーヴィスがある。私はそれには加入していない。しかし,webで,将棋全般を速報するサイトやプロ棋士のTwitterなどを参照することで,棋譜を把握できる。名人戦は将棋界最長の持ち時間の棋戦なので,戦型が急戦であったとしても,継時的進行は穏やかである。大盤解説会に向かう夕方までに,戦型と動向,加えて,終局していないこと,を把握できれば十分である。戦型は相居飛車の角換わりだった。早い時間の終局もなさそうだった。完全にピントが合った。
昼過ぎ,毎日新聞の紙面ビューアーを読んだ。昨日のブログ「新聞定期購読」に書いたように,私は,毎日新聞の紙面ビューアーで新聞を購読している。毎日新聞社は名人戦の主催社のひとつである。5月8日朝刊を,将棋の記事はあるかなあ,島根の地域面で名人戦はフィーチャーされているかなあ,と読み進めた。
そこで,まさかの事態が発覚した。島根の地域面を参照すると,名人戦の記事が掲載され,大盤解説会の入場券がすでに売り切れていると記述されていた。私はこの記事を一目見て,意味が分からなかった。大盤解説会は,一般的に,100名から300名のキャパシティがある会場で行われる。今回は,松江歴史館の「企画展示室」という100名が観戦できる会場だった。大盤解説会は,一般的に,参加者が会場のキャパシティを超えた場合,座席が増設されたり,間に合わない場合は立ち見を許容する対応が採択される。「みなさん,どんどん入って将棋を楽しんでください。」が基本方針である。しかし,松江歴史館は,その対応をオプションとして用意していなかった。私は,松江歴史館に電話で問い合わせた。すると,入場はすでに締め切ったとの回答を得た。当日券的サムシングはなく,強行で行ったとしても会場に入ることができない。名人戦のポスターは,島根大学教育学部の事務室前の掲示板にも掲載されていた。大学の教育学部の事務室にまで及ぶ宣伝は,大大的宣伝と言える。大大的宣伝を展開しておいて,会場のキャパシティが小さい。そりゃないんじゃないですかね。
大変残念だった。松江歴史館における対局室は,日本庭園を抱えた「暮らしの大広間」だった。大盤解説会場は,暮らしの大広間から近い企画展示室だった。対局室と大盤解説会場が近い場合,対局者は対局後に大盤解説会場でブリーフな感想戦を展開することがある。一目見たかった。もし,対局者が大盤解説会場に来なくても,立会人の久保九段や解説の菅井六段の話を聞きたかった。名人戦記念の扇子も買いたかった。いつでも食べられるが,コロッケも食べたかったし,カレーも食べたかった。いつでも見られるが,松江城のライトアップも見たかった。私は,慰みを思案した。
翌日5月9日,毎日新聞朝刊の島根の地域面を参照すると,大盤解説会が盛り上がった件や入場できなかったファンは松江歴史館敷地内でモニタ観戦した件,ファンのインタヴュー等が掲載されていた。かなり盛り上がったようである。強行で会場を訪れても,やはり入場は不可能だったようだ。名人戦でなくてもいい。他の棋戦が島根で開催されることを期待する。その時は,大盤解説会場のキャパシティを十分に確保して欲しい。
昨年,今回と同じ松江歴史館で,第72期将棋名人戦第5局の開催が予定されていたが,当時の挑戦者だった羽生三冠が森内名人相手に4連勝し,第5局は開催されずに名人戦は幕を閉じた。羽生ファンには嬉しい。森内ファンには悔しい。私は両者を含めた将棋全体のファンである。名人戦が早く終わって残念だった。そして,何より,松江で名人戦観戦ができずに残念だった。私は,タイトル戦という優れた環境における名局を数多く観たいので,タイトル戦の番勝負はフルセットを希望する。フルセットを希望する考えは,タイトル戦に携わる主催者(主催社)や開催地である地元主催も同じと聞く。それは,スポンサー(i.e. 主催者,主催社)にすれば,新手の発見や定跡の整備や棋士の人間ドラマが期待できるからである。将棋の上位スポンサーは新聞社である。新聞の将棋欄を下支えしているのは,主催する棋戦の棋譜である。地元主催にすれば,タイトル戦自体が観光目的となったり地元資源のアピールの機会となったりするためである。タイトル戦の日程は,基本的に前後の移動日を勘案して前泊と後泊を含む。名人戦の場合,持ち時間9時間の2日制なので,1局に4日を要する。この日程の間,対局者は,立会人や解説者や記者などの関係者と共に,開催地の名所を回ったり,前夜祭で有形文化財や無形文化財を鑑賞したり,対局中に食を楽しんだりする。タイトル戦では対局者の食事とおやつがフィーチャーされるので,地元の名産品特産品が広く知られることになる。対局者は今回,島根の鯛めし,寿司,出雲そば,和菓子,フルーツ,干し柿などを食べていた。
私は,第73期将棋名人戦第3局の大盤解説会に参加して観戦することにした。大盤解説会とは,対局者が将棋を指す対局室の近くで開催される,大きな将棋盤である大盤を用いた対局の解説会である。多くの場合,大盤解説会は,対局室があるホテルや旅館や施設のパーティ会場や会議室で行われる。解説者は,プロ棋士が担当する。立会人や現地に同行したプロ棋士が飛び入りで解説することもある。聞き手は,女流棋士が担当することが多い。TV中継もある。NHKは,これまで,たくさんのタイトル戦を中継してきた。名人戦は持ち時間が9時間と長い。中継は,1時間,長くて2時間ほどしか時間がない。中継の間に指し手が1手も進まないことは珍しくない。局面に変化はないが,そこに至るまでの変化やその後の変化を考慮するのが将棋である。私は,指し手が進まない一見シュールな中継は,将棋の醍醐味を体現するひとつだと考える。アナウンサーが進行し,解説担当のプロ棋士と中継時間をやりくりする。時間が余って,映像を対局室の中継カメラに切り替えることがある。長考する際,対局者は席を外すことがある。トイレに立ったり,顔を洗ってリフレッシュしたり,自室に戻ってリラックスすることに加えて,対局室側の庭園等を散歩することもある。場合によっては,両対局者が対局室にいないこともある。これらを初めて観た人には,何のための中継か分からないかもしれない。これが将棋の実際である。webでは,ニコニコ動画が対局開始から終局まで通して中継している。将棋の実際に触れたついでに,タイトル戦の見学について記す。棋戦によっては,地元の児童生徒学生やファンが対局室に入室して見学する機会が提供されることがある。タイミングは,朝の対局開始時,昼食休憩後の対局再開時,2日制の朝の対局再開時が多い。見学時間は,10分ほどである。昼食休憩後の対局再開時の見学の場合,対局再開の時刻になっても対局者が戻らないことがある。それは,昼食後に長めに休み続けていたり,昼寝をしていたりするためである。その場合,見学者は,対局再開を目にすることなく,見学を終えることとなる。ふたりの対局者のうち,どちらか一方が対局室に戻っていれば,プロ棋士を生で見るという機会となるが,将棋の対局の雰囲気を実感することはできない。見学者全員が将棋ファンであれば受容できるかもしれないが,なんとなく見学することになった小学生などは,「なんだよ,何もなかったじゃないか。」と解せないことにもなる。しかし,それが将棋の実際である。
5月7日と8日は,ともに授業があった。2日制の対局の場合,1日目は本格的な戦いが始まらないことが多い。場合に依っては,定跡を辿って1日が終わることもある。私は,2日目の5月8日に観戦することを考えた。5月8日は,5コマに学校教育実践研究2の授業があった。島根大学の時間割は,5コマが16:15から17:45となっている。名人戦は,2日目に夕食休憩がある。夕方にハイライトを迎えることが多いが,終局は20時や21時になることが多い。18時頃に松江歴史館に向かっても,決して遅くはない。授業の合間を縫って観戦するオプションもあるが,それは私の嗜好に合わない。予定を思案していたある日,島根大学教育学部附属幼稚園で行う学校教育実習6のオリエンテイションが,5月8日に決まった。日程調整を行った幼稚園の教諭から,オリエンテイションは16:00から17:00で開催するとの連絡があった。私は,教育実習部会において,島根大学教育学部附属幼稚園で行う学校教育実習6の代表を務めている。今回は,5コマの学校教育実践研究2を欠席し,学校教育実習6のオリエンテイションに出席する必要がある。渡りに船的ラッキーだった。オリエンテイションの終了予定時間は,学校教育実践研究2の終了予定時間より早い。松江歴史館に向かう時間が早くなる。
5月8日の詳細な予定を立てた。学校教育実習6のオリエンテイションにはAQUAで向かう。オリエンテイションを終えた後,AQUAで松江歴史館に直行する。松江歴史館の周辺駐車場にAQUAを止める。松江歴史館は,松江城や塩見縄手と連続する位置にある。つまり,観光地にある。また,島根県庁もすぐ側にある。その関係で,たくさんの飲食店がある。webで調べると,美味しいコロッケ屋さんとカレー屋さんが見つかった。松江歴史館に向かう前に,コロッケをひとつサクッと食べたい。大盤解説会に参加する。夕食休憩時にカレーを食べたい。夕食休憩後,終局まで将棋を観戦する。対局が長引いても問題はない。千日手指し直しになったとしても,それはそれでドラマがあって趣深い。昨年も観戦予定を立てていただけに,今回にかける思いは強い。
5月8日の昼,私はwebで,対局の動向にキャッチアップした。名人戦の中継は,名人戦棋譜速報という有料サーヴィスがある。私はそれには加入していない。しかし,webで,将棋全般を速報するサイトやプロ棋士のTwitterなどを参照することで,棋譜を把握できる。名人戦は将棋界最長の持ち時間の棋戦なので,戦型が急戦であったとしても,継時的進行は穏やかである。大盤解説会に向かう夕方までに,戦型と動向,加えて,終局していないこと,を把握できれば十分である。戦型は相居飛車の角換わりだった。早い時間の終局もなさそうだった。完全にピントが合った。
昼過ぎ,毎日新聞の紙面ビューアーを読んだ。昨日のブログ「新聞定期購読」に書いたように,私は,毎日新聞の紙面ビューアーで新聞を購読している。毎日新聞社は名人戦の主催社のひとつである。5月8日朝刊を,将棋の記事はあるかなあ,島根の地域面で名人戦はフィーチャーされているかなあ,と読み進めた。
そこで,まさかの事態が発覚した。島根の地域面を参照すると,名人戦の記事が掲載され,大盤解説会の入場券がすでに売り切れていると記述されていた。私はこの記事を一目見て,意味が分からなかった。大盤解説会は,一般的に,100名から300名のキャパシティがある会場で行われる。今回は,松江歴史館の「企画展示室」という100名が観戦できる会場だった。大盤解説会は,一般的に,参加者が会場のキャパシティを超えた場合,座席が増設されたり,間に合わない場合は立ち見を許容する対応が採択される。「みなさん,どんどん入って将棋を楽しんでください。」が基本方針である。しかし,松江歴史館は,その対応をオプションとして用意していなかった。私は,松江歴史館に電話で問い合わせた。すると,入場はすでに締め切ったとの回答を得た。当日券的サムシングはなく,強行で行ったとしても会場に入ることができない。名人戦のポスターは,島根大学教育学部の事務室前の掲示板にも掲載されていた。大学の教育学部の事務室にまで及ぶ宣伝は,大大的宣伝と言える。大大的宣伝を展開しておいて,会場のキャパシティが小さい。そりゃないんじゃないですかね。
大変残念だった。松江歴史館における対局室は,日本庭園を抱えた「暮らしの大広間」だった。大盤解説会場は,暮らしの大広間から近い企画展示室だった。対局室と大盤解説会場が近い場合,対局者は対局後に大盤解説会場でブリーフな感想戦を展開することがある。一目見たかった。もし,対局者が大盤解説会場に来なくても,立会人の久保九段や解説の菅井六段の話を聞きたかった。名人戦記念の扇子も買いたかった。いつでも食べられるが,コロッケも食べたかったし,カレーも食べたかった。いつでも見られるが,松江城のライトアップも見たかった。私は,慰みを思案した。
翌日5月9日,毎日新聞朝刊の島根の地域面を参照すると,大盤解説会が盛り上がった件や入場できなかったファンは松江歴史館敷地内でモニタ観戦した件,ファンのインタヴュー等が掲載されていた。かなり盛り上がったようである。強行で会場を訪れても,やはり入場は不可能だったようだ。名人戦でなくてもいい。他の棋戦が島根で開催されることを期待する。その時は,大盤解説会場のキャパシティを十分に確保して欲しい。
2015-05-09
新聞定期購読
この春から新聞定期購読を始めた。新規で定期購読を始めたわけではない。奈良の私の実家が毎日新聞を定期購読している関係で,毎日新聞を定期購読している家庭であればPC,スマートフォン,タブレットで5端末まで紙面を参照できる「紙面ビューアー」というサーヴィスを利用するようになった。
紙面ビューアーは,とても便利である。それは,私にとっての新聞定期購読の抑制要因をクリアするためである。私にとっての新聞定期購読の抑制要因は,大きく2つあった。ひとつは,新聞のリサイクル手続きが面倒である点である。古紙等の回収に合わせて新聞の束を運搬するのは面倒である。「リサイクルなんて俺には関係ないね。」と言って新聞を可燃ゴミで捨てるオプションもあるが,私はそのオプションを採択できない。ひとつは,私が家を空けることが多く,定期購読は損失感がある点である。ざっと見積もると,私は1年のうち,2か月は休暇や出張で家を空ける。その間に新聞を読まないことを考えると,定期購読は少しもったいないと感じてしまう。気が向いた時だけコンビニ等で新聞を購入するオプションもあるが,私は,通勤では,家から真っ直ぐ大学に向かいたいので,コンビニに立ち寄って購入する気にはならない。紙面ビューアーは,紙媒体ではないので,運搬の問題をクリアする。また,実家の定期購読の恩恵を受けて無料で紙面を参照できるので,損失感はなく,お得である。PC,スマートフォン,タブレットというモバイルシリーズでの参照が可能なので,好きな時に好きな場所で参照でき,とても便利である。要するに,私にとっては秀逸なサーヴィスなのである。スクリーンショットを用いれば,紙面の保存もできる。授業の資料として活用することもイージーだ。将棋ファンの私には,毎日新聞社が将棋名人戦や王将戦のスポンサーで将棋を観戦したり棋士の情報を参照したりできる点も嬉しい。新聞社がこのようなサーヴィスを展開するのは,広告の参照数が増加するためであろう。秀逸なサーヴィスなので,もっと早く利用を開始すれば良かったが,知らなかったので仕方ない。私の姉や妹はこのサーヴィスを利用して久しい。あまり実家に帰らない私だけ遅れていた。教えてくれても良かったのに。
因みに,人間生活環境教育専攻には,この春に新聞定期購読をやめた学生がいた。先日,学部の授業「子どもの発達と環境」で,ライティング演習の一環として,最近の出来事に関するエッセー発表を展開した。その際,学生が新聞購読をやめたことを提示した。その理由は,読まずに新聞をポストに放置した場合,数日でポストが新聞で溢れてしまい,それを見る度に新聞販売店と新聞配達員に対してギルティに感じるためだという。学生は,新聞定期購読のキャンセルの功罪を提示した。功は,罪悪感が無くなったことである。罪悪感の解消のために定期購読をやめたのであるから,目的は達成されている。別に購読をやめなくても,旅行などの外出で数日家にいない場合は,新聞販売店に連絡すれば当該機関の配達を休止を手配してもらえるが,この学生は外出で新聞が溜まるのではなく,気分で読まずに放っておくことで新聞が溜まるらしい。罪は,情報のインプットが少なくなったことである。学生が定期購読していた新聞は,山陰中央新報だった。山陰中央新報は,島根大学の教員が寄稿していることが結構あるとのことで,大学における修学をサポートするリソースとして有用だったらしい。定期購読をやめた今,残念に感じていると提示していた。
私が新聞定期購読を始めた最大の動機は,インプットする情報の質を変えたかったからである。私は,毎日,webで情報を参照する。日本のメディアでは,Yahoo!ニュース,山陰中央新報,livedoor NEWS,日本経済新聞,日刊サイゾー,海外のメディアでは主にBBC,CNN,The Australianを参照する。渡辺明棋王のブログやLady Gaga氏のTwitterや蛯原友里氏のInstagramも参照する。加えて,時間がある時は,日本のメディアでは,朝日新聞,時事通信,共同通信,毎日新聞,natalie,産経新聞,読売新聞,海外のメディアでは,ABC news,9 news.com.au,Daily Mail,Herald Sun,News.com.au,sky NEWS,The Telegraph,The Wall Street Journal Asia Editionを参照する。これらのメディアで参照できる情報は,情報量としてはなかなか豊富である。以前の私は,これらの情報で満足していた。しかし,徐徐に,情報の質を変えたいと思うようになった。これらのメディアを参照すれば,世界各地の情報を手広く収集するとともに,世界的に注目されている情報を多面的に把握することができる。報道方法や速報性の同一性や差異性も考察できる。しかし,当該情報が情報となるに至った経緯や,報道のバックステージ情報はあまり分からない。新聞紙面であれば,当該情報について,十分ではないにしろ,まとまった情報を提示してくれるだろうという期待があった。そのような報道や情報にアクセスしようとすると,webでは,有料会員になる必要があった。有料会員になれば問題は解決できただろうが,私はどのソースが良いか思案して決め兼ねていた。そこに,毎日新聞の紙面ビューアーが利用できるということになり,私は喜んだ。また,webの情報は,headlineを参照して興味があるものだけをクリックして参照するので,インプットする情報に「自分好み」というバイアスがかかっていることにも私は自覚的だった。webとは異なり,新聞紙面を開けば,自分が興味がないことも目に入ってくる。そして,たまたま目にした文章をきっかけとして,当該情報について考察することもある。これは,欲しい本を探して本屋を歩いているうちに,当初は買うつもりがなかった本を購入して知識が増える件に似ている。観たい映画を探しているうちに,当初はレンタルするつもりがなかったDVDをレンタルして思いがけず楽しんでしまう件に似ている。私は,一般的に「有識者」と言われる学者や専門家が新聞紙面に寄稿する原稿も読みたいと思っていた。そんな経緯で,私は新聞紙面を読みたいと思うに至った。そして,抑制要因をクリアする紙面ビューアーというサーヴィスを利用するようになった。
ソースを毎日新聞以外に広げるか否かは,現在検討中である。朝日新聞は,読者が読みたい情報を提供すると言われる。新聞ではないが,NHKは,国が国民に伝えたい情報を提供すると言われる。そんな中で毎日新聞は,類比的に偏りがない情報を提供すると言われる。これらのメディア批評に関する情報が信頼できるものかどうか,私には分からない。だから,それをこれから考えていきたい。複数の新聞を比較しながら読むことは面白いと思う。情報の質と量が豊かになるだろう。しかし,それは程度問題とも思う。それは,学会への所属と似ている。研究者は,一般的には,学会に所属する。所属する学会は,専門に応じてヴァリエイションがある。関連する学会に入った方が良いと考えると,10や20の学会に所属することになる。所属する学会が多くなれば多くなるほど,学会の運営や発行する学術誌にキャッチアップするだけでも大変になる。年会費も安くない。因みに,毎日新聞の2015年4月27日朝刊社説は,記述が限定的だった。社説は,「消費者利益を守れるか」というテーマで,スカイマークの経営破綻をフィーチャーしていた。その中では,ANAと日本航空の日本国内2大エアラインに属さないエアラインが事実上不在となることは,競争が緩み,運賃の引き上げなど消費者の不利益につながるのではないか,と記述されていた。この文章は,「運賃の引き上げなど」という形で「など」と付してはいるものの,運賃の低さと消費者利益をほぼ同義としていた。ほとんど考えなくても分かることだが,航空産業における消費者利益は,運賃の低さだけではない。安全性や,定期便の本数や,運行の定時性や,グラウンドスタッフおよびキャビンクルーのホスピタリティや,マイレージサーヴィスなど,様様なものが消費者利益となる。島根県には,石見空港という空港がある。愛称は,「萩・石見空港」である。御当地の象徴的サムシングを愛称に冠する空港が多い中,萩に義理立てしてこの名前になったらしい。この愛称では,空港が山口県萩市にあるのか島根県石見市にあるのかよく分からなくなってしまうが,そのリスクを了解して義理立てしているところはシンプルに面白い。この石見空港は,定期便は羽田空港便しか飛んでいない。便数は1日2便である。島根県益田市から空路で直接東京にアクセスできるか否かは,周辺住民には大きなトピックである。周辺住民としては,定期便の存続が利益である。そのため,周辺自治体は,定期便の存続のために,盛大なキャンペーンを展開している。運賃割引の助成はユージュアルで,お金をかけて搭乗率向上を目指している。観光にも影響するため,搭乗者への名産品のプレゼントも行っている。たまたま見かけたニュースでは,空港出口で,搭乗者全員に益田市特産のメロンを配布していた。私は,メロン価格の相場を知らないが,数百円ではないことは分かる。これらは,コストをかけた,「体重の乗った」キャンペーンである。「お金がかかっても定期便は利益だ」というコンセンサスがそこにはある。また,長年指摘されてきたように,イレギュラー時の振替や運行の定時性を重視してビジネスユースをする乗客はANAや日本航空を選択する。この場合の消費者利益も,運賃の低さではない。紙幅の関係で限定的な文章となったことは了解できるが,もう少し含みを持った記述にすべきである。スカイマークは,ANAと日本航空の圧倒的な基盤に,低価格の運賃で対抗するビジネスを展開し,航空産業の運賃低下を牽引した歴史がある。スカイマークがANA傘下での運行を展開するようになれば,運賃が上昇することはポッシブルである。この点を以って,消費者利益が損なわれると考えることは妥当である。ただ,そうであるならば,その点を明記する必要があろう。こういった批判的文章を書いたのは,紙面を読んだことがきっかけである。これからあれこれ面白くなりそうだ。
紙面ビューアーは,とても便利である。それは,私にとっての新聞定期購読の抑制要因をクリアするためである。私にとっての新聞定期購読の抑制要因は,大きく2つあった。ひとつは,新聞のリサイクル手続きが面倒である点である。古紙等の回収に合わせて新聞の束を運搬するのは面倒である。「リサイクルなんて俺には関係ないね。」と言って新聞を可燃ゴミで捨てるオプションもあるが,私はそのオプションを採択できない。ひとつは,私が家を空けることが多く,定期購読は損失感がある点である。ざっと見積もると,私は1年のうち,2か月は休暇や出張で家を空ける。その間に新聞を読まないことを考えると,定期購読は少しもったいないと感じてしまう。気が向いた時だけコンビニ等で新聞を購入するオプションもあるが,私は,通勤では,家から真っ直ぐ大学に向かいたいので,コンビニに立ち寄って購入する気にはならない。紙面ビューアーは,紙媒体ではないので,運搬の問題をクリアする。また,実家の定期購読の恩恵を受けて無料で紙面を参照できるので,損失感はなく,お得である。PC,スマートフォン,タブレットというモバイルシリーズでの参照が可能なので,好きな時に好きな場所で参照でき,とても便利である。要するに,私にとっては秀逸なサーヴィスなのである。スクリーンショットを用いれば,紙面の保存もできる。授業の資料として活用することもイージーだ。将棋ファンの私には,毎日新聞社が将棋名人戦や王将戦のスポンサーで将棋を観戦したり棋士の情報を参照したりできる点も嬉しい。新聞社がこのようなサーヴィスを展開するのは,広告の参照数が増加するためであろう。秀逸なサーヴィスなので,もっと早く利用を開始すれば良かったが,知らなかったので仕方ない。私の姉や妹はこのサーヴィスを利用して久しい。あまり実家に帰らない私だけ遅れていた。教えてくれても良かったのに。
因みに,人間生活環境教育専攻には,この春に新聞定期購読をやめた学生がいた。先日,学部の授業「子どもの発達と環境」で,ライティング演習の一環として,最近の出来事に関するエッセー発表を展開した。その際,学生が新聞購読をやめたことを提示した。その理由は,読まずに新聞をポストに放置した場合,数日でポストが新聞で溢れてしまい,それを見る度に新聞販売店と新聞配達員に対してギルティに感じるためだという。学生は,新聞定期購読のキャンセルの功罪を提示した。功は,罪悪感が無くなったことである。罪悪感の解消のために定期購読をやめたのであるから,目的は達成されている。別に購読をやめなくても,旅行などの外出で数日家にいない場合は,新聞販売店に連絡すれば当該機関の配達を休止を手配してもらえるが,この学生は外出で新聞が溜まるのではなく,気分で読まずに放っておくことで新聞が溜まるらしい。罪は,情報のインプットが少なくなったことである。学生が定期購読していた新聞は,山陰中央新報だった。山陰中央新報は,島根大学の教員が寄稿していることが結構あるとのことで,大学における修学をサポートするリソースとして有用だったらしい。定期購読をやめた今,残念に感じていると提示していた。
私が新聞定期購読を始めた最大の動機は,インプットする情報の質を変えたかったからである。私は,毎日,webで情報を参照する。日本のメディアでは,Yahoo!ニュース,山陰中央新報,livedoor NEWS,日本経済新聞,日刊サイゾー,海外のメディアでは主にBBC,CNN,The Australianを参照する。渡辺明棋王のブログやLady Gaga氏のTwitterや蛯原友里氏のInstagramも参照する。加えて,時間がある時は,日本のメディアでは,朝日新聞,時事通信,共同通信,毎日新聞,natalie,産経新聞,読売新聞,海外のメディアでは,ABC news,9 news.com.au,Daily Mail,Herald Sun,News.com.au,sky NEWS,The Telegraph,The Wall Street Journal Asia Editionを参照する。これらのメディアで参照できる情報は,情報量としてはなかなか豊富である。以前の私は,これらの情報で満足していた。しかし,徐徐に,情報の質を変えたいと思うようになった。これらのメディアを参照すれば,世界各地の情報を手広く収集するとともに,世界的に注目されている情報を多面的に把握することができる。報道方法や速報性の同一性や差異性も考察できる。しかし,当該情報が情報となるに至った経緯や,報道のバックステージ情報はあまり分からない。新聞紙面であれば,当該情報について,十分ではないにしろ,まとまった情報を提示してくれるだろうという期待があった。そのような報道や情報にアクセスしようとすると,webでは,有料会員になる必要があった。有料会員になれば問題は解決できただろうが,私はどのソースが良いか思案して決め兼ねていた。そこに,毎日新聞の紙面ビューアーが利用できるということになり,私は喜んだ。また,webの情報は,headlineを参照して興味があるものだけをクリックして参照するので,インプットする情報に「自分好み」というバイアスがかかっていることにも私は自覚的だった。webとは異なり,新聞紙面を開けば,自分が興味がないことも目に入ってくる。そして,たまたま目にした文章をきっかけとして,当該情報について考察することもある。これは,欲しい本を探して本屋を歩いているうちに,当初は買うつもりがなかった本を購入して知識が増える件に似ている。観たい映画を探しているうちに,当初はレンタルするつもりがなかったDVDをレンタルして思いがけず楽しんでしまう件に似ている。私は,一般的に「有識者」と言われる学者や専門家が新聞紙面に寄稿する原稿も読みたいと思っていた。そんな経緯で,私は新聞紙面を読みたいと思うに至った。そして,抑制要因をクリアする紙面ビューアーというサーヴィスを利用するようになった。
ソースを毎日新聞以外に広げるか否かは,現在検討中である。朝日新聞は,読者が読みたい情報を提供すると言われる。新聞ではないが,NHKは,国が国民に伝えたい情報を提供すると言われる。そんな中で毎日新聞は,類比的に偏りがない情報を提供すると言われる。これらのメディア批評に関する情報が信頼できるものかどうか,私には分からない。だから,それをこれから考えていきたい。複数の新聞を比較しながら読むことは面白いと思う。情報の質と量が豊かになるだろう。しかし,それは程度問題とも思う。それは,学会への所属と似ている。研究者は,一般的には,学会に所属する。所属する学会は,専門に応じてヴァリエイションがある。関連する学会に入った方が良いと考えると,10や20の学会に所属することになる。所属する学会が多くなれば多くなるほど,学会の運営や発行する学術誌にキャッチアップするだけでも大変になる。年会費も安くない。因みに,毎日新聞の2015年4月27日朝刊社説は,記述が限定的だった。社説は,「消費者利益を守れるか」というテーマで,スカイマークの経営破綻をフィーチャーしていた。その中では,ANAと日本航空の日本国内2大エアラインに属さないエアラインが事実上不在となることは,競争が緩み,運賃の引き上げなど消費者の不利益につながるのではないか,と記述されていた。この文章は,「運賃の引き上げなど」という形で「など」と付してはいるものの,運賃の低さと消費者利益をほぼ同義としていた。ほとんど考えなくても分かることだが,航空産業における消費者利益は,運賃の低さだけではない。安全性や,定期便の本数や,運行の定時性や,グラウンドスタッフおよびキャビンクルーのホスピタリティや,マイレージサーヴィスなど,様様なものが消費者利益となる。島根県には,石見空港という空港がある。愛称は,「萩・石見空港」である。御当地の象徴的サムシングを愛称に冠する空港が多い中,萩に義理立てしてこの名前になったらしい。この愛称では,空港が山口県萩市にあるのか島根県石見市にあるのかよく分からなくなってしまうが,そのリスクを了解して義理立てしているところはシンプルに面白い。この石見空港は,定期便は羽田空港便しか飛んでいない。便数は1日2便である。島根県益田市から空路で直接東京にアクセスできるか否かは,周辺住民には大きなトピックである。周辺住民としては,定期便の存続が利益である。そのため,周辺自治体は,定期便の存続のために,盛大なキャンペーンを展開している。運賃割引の助成はユージュアルで,お金をかけて搭乗率向上を目指している。観光にも影響するため,搭乗者への名産品のプレゼントも行っている。たまたま見かけたニュースでは,空港出口で,搭乗者全員に益田市特産のメロンを配布していた。私は,メロン価格の相場を知らないが,数百円ではないことは分かる。これらは,コストをかけた,「体重の乗った」キャンペーンである。「お金がかかっても定期便は利益だ」というコンセンサスがそこにはある。また,長年指摘されてきたように,イレギュラー時の振替や運行の定時性を重視してビジネスユースをする乗客はANAや日本航空を選択する。この場合の消費者利益も,運賃の低さではない。紙幅の関係で限定的な文章となったことは了解できるが,もう少し含みを持った記述にすべきである。スカイマークは,ANAと日本航空の圧倒的な基盤に,低価格の運賃で対抗するビジネスを展開し,航空産業の運賃低下を牽引した歴史がある。スカイマークがANA傘下での運行を展開するようになれば,運賃が上昇することはポッシブルである。この点を以って,消費者利益が損なわれると考えることは妥当である。ただ,そうであるならば,その点を明記する必要があろう。こういった批判的文章を書いたのは,紙面を読んだことがきっかけである。これからあれこれ面白くなりそうだ。
2015-04-25
学校教育実践研究2: 教育話法
この春から教育実習部会に所属し,1年生を対象とした学校教育実践研究1とともに,中学校実習を行う3年生を対象とした学校教育実践研究2に関与している。島根大学教育学部では,3年生は教育実習を3度行う。学生は,学校教育実習3では2週間,学校教育実習4では4週間,学校教育実習5では1週間,それぞれが取得する免許に応じてそれぞれの学校で実習を行う。
学校教育実践研究2では,教育話法の演習があった。これは,学級活動である「朝の会」や「帰りの会」で児童生徒に話をする場面を想定したスピーチの演習である。要するに,教育的文脈におけるひとくち噺の練習である。学校教育実習3における教育実習先の学年と学級はすでに決まっている。それぞれの学級に5人もしくは6人が配当されている。この配当グループは,そのまま学校教育実践研究2のグループとなっている。学生は,今回,宿題として,ワークシートにスピーチ原稿を記述して持参していた。そして,グループで発表し,それぞれのスピーチを批評し合った。テーマは,交通安全,挨拶,喧嘩,部活動から選択するものだった。
教育実習部会の大学教員の指名によって,3人の学生が発表し,大学教員はスピーチに対して講評を行った。ある学生は,喧嘩をテーマに選択した。そして,自分は茄子が嫌い(i.e. 茄子と喧嘩していた)だったが,母親のお酢を用いた調理で茄子を好きになった(i.e. 仲直りした),サムワンと喧嘩をした時,調理方法を変えるように,観点を変えることで良さが見える,という趣旨のスピーチをした。人にお酢をかけるということではない,と付言もしていた。その後,指名した大学教員が講評を行った。
私だったら,どのような講評を行うだろうか。私は担当にならなかったので,指名も講評もしなかった。学生と教員の話を聞きながら,自分が役割を担ったらどのような講評を行うか考えた。
私は,学生のスピーチを活かして,一言目に「僕はお酢が好きです。茄子も好きです。」と言うと思う。これは,ふざけているわけではない。もちろん,講評として,声の大きさやアイコンタクトの有無やスピーチの論理構成に言及するとは思う。
私のメッセージは,真剣と深刻は異なるということである。教育的文脈を意識するあまり,力んでシリアスになるのは真剣と深刻の履き違えである。講話であっても,エスプリを効かせたりユーモアを交えたりして,真剣に,真面目に,「楽しむ」ことは可能である。加えて,私は専門が心理学で,他者が存在する場面における価値観等への批判がその後のビヘイヴィアにクリティカルであることに自覚的なので,個別的批判的講評は避けたい。
学校教育実践研究2の終了後,学生がスピーチを記述したワークシートを集め,他の教員と分担して原稿に目を通すことになった。ワークシートにスピーチ原稿を記述することが学生の宿題なら,その宿題に目を通すことが私を含む教育実習部会に所属する大学教員の宿題である。私は25枚ほどのワークシートに目を通した。グループワーク中には,それ以外の学生の原稿も見たので,かなりの数を参照したことになる。
学生は,概ね,交通安全,挨拶,部活動について,次のような原稿を記述していた。交通安全については,交通安全を啓発する文章を記述していた。交通安全は,安全であるに越したことはないので,その通りだと私も思う。挨拶については,挨拶を啓発する文章を記述していた。挨拶は,挨拶するに越したことはないので,その通りだと私も思う。部活動については,部活動に所属している人は適度に(e.g. 体調を崩さないように,修学に支障がないように)励もうとメッセージする文章を記述していた。島根大学教育学部附属中学校の部活動の現状を知らないが,部活動は課外活動であり,本来的には自主的な参加が前提であるから,所属している人はそれぞれ励めば良いと私も思う。
喧嘩に関する原稿を読んで気になったことがあった。以下に記述する。
学生の喧嘩に関する原稿は,喧嘩しないことが良いと記述していた。学生は,概ね,喧嘩生起の低減を啓発する文章,あるいは,喧嘩による価値観の多様性の受容による喧嘩生起の低減を啓発する文章を記述していた。すなわち,喧嘩をしないようにしよう,あるいは,喧嘩には不可避なものがあるがその喧嘩から自分とは異なる価値観があることを受容して後の喧嘩を減らそう,と記述していた。
これらの記述は,良好な関係性の維持を良しとする価値観から導出されていた。原稿を参照すると,クラスメイトや仲間と仲良くするとハッピーな学校生活を送ることができるという論理が展開されていた。そこでは,各学生が経験した喧嘩のエピソードや教育的逸話が例示され,良好な関係性の維持が如何にポジティヴなアウトカムを導出するかが書かれていた。
心理学研究の多くは,喧嘩しないことが良いという知見をサポートする。心理学研究は,怒り,敵意および攻撃が心身の不適応と関連することを明らかにしている。AHA(anger-hostility-aggression)という言葉がある。青魚に豊富に含まれる不飽和脂肪酸のような単語であるが,そのまま邦訳すれば怒り,敵意および攻撃となる。これらの変数は,循環器疾患(cardiovascular disease)のリスクを高めることが明らかにされている。怒ったり敵意を抱いたりすれば,それだけで脈拍が速くなり,血圧が上昇し,心臓や血管に負荷がかかる。攻撃行動は基本的には仲間関係を悪化させることが明らかにされている。AHAは心身の不適応と関連するとの見解が一般的であり,AHAの外在化形態のひとつである喧嘩はしない方が適応的だと考えられる。
いじめに発展する可能性がある点においても喧嘩しないことが良いと言える。文部科学省のいじめの定義は,喧嘩がいじめに発展することを示唆する。平成18年度間の調査に基づいた文部科学省のいじめの定義は,「個々の行為が『いじめ』に当たるか否かの判断は,表面的・形式的に行うことなく,いじめられた児童生徒の立場に立って行う」と前置きした上で,「『当該児童生徒が,一定の人間関係のある者から,心理的,物理的な攻撃を受けたことにより,精神的な苦痛を感じているもの。』とする。なお,起こった場所は学校の内外を問わない。」としている。これには注が5つ付されていて,(注1)「『いじめられた児童生徒の立場に立って』とは,いじめられたとする児童生徒の気持ちを重視することである。」,(注2)「『一定の人間関係のある者』とは,学校の内外を問わず,例えば,同じ学校・学級や部活動の者,当該児童生徒が関わっている仲間や集団(グループ)など,当該児童生徒と何らかの人間関係のある者を指す。」,(注3)「『攻撃』とは,『仲間はずれ』や『集団による無視』など直接的にかかわるものではないが,心理的な圧迫などで相手に苦痛を与えるものも含む。」,(注4)「『物理的な攻撃』とは,身体的な攻撃のほか,金品をたかられたり,隠されたりすることなどを意味する。」,(注5)「けんか等を除く。」となっている。議論できるのであれば,「それでは,『けんか等を除く。』の『けんか』は何を指しますか,『等』には何が含まれますか?」と質問したいところであるが,定義と注を読む限り,おそらく,2者間もしくは複数の集団間の主体的衝突が喧嘩であり,回避的態度を示す者あるいは集団への攻撃がいじめということであろう。
哲学に目を向けると,関係性が不良でもいいじゃないかという知見がある。中島義道著「ひとを〈嫌う〉ということ」という本がある。中島先生は,人を嫌うことの自然さを本1冊という紙幅を用いて論じている。人を嫌うことは,食欲や性欲と同様に自然なことであり,うまく運用することのうちに人生の豊かさがあると説く。毒を抜いた穏やかな宥和状態を実現することは価値あることであるが,真に対立を直視した宥和ではないため,嘘があり,無理があり,思い込みがあり,幻想があると説く。人を嫌いになれば,嫌いなままで良い。嫌われたら,嫌われたままで良い。嫌い合ったら,嫌い合っていけば良い。嫌いを追求する態度に基づいた人生は,真実を恐れ続けて幸福に浸る人生よりずっと充実しているように思われる,強く豊かな人生であるように思われる,と記述していた。
中島先生の主張は,心理学研究のドミナントな知見に位置付ければ外れ値(outlier)と言える。科学としての心理学は,一般法則を追求するため,個人間の差異は誤差とし,共通性に焦点を当てる。そのため,中には怒り,敵意および攻撃が適応と関連する人がいることを了解して,怒り,敵意および攻撃が心身の不適応と関連すると結論付ける。
私のメッセージは,価値観を提示する際は多義性に留意して欲しい,ということである。情操教育や道徳教育は,義務教育段階においてはとても重要である。重要であることを自覚するからこそ,教育的文脈では一般論の定型的提供に陥りやすい。喧嘩しないこと,良好な関係性を維持することは,基本的には適応的である。しかし,仲良くすることを強要するあまり,その圧力で不適応になる人間も存在する。また,仲良くしないことを厭わない人間も存在することも事実である。一般論には,洗練の際に削り落ちた知見や学術的了解の下に誤差に位置付けられた個人間の差異がある。また,道徳を強要するあまり不道徳になるという背理が存在する。これらに配慮することは,簡単ではないが,難しいことではない。私は,これらの配慮ができるようになることを期待する。これは,教育学部だから学生全員が教員志望だと前提して講義やアドヴァイスを展開する大学教員に宛てたメッセージでもある。
学校教育実践研究2では,教育話法の演習があった。これは,学級活動である「朝の会」や「帰りの会」で児童生徒に話をする場面を想定したスピーチの演習である。要するに,教育的文脈におけるひとくち噺の練習である。学校教育実習3における教育実習先の学年と学級はすでに決まっている。それぞれの学級に5人もしくは6人が配当されている。この配当グループは,そのまま学校教育実践研究2のグループとなっている。学生は,今回,宿題として,ワークシートにスピーチ原稿を記述して持参していた。そして,グループで発表し,それぞれのスピーチを批評し合った。テーマは,交通安全,挨拶,喧嘩,部活動から選択するものだった。
教育実習部会の大学教員の指名によって,3人の学生が発表し,大学教員はスピーチに対して講評を行った。ある学生は,喧嘩をテーマに選択した。そして,自分は茄子が嫌い(i.e. 茄子と喧嘩していた)だったが,母親のお酢を用いた調理で茄子を好きになった(i.e. 仲直りした),サムワンと喧嘩をした時,調理方法を変えるように,観点を変えることで良さが見える,という趣旨のスピーチをした。人にお酢をかけるということではない,と付言もしていた。その後,指名した大学教員が講評を行った。
私だったら,どのような講評を行うだろうか。私は担当にならなかったので,指名も講評もしなかった。学生と教員の話を聞きながら,自分が役割を担ったらどのような講評を行うか考えた。
私は,学生のスピーチを活かして,一言目に「僕はお酢が好きです。茄子も好きです。」と言うと思う。これは,ふざけているわけではない。もちろん,講評として,声の大きさやアイコンタクトの有無やスピーチの論理構成に言及するとは思う。
私のメッセージは,真剣と深刻は異なるということである。教育的文脈を意識するあまり,力んでシリアスになるのは真剣と深刻の履き違えである。講話であっても,エスプリを効かせたりユーモアを交えたりして,真剣に,真面目に,「楽しむ」ことは可能である。加えて,私は専門が心理学で,他者が存在する場面における価値観等への批判がその後のビヘイヴィアにクリティカルであることに自覚的なので,個別的批判的講評は避けたい。
学校教育実践研究2の終了後,学生がスピーチを記述したワークシートを集め,他の教員と分担して原稿に目を通すことになった。ワークシートにスピーチ原稿を記述することが学生の宿題なら,その宿題に目を通すことが私を含む教育実習部会に所属する大学教員の宿題である。私は25枚ほどのワークシートに目を通した。グループワーク中には,それ以外の学生の原稿も見たので,かなりの数を参照したことになる。
学生は,概ね,交通安全,挨拶,部活動について,次のような原稿を記述していた。交通安全については,交通安全を啓発する文章を記述していた。交通安全は,安全であるに越したことはないので,その通りだと私も思う。挨拶については,挨拶を啓発する文章を記述していた。挨拶は,挨拶するに越したことはないので,その通りだと私も思う。部活動については,部活動に所属している人は適度に(e.g. 体調を崩さないように,修学に支障がないように)励もうとメッセージする文章を記述していた。島根大学教育学部附属中学校の部活動の現状を知らないが,部活動は課外活動であり,本来的には自主的な参加が前提であるから,所属している人はそれぞれ励めば良いと私も思う。
喧嘩に関する原稿を読んで気になったことがあった。以下に記述する。
学生の喧嘩に関する原稿は,喧嘩しないことが良いと記述していた。学生は,概ね,喧嘩生起の低減を啓発する文章,あるいは,喧嘩による価値観の多様性の受容による喧嘩生起の低減を啓発する文章を記述していた。すなわち,喧嘩をしないようにしよう,あるいは,喧嘩には不可避なものがあるがその喧嘩から自分とは異なる価値観があることを受容して後の喧嘩を減らそう,と記述していた。
これらの記述は,良好な関係性の維持を良しとする価値観から導出されていた。原稿を参照すると,クラスメイトや仲間と仲良くするとハッピーな学校生活を送ることができるという論理が展開されていた。そこでは,各学生が経験した喧嘩のエピソードや教育的逸話が例示され,良好な関係性の維持が如何にポジティヴなアウトカムを導出するかが書かれていた。
心理学研究の多くは,喧嘩しないことが良いという知見をサポートする。心理学研究は,怒り,敵意および攻撃が心身の不適応と関連することを明らかにしている。AHA(anger-hostility-aggression)という言葉がある。青魚に豊富に含まれる不飽和脂肪酸のような単語であるが,そのまま邦訳すれば怒り,敵意および攻撃となる。これらの変数は,循環器疾患(cardiovascular disease)のリスクを高めることが明らかにされている。怒ったり敵意を抱いたりすれば,それだけで脈拍が速くなり,血圧が上昇し,心臓や血管に負荷がかかる。攻撃行動は基本的には仲間関係を悪化させることが明らかにされている。AHAは心身の不適応と関連するとの見解が一般的であり,AHAの外在化形態のひとつである喧嘩はしない方が適応的だと考えられる。
いじめに発展する可能性がある点においても喧嘩しないことが良いと言える。文部科学省のいじめの定義は,喧嘩がいじめに発展することを示唆する。平成18年度間の調査に基づいた文部科学省のいじめの定義は,「個々の行為が『いじめ』に当たるか否かの判断は,表面的・形式的に行うことなく,いじめられた児童生徒の立場に立って行う」と前置きした上で,「『当該児童生徒が,一定の人間関係のある者から,心理的,物理的な攻撃を受けたことにより,精神的な苦痛を感じているもの。』とする。なお,起こった場所は学校の内外を問わない。」としている。これには注が5つ付されていて,(注1)「『いじめられた児童生徒の立場に立って』とは,いじめられたとする児童生徒の気持ちを重視することである。」,(注2)「『一定の人間関係のある者』とは,学校の内外を問わず,例えば,同じ学校・学級や部活動の者,当該児童生徒が関わっている仲間や集団(グループ)など,当該児童生徒と何らかの人間関係のある者を指す。」,(注3)「『攻撃』とは,『仲間はずれ』や『集団による無視』など直接的にかかわるものではないが,心理的な圧迫などで相手に苦痛を与えるものも含む。」,(注4)「『物理的な攻撃』とは,身体的な攻撃のほか,金品をたかられたり,隠されたりすることなどを意味する。」,(注5)「けんか等を除く。」となっている。議論できるのであれば,「それでは,『けんか等を除く。』の『けんか』は何を指しますか,『等』には何が含まれますか?」と質問したいところであるが,定義と注を読む限り,おそらく,2者間もしくは複数の集団間の主体的衝突が喧嘩であり,回避的態度を示す者あるいは集団への攻撃がいじめということであろう。
哲学に目を向けると,関係性が不良でもいいじゃないかという知見がある。中島義道著「ひとを〈嫌う〉ということ」という本がある。中島先生は,人を嫌うことの自然さを本1冊という紙幅を用いて論じている。人を嫌うことは,食欲や性欲と同様に自然なことであり,うまく運用することのうちに人生の豊かさがあると説く。毒を抜いた穏やかな宥和状態を実現することは価値あることであるが,真に対立を直視した宥和ではないため,嘘があり,無理があり,思い込みがあり,幻想があると説く。人を嫌いになれば,嫌いなままで良い。嫌われたら,嫌われたままで良い。嫌い合ったら,嫌い合っていけば良い。嫌いを追求する態度に基づいた人生は,真実を恐れ続けて幸福に浸る人生よりずっと充実しているように思われる,強く豊かな人生であるように思われる,と記述していた。
中島先生の主張は,心理学研究のドミナントな知見に位置付ければ外れ値(outlier)と言える。科学としての心理学は,一般法則を追求するため,個人間の差異は誤差とし,共通性に焦点を当てる。そのため,中には怒り,敵意および攻撃が適応と関連する人がいることを了解して,怒り,敵意および攻撃が心身の不適応と関連すると結論付ける。
私のメッセージは,価値観を提示する際は多義性に留意して欲しい,ということである。情操教育や道徳教育は,義務教育段階においてはとても重要である。重要であることを自覚するからこそ,教育的文脈では一般論の定型的提供に陥りやすい。喧嘩しないこと,良好な関係性を維持することは,基本的には適応的である。しかし,仲良くすることを強要するあまり,その圧力で不適応になる人間も存在する。また,仲良くしないことを厭わない人間も存在することも事実である。一般論には,洗練の際に削り落ちた知見や学術的了解の下に誤差に位置付けられた個人間の差異がある。また,道徳を強要するあまり不道徳になるという背理が存在する。これらに配慮することは,簡単ではないが,難しいことではない。私は,これらの配慮ができるようになることを期待する。これは,教育学部だから学生全員が教員志望だと前提して講義やアドヴァイスを展開する大学教員に宛てたメッセージでもある。
2015-04-24
加湿器のフィルターに見る水の成分
春になり,温暖湿潤になってきたので,研究室の加湿器をしまい込んだ。大気の温度と湿度が上がってくると,加湿器は匂いを発するようになる。加湿器内で菌が繁殖しやすいのだろう。私は,加湿器が匂いを発するようになると,加湿器を止める。加湿器本体とフィルターの手入れをして,次の冬まで待たせておく。
私は,研究室の加湿器には研究室の蛇口から出る井戸水を使っている。島根大学教育学部に来て1年になる。着任当初,研究室の蛇口から出る水を沸かして飲んでいた。ある日,教授と話をしていると,研究室の蛇口から出る水が井戸水だと分かった。教授曰く,この井戸水はカルシウム分を多く含み,結石のリスクが上がるらしい。教授は,「教育学部事務室側にある飲料用水道水をボトルに汲んで沸かすといいですよ。」と言った。また,ある日,他の教授と話をした。私が「研究室の蛇口の水は井戸水らしいですね。」と話すと,教授は,「そうなんだよ。教育学部棟改築の際に水道水にする計画もあったけど,水道工事は大変らしくてそのまま残すことになったんだ。」と応えた。そして,「理科系の先生は,ウォーターサーヴァーを研究室に持ち込んでいるよ。理科系の先生が水に拘るのを見ると,研究室の蛇口の水や教育学部事務室側にある飲料用水道水は飲まない方がいいのかなあって思っちゃうよね。」と続けた。教育学部は,多様な学問を専門とする教員が集まる部局である。多様な学問を近くに見られることが面白いことに加えて,教員の交互作用も面白い。この教授の所感を聞くだけでも面白い。私は,ふたつのやり取り以来,お茶やコーヒーには教育学部事務室側にある飲料用水道水を使っている。研究室の加湿器には,結石の心配はないので,研究室の蛇口から出る井戸水を使っている。水の劣化に配慮する点から加湿器には水道水を使った方がよいとされるが,現在のところ,井戸水でも特に問題は起きていない。
加湿器のフィルターの手入れをして,水の成分の違いを実感した。前の職場では,加湿器には研究室の蛇口から出る水道水を使っていた。1シーズン使うと,水の成分が結晶して,フィルターは見た目も手触りもガチガチになった。水道水の中には,次亜塩素酸カルシウムであるカルキが含まれる。これが結晶しているのだろう。一方,島根大学教育学部で1シーズン使った加湿器のフィルターは,あまり結晶せず,フィルターは見た目はきれいで手触りは柔らかいままだった。加湿器の運転時間は,あまり変わらない。結晶の量の観察に限っては,井戸水の方が結晶する成分は少ない。
2015-04-19
絵本を作る話9
保育所保育指針および保育所保育指針解説書,幼稚園教育要領および幼稚園教育要領解説,中学校学習指導要領および中学校学習指導要領解説(技術・家庭編),高等学校学習指導要領解説(家庭編)における絵本に関する言及をレヴューする。これまで,ブログ「絵本を作る話」の2と3と4で,指針,要領,解説における絵本に関する言及をまとめてきた。先日,紀要論文としてまとめた際に,誤字脱字がいくつか判明したので,ここで改めて総合しておく。なお,高等学校学習指導要領には,絵本に関する言及はない。また,小学校学習指導要領および小学校学習指導要領解説(家庭編)には,ともに絵本に関する記述はない。
保育所保育指針および保育所保育指針解説書における絵本に関する言及
保育所保育指針の絵本に関する記述および保育所保育指針の絵本に関する記述に対する保育所保育指針解説書の言及は次の通りである。保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」「(ア)ねらい」には,「③日常生活に必要な言葉が分かるようになるとともに,絵本や物語などに親しみ,保育士等や友達と心を通わせる。」とある。保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」「(イ)内容」には,「⑪絵本や物語などに親しみ,興味を持って聞き,想像する楽しさを味わう。」とある。これに対して,保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(2)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」として,「絵本は環境の一つとしてたいへん重要です。子どもは,保育士等に絵本を読んでもらったり,自ら絵本を手にして楽しみます。そして,簡単な言葉を繰り返したり,模倣して楽しんだり,絵本の中の登場人物や物に感情移入したり,話の展開を楽しんだりしながら,イメージを膨らませていきます。子どもの興味や発達過程に応じて,どのような絵本をどのように置いたり,扱ったりしていくのかを保育士等は吟味します。また,絵本だけでなくお話や童話,視聴覚教材などを見たり聞いたりする機会をつくりながら,子どものイメージの世界を広げていきます。そして,視覚に頼らず自分の心の中に自由にイメージを膨らませていくことができるよう,語りや読み聞かせを取り入れていくことも大切です。さらに,心の中に描いたイメージを言語化したり,身体表現など様々な表現に結び付けていく機会をつくっていくことが,想像する楽しさを膨らませていきます。」とある。
保育所保育指針に記述がなく,保育所保育指針解説書において絵本に関する記述があるものは次の通りである。保育所保育指針解説書「第2章子どもの発達」「2発達過程」「(3)おおむね1歳3か月から2歳未満」「行動範囲の拡大」として,「また,絵本をめくったり,クレヨンなどでなぐり描きを楽しみます。その中で,物を媒介としたやり取りが子どもと大人の間で広がり,子どもの好奇心や遊びへの意欲が培われていきます。」とある。同じく,保育所保育指針解説書「第2章子どもの発達」「2発達過程」「(5)おおむね3歳」「ごっこ遊びと社会性の発達」として,「簡単なストーリーが分かるようになり,絵本に登場する人物や動物と自分を同化して考えたり,想像を膨らませていきます。それらをごっこ遊びや劇遊びに発展させていくこともあります。」とある。同じく,保育所保育指針解説書「第2章子どもの発達」「2発達過程」「(6)おおむね4歳」「想像力の広がり」として,「想像力の広がりにより,現実に体験したことと,絵本など想像の世界で見聞きしたこととを重ね合わせたり,心が人だけではなく他の生き物や無生物にもあると信じたりします。その中で,イメージを膨らませ,物語を自分なりにつくったり,世界の不思議さやおもしろさを味わったりしながら遊びを発展させていきます。」とある。保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(2)教育に関わるねらい及び内容」「ウ環境」には,保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「ウ環境」「(イ)内容」「⑦身近な動植物に親しみを持ち,いたわったり,大切にしたり,作物を育てたり,味わうなどして,生命の尊さに気付く。」に対して,「親しみやすい小動物を飼育したり植物を栽培したりすることを通して,子どもは保育士等と共にえさや水を与えて世話をしながら,興味や関心を深め,自ら関わっていくようになります。また,世話をすることで,その成長や変化などに気付き,感動したり大切にする気持ちを持つようになります。動植物がどのようにして生きているのかを考えたり,命の持つ不思議さに気付いたり,生きているものへの温かな感情が芽生えるよう,保育士等はそのきっかけを与えたり,動植物への関わり方を伝えていきます。子どもの興味や関心に応じて,図鑑や関連する絵本などを用意することも必要でしょう。」とある。同じく,保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(2)教育に関わるねらい及び内容」「ウ環境」には,保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「ウ環境」「(イ)内容」「⑪日常生活の中で簡単な標識や文字などに関心を持つ。」に対して,「使われている言葉が特定の文字や標識に対応していることや,文字による様々な表現があることを,絵本などに親しむ中で気付くことができるよう配慮することも必要です。」とある。保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(2)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」には,保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」「(イ)内容」「⑨生活の中で言葉の楽しさや美しさに気付く。」に対して,「保育士等は,生活の中で,子どもが言葉に親しむことのできる環境を整えるとともに,日頃から言葉への感覚を豊かに持つことが望まれます。また子どもが美しい,おもしろい,楽しいと感じていることに気付く感受性の豊かさも必要です。子どもの興味や好奇心を満たすような絵本や詩や歌などを通し,言葉の世界を味わいながら,子どもが言葉への豊かな感覚を身に付けていくことができるようにしていきます。」とある。保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(2)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」には,保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」「(イ)内容」「⑫日常生活の中で,文字などで伝える楽しさを味わう。」に対して,「絵本や自分の連絡帳,室内外の様々な表示や文字を見たりする中で,自ら真似て書いてみようとしたり,保育士等に書いてもらったりして文字に親しんでいきます。」とある。保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「2保育の実施上の配慮事項」「参考」「子どもの発達過程における保育の視点(例:「言葉」)」には,おおむね1歳3ヶ月から2歳未満の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「保育士等の話しかけや絵本を読んでもらうこと等により言葉を理解したり,言葉を使うことを楽しむ。」,おおむね2歳の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「絵本などを楽しんで見たり聞いたりして言葉に親しみ,模倣を楽しんだりする。」,おおむね3歳の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「絵本,物語,視聴覚教材などを見たり,聞いたりしてその内容や面白さを楽しむ。」,おおむね4歳の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「絵本,物語,視聴覚教材などを見たり,聞いたりしてイメージを広げる。」,おおむね5歳の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「絵本,物語,視聴覚教材などを見たり,聞いたりしてイメージを広げ,保育士等や友達と楽しみ合う。」,おおむね6歳の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「絵本,物語,視聴覚教材などに親しみ,保育士等や友達と心を通わせる。」とある。保育所保育指針解説書「第4章保育の計画及び評価」「1保育の計画」「(3)指導計画の作成上,特に留意すべき事項」「エ小学校との連携」「④小学校との連携」「子どもの育ちを支える資料の送付」には,「保育所児童保育要録」の様式の参考例が示してある。「保育所児童保育要録」「様式の参考例」「教育(発達援助)に関わる事項」「言葉」には,「日常生活に必要な言葉が分かるようになるとともに,絵本や物語などに親しみ,保育士や友達と心を通わせる。」とある。
幼稚園教育要領および幼稚園教育要領解説における絵本に関する言及
幼稚園教育要領および幼稚園教育要領解説は,「学校教育法」を抄録して言及する中で,絵本について言及している。学校教育法「第三章幼稚園」「第二十三条幼稚園における教育は,前条に規定する目的を実現するため,次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。」には,「四日常の会話や,絵本,童話等に親しむことを通じて,言葉の使い方を正しく導くとともに,相手の話を理解しようとする態度を養うこと。」とある。これに対して,幼稚園教育要領解説「第1章総説」「第2節教育課程の編成」「1教育課程の編成の基本」には,「幼稚園では,幼稚園教育要領第1章総則の第1に示す幼稚園教育の基本に基づき,幼稚園生活を展開し,その中で幼児に育つことが期待される心情,意欲,態度を育成していく。幼稚園は,そのことにより,学校教育法第23条の幼稚園教育の目標を達成するよう努めなければならない。幼稚園においては,幼稚園教育の目標に含まれる意図を十分に理解して,幼児の健やかな成長のために幼児が適当な環境の下で他の幼児や教師と楽しく充実した生活を営む中で,様々な体験を通して生きる力の基礎を育成するようにすることが重要である。」とある。
幼稚園教育要領の絵本に関する記述および幼稚園教育要領の絵本に関する記述に対する幼稚園教育要領解説の言及は次の通りである。幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「1ねらい」には,「(3)日常生活に必要な言葉が分かるようになるとともに,絵本や物語などに親しみ,先生や友達と心を通わせる。」とある。これに対して,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域」「言葉」には,「幼児は,教師や友達と一緒に行動したりやりとりしたりすることを通して,次第に日常生活に必要な言葉が分かるようになっていく。また,幼児が絵本を見たり,物語を聞いたりして楽しみ,そこで想像上の世界や未知の世界に出会い,様々な思いを巡らし,その思いなどを教師や友達と共有したりすることが大切である。」とある。幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「2内容」には,「(9)絵本や物語などに親しみ,興味をもって聞き,想像をする楽しさを味わう。」とある。これに対して,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域」「言葉」には,「幼児は,絵本や物語などで見たり,聞いたりした内容を自分の経験と結び付けながら,想像したり,表現したりすることを楽しむ。一人で絵本を見て想像を巡らせて楽しむこともあれば,教師が絵本や物語,紙芝居を読んだり,物語や昔話を話したりすることもある。皆でビデオやテレビ,映画などを見ることもある。家庭でもこのような絵本や物語を保護者に読んでもらったり,テレビやビデオを見たりするが,幼稚園で教師や友達と一緒に聞いたり,見たりするときには,皆で同じ世界を共有する楽しさや心を通わせる一体感などが醸し出されることが多い。また,家庭ではどちらかというと自分の興味のあることを中心に見たり,読んだりすることになるが,幼稚園では教師や友達の興味や関心にも応じていくので幅の広いものとなり,家庭ではなかなか触れない内容にも触れるようになっていく。このようにして,教師や友達と共に様々な絵本や物語,紙芝居などに親しむ中で,幼児は新たな世界に興味や関心を広げていく。絵本や物語,紙芝居などを読み聞かせることは,現実には自分の生活している世界しか知らない幼児にとって,様々なことを想像する楽しみと出会うことになる。登場人物になりきることなどにより,自分の未知の世界に出会うことができ,想像上の世界に思いを巡らすこともできる。このような過程で,なぜ,どうしてという不思議さを感じたり,わくわく,どきどきして驚いたり,感動したりする。また,悲しみや悔しさなど様々な気持ちに触れ,他人の痛みや思いを知る機会ともなる。このように,幼児期においては,絵本や物語の世界に浸る体験が大切なのである。」とある。幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「3内容の取扱い」には,「(3)絵本や物語などで,その内容と自分の経験とを結び付けたり,想像を巡らせたりするなど,楽しみを十分に味わうことによって,次第に豊かなイメージをもち,言葉に対する感覚が養われるようにすること。」とある。これに対して,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域「言葉」」には,「幼児は,その幼児なりの感じ方や楽しみ方で絵本や物語などの世界に浸り,その面白さを味わう。絵本の絵に見入っている幼児,物語の展開に心躍らせている幼児,読んでくれる教師の声や表情を楽しんでいる幼児など様々である。教師は,その幼児なりの感じ方や楽しみ方を大切にしなければならない。また,幼児は,絵本や物語などの中に登場する人物や生き物,生活や自然などを自分の体験と照らし合わせて再認識したり,自分の知らない世界を想像したりして,イメージを一層豊かに広げていく。そのために,絵本や物語などを読み聞かせるときには,そのような楽しさを十分に味わうことができるよう,題材や幼児の理解力などに配慮して選択し,幼児の多様な興味や関心に応じることが必要である。幼児は,絵本や物語などの読み聞かせを通して,幼児と教師との心の交流が図られ,読んでもらった絵本や物語に特別な親しみを感じるようになっていく。そして皆で一緒に見たり,聞いたりする機会では,一緒に見ている幼児同士も共感し合い,皆で見る楽しさを味わっていることが多い。そうした中で,一層イメージは広がっていくので,皆で一緒に見たり,聞いたりする機会にも,落ち着いた雰囲気をつくり,一人一人が絵本や物語の世界に浸り込めるようにすることが大切である。また,幼児は,教師に読んでもらった絵本などを好み,もう一度見たいと思い,一人で絵本を開いて,読んでもらったときのイメージを思い出したり,新たにイメージを広げたりする。このような体験を繰り返す中で,絵本などに親しみを感じ,もっといろいろな絵本を見たいと思うようになっていく。その際,絵本が幼児の目に触れやすい場に置かれ,落ち着いてじっくり見ることができる環境にあることで,一人一人の幼児と絵本との出会いは一層充実したものとなっていく。そのために,保育室における幼児の動線などを考えて絵本のコーナーを作っていくようにすることが求められる。」とある。
幼稚園教育要領に記述がなく,幼稚園教育要領解説において絵本に関する記述があるものは次の通りである。幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「3身近な環境とのかかわりに関する領域「環境」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「環境」「2内容」「(9)日常生活の中で簡単な標識や文字などに関心をもつ。」に対して,「絵本や手紙ごっこを楽しむ中で自然に文字に触れられるような環境を構成することを通して,文字が様々なことを豊かに表現するためのコミュニケーションの道具であることに次第に気付いていくことができるよう,幼児の発達に沿って援助していく必要がある。」とある。また,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「環境」「3内容の取扱い」「(4)数量や文字などに関しては,日常生活の中で幼児自身の必要感に基づく体験を大切にし,数量や文字などに関する興味や関心,感覚が養われるようにすること。」に対して,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「3身近な環境とのかかわりに関する領域「環境」」には,「数量や文字は,記号として表すだけに,その働きを幼児期に十分に活用することは難しい。しかし,例えば,数字や文字などに親しんだり,物を数えたり,長さや重さに興味をもったり,絵本や保育室にある文字表現に関心を抱いたりすることは,幼児にとって日常的なことである。数量や文字に関する指導は,幼児の興味や関心から出発することが基本となる。その上で,幼児の遊びや生活の中で文字を使ったり,数量を扱ったりする活動が生まれることがあり,このような活動を積み重ねることにより,ごく自然に数量や文字にかかわる力は伸びていくものである。」とある。 幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域「言葉」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「2内容」「(4)人の話を注意して聞き,相手に分かるように話す。」 に対して,「幼稚園生活では,人の話を聞いたり,自分の考えや気持ちを人に伝えたりする場面がたくさんある。例えば,教師の説明を聞いたり,絵本を読むのを聞いたり,遊びの中で友達の要求や考えを聞くこともある。ときには,幼稚園を訪問してきた人々の話を聞くこともある。このような場面で幼児が話を聞くときは,初めは静かに聞いたり,話の内容のすべてに注意を向けて聞いたりしているとは限らない。特に,3歳児は話を聞いていても,自分に興味のある事柄にしか注意を向けないこともあるし,関心のあることが話されるとすぐに反応し,静かにしていられなくなることもある。また,友達の話を聞かないで,友達ともめることもある。このような話を聞くことにかかわる様々な体験を積み重ねることを通して,相手が伝えようとしている内容に注意を向けることへの必要感をもち,次第に幼児は話を聞けるようになっていくのである。」とある。 同じく,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域「言葉」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「2内容」「(7)生活の中で言葉の楽しさや美しさに気付く。」 に対して,「幼児は,幼稚園生活において絵本や物語などの話や詩などの言葉を聞く中で,楽しい言葉や美しい言葉に出会うこともある。教師や友達が言葉を楽しそうに使用している場面に出会い,自分でも同じような言い方をし,口ずさむことでその楽しさを共有することもある。また,教師の話す言葉に耳を傾けることにより,言葉の響きや内容に美しさを感じ,改めて言葉の世界の魅力にひかれることもある。さらに,同じ意味を表す言葉であっても,その表現の仕方を相手に応じて変化させることが必要な場合もある。例えば,友達を呼ぶときも名前を呼んだり,愛称を呼んだりするなど,様々な呼び方がある。相手や状況に応じて言葉を使い分けることが,言葉の楽しさや美しさに通じることがある。」とある。 同じく,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域「言葉」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「2内容」「(10)日常生活の中で,文字などで伝える楽しさを味わう。」 に対して,「幼稚園生活の中で,名前や標識,連絡や伝言,絵本や手紙などに触れながら,文字などの記号の果たす機能と役割に対する関心と理解が,それぞれの幼児にできるだけ自然な形で育っていくよう環境の構成に配慮することが必要である。また,それぞれの幼児なりの文字などの記号を使って楽しみたいという関心を受け止めて,その幼児なりに必要感をもって読んだり,書いたりできるような一人一人への援助が大切である。」とある。 同じく,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域「言葉」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「3内容の取扱い」「(2)幼児が自分の思いを言葉で伝えるとともに,教師や他の幼児などの話を興味をもって注意して聞くことを通して次第に話を理解するようになっていき,言葉による伝え合いができるようにすること。」 に対して,「活動を始める前やその日の活動を振り返るような日常的な集まり,絵本や物語などのお話を聞く場面などを通して,皆で一緒に一つのまとまった話を集中して聞く機会をもつことで,聞くことの楽しさや一緒に聞くことで生まれる一体感を感じるようになる。」とある。幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「5感性と表現に関する領域「表現」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「表現」の「感じたことや考えたことを自分なりに表現することを通して,豊かな感性や表現する力を養い,創造性を豊かにする。」, また,「1ねらい」の「(1)いろいろなものの美しさなどに対する豊かな感性をもつ。」,「(2)感じたことや考えたことを自分なりに表現して楽しむ。」,「(3)生活の中でイメージを豊かにし,様々な表現を楽しむ。」 に対して,「幼児は音楽を聴いたり,絵本を見たり,つくったり,かいたり,歌ったり,音楽や言葉などに合わせて身体を動かしたり,何かになったつもりになったりなどして,楽しんだりする。これらの表現する活動の中で,幼児は内面に蓄えられた様々な事象や情景を思い浮かべ,それらを新しく組み立てながら,想像の世界を楽しんでいる。また,自分の気持ちを表すことを楽しんだり,表すことから友達や周囲の事物との関係が生まれることを楽しんだりもする。」とある。同じく,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「5感性と表現に関する領域「表現」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「表現」「3内容の取扱い」「(1)豊かな感性は,自然などの身近な環境と十分にかかわる中で美しいもの,優れたもの,心を動かす出来事などに出会い,そこから得た感動を他の幼児や教師と共有し,様々に表現することなどを通して養われるようにすること。」 に対して,「幼児の豊かな感性は,幼児が身近な環境と十分にかかわり,そこで心を揺さぶられ,何かを感じ,考えさせられるようなものに出会って,感動を得て,その感動を友達や教師と共有し,感じたことを様々に表現することによって一層磨かれていく。そのためには,幼児が興味や関心を抱き,主体的にかかわれるような環境が大切である。このような環境としては,幼児一人一人の感動を引き出せる自然から,絵本,物語などのような幼児にとって身近な文化財,さらに,心を弾ませたり和ませたりするような絵や音楽がある生活環境など幅広く考えられる。」とある。幼稚園教育要領解説「第3章指導計画及び教育課程に係る教育時間の終了後等に行う教育活動などの留意事項」「第1指導計画の作成に当たっての留意事項」「第3節特に留意する事項」「2障害のある幼児の指導」には,幼稚園教育要領「第3章指導計画及び教育課程に係る教育時間の終了後等に行う教育活動などの留意事項」「第1指導計画の作成に当たっての留意事項」「2特に留意する事項」「(2)障害のある幼児の指導に当たっては,集団の中で生活することを通して全体的な発達を促していくことに配慮し,特別支援学校などの助言又は援助を活用しつつ,例えば指導についての計画又は家庭や医療,福祉などの業務を行う関係機関と連携した支援のための計画を個別に作成することなどにより,個々の幼児の障害の状態などに応じた指導内容や指導方法の工夫を計画的,組織的に行うこと。」 に対して,「幼稚園において障害のある幼児を指導する場合には,幼稚園教育の機能を十分生かして,幼稚園生活の場の特性と人間関係を大切にし,その幼児の発達を全体的に促していくことが大切である。そのため,幼稚園では,幼児の障害の種類や程度などを的確に把握し,個々の幼児の障害の状態などに応じた指導内容・指導方法の工夫について検討し,適切な指導を行う必要がある。その際,教師は,ありのままの幼児の姿を受け止め,幼児が安心し,ゆとりをもって周囲の環境と十分にかかわり,発達していくようにすることが大切である。例えば,弱視の幼児がぬり絵をするときには輪郭を太くするなどの工夫をしたり,難聴の幼児に絵本を読むときには教師が近くに座るようにして声がよく聞こえるようにしたり,肢体不自由の幼児が興味や関心をもって進んで体を動かそうとする気持ちがもてるように工夫したりするなど,その幼児の障害の種類や程度に応じた配慮をする必要がある。また,障害のある幼児とない幼児が一緒に遊ぶときには,幼児同士がかかわりながら,それぞれの幼児が遊びを楽しめるように適切な援助をする必要がある。」とある。
中学校学習指導要領および中学校学習指導要領解説(技術・家庭編)における絵本に関する言及
中学校学習指導要領における絵本に関する言及および中学校学習指導要領における絵本に関する言及に対する中学校学習指導要領解説(技術・家庭編)の言及は次の通りである。中学校学習指導要領「第2章各教科」「第8節技術・家庭」「第2各分野の目標及び内容」「家庭分野」「2内容」「A家族・家庭と子どもの成長」には,「(3)幼児の生活と家族について,次の事項を指導する。」として,「イ幼児の観察や遊び道具の製作などの活動を通して,幼児の遊びの意義について理解すること。」とある。これに対して,中学校学習指導要領解説(技術・家庭編)「第2章技術・家庭科の目標及び内容」「第3節家庭分野」「2家庭分野の内容」「A家族・家庭と子どもの成長」には,「幼児の遊び道具については,子どもの成長やコミュニケーションを促す上で大切であることに気付くようにする。また,遊び道具には様々なものがあり,例えば,市販の玩具・遊具,絵本などのほか,自然の素材や身の回りのものも遊び道具になること,言葉や身体を用いた遊びもあること,伝承遊びなどのよさなどにも気付くようにする。その際,安全な遊び道具と遊び環境についても考えることができるようにする。」とある。
高等学校学習指導要領解説(家庭編)における絵本に関する言及
高等学校学習指導要領解説(家庭編)における絵本に関する言及は以下の通りである。高等学校学習指導要領「第2章各学科に共通する各教科」「第9節家庭」「第2款各科目」「第3生活デザイン」「2内容」「(1)人の一生と家族・家庭及び福祉」には,「オ子どもとの触れ合い」として,「子どもとの触れ合いを通して,子どもの生活と遊び,子どもの発達と環境とのかかわりなどについて理解させ,子どもと適切にかかわることができるようにする。」とある。これに対して,高等学校学習指導要領解説(家庭編)「第1部各学科に共通する教科「家庭」」「第2章各科目」「第3節生活デザイン」「2内容とその取扱い」「(1)人の一生と家族・家庭及び福祉」「オ子どもとの触れ合い」には,「子どもとの触れ合いについては,例えば,幼稚園や保育所等を訪問して,幼児と一緒に遊んだり,絵本の読み聞かせを行ったりすることが考えられる。」とある。高等学校学習指導要領「第3章主として専門学科において開設される各教科」「第5節家庭」「第2款各科目」「第2節課題研究」「2内容」には,「(2)作品製作」がある。これに対して,同じく高等学校学習指導要領解説(家庭編)「第2部主として専門学科において開設される教科「家庭」」「第2章各科目」「第2課題研究」「第2内容とその取扱い」「2内容」「(2)作品製作」では,「例えば,被服製作や手芸などの作品製作とファッションショー,テーマに基づいた料理づくり,パンやケーキづくりと販売,食のトータルコーディネート,絵本や遊具づくりなどが考えられる。」とある。高等学校学習指導要領「第3章主として専門学科において開設される各教科」「第5節家庭」「第2款各科目」「第6子ども文化」「2内容」には,「(3)子どもの表現活動と児童文化財」に「イ言語表現活動」がある。これに対して,高等学校学習指導要領解説(家庭編)「第2部主として専門学科において開設される教科「家庭」」「第2章各科目」「第6節子ども文化」「第2内容とその取扱い」「2内容」「(3)子どもの表現活動と児童文化財」には,「お話の効用として,想像力と思考力を育てる,人間関係を深める,言葉の力や話を聞くことを楽しむ,読書への素地づくりをするなどを取り上げて理解させる。絵本には,多種多様なものがあるが,一人一人の興味・関心に合った選択が必要であることを理解させ,読み聞かせができるようにする。」とある。高等学校学習指導要領「第3章主として専門学科において開設される各教科」「第5節家庭」「第2款各科目」「第6子ども文化」「2内容」には,「(5)子ども文化実習」「3内容の取扱い」として,「(1)内容の構成及びその取扱いに当たっては,次の事項に配慮するものとする。イ内容の(5)(i.e. 子ども文化実習)については,内容の(3)(i.e. 子どもの表現活動と児童文化財)の表現活動や関連する児童文化財の中からいずれかを取り上げて実習をさせること。また,児童福祉施設,社会教育施設等との連携を図り,子どもとの交流を体験させるようにすること。」とある。これに対して,高等学校学習指導要領解説(家庭編)「第2部主として専門学科において開設される教科「家庭」」「第2章各科目」「第6節子ども文化」「第2内容とその取扱い」「2内容」「(5)子ども文化実習」には,「ここでは,内容の(3)の子どもの表現活動と児童文化財のアからエ(i.e. ア造形表現活動,イ言語表現活動,ウ音楽・身体表現活動,エ情報手段などを活用した活動)までの中からいずれかを取り上げて,創作活動や製作等の実習を行う。例えば,絵画や折り紙などを用いた壁面構成,お話,絵本,紙芝居,人形劇,パネルシアターなどの創作や製作,歌,ミュージカル,演劇などの創作や上演などが考えられ,地域の児童福祉施設,社会教育施設,児童文化施設などと連携を図り,地域の子どもとの交流を体験させるようにする。」とある。
保育所保育指針および保育所保育指針解説書における絵本に関する言及
保育所保育指針の絵本に関する記述および保育所保育指針の絵本に関する記述に対する保育所保育指針解説書の言及は次の通りである。保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」「(ア)ねらい」には,「③日常生活に必要な言葉が分かるようになるとともに,絵本や物語などに親しみ,保育士等や友達と心を通わせる。」とある。保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」「(イ)内容」には,「⑪絵本や物語などに親しみ,興味を持って聞き,想像する楽しさを味わう。」とある。これに対して,保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(2)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」として,「絵本は環境の一つとしてたいへん重要です。子どもは,保育士等に絵本を読んでもらったり,自ら絵本を手にして楽しみます。そして,簡単な言葉を繰り返したり,模倣して楽しんだり,絵本の中の登場人物や物に感情移入したり,話の展開を楽しんだりしながら,イメージを膨らませていきます。子どもの興味や発達過程に応じて,どのような絵本をどのように置いたり,扱ったりしていくのかを保育士等は吟味します。また,絵本だけでなくお話や童話,視聴覚教材などを見たり聞いたりする機会をつくりながら,子どものイメージの世界を広げていきます。そして,視覚に頼らず自分の心の中に自由にイメージを膨らませていくことができるよう,語りや読み聞かせを取り入れていくことも大切です。さらに,心の中に描いたイメージを言語化したり,身体表現など様々な表現に結び付けていく機会をつくっていくことが,想像する楽しさを膨らませていきます。」とある。
保育所保育指針に記述がなく,保育所保育指針解説書において絵本に関する記述があるものは次の通りである。保育所保育指針解説書「第2章子どもの発達」「2発達過程」「(3)おおむね1歳3か月から2歳未満」「行動範囲の拡大」として,「また,絵本をめくったり,クレヨンなどでなぐり描きを楽しみます。その中で,物を媒介としたやり取りが子どもと大人の間で広がり,子どもの好奇心や遊びへの意欲が培われていきます。」とある。同じく,保育所保育指針解説書「第2章子どもの発達」「2発達過程」「(5)おおむね3歳」「ごっこ遊びと社会性の発達」として,「簡単なストーリーが分かるようになり,絵本に登場する人物や動物と自分を同化して考えたり,想像を膨らませていきます。それらをごっこ遊びや劇遊びに発展させていくこともあります。」とある。同じく,保育所保育指針解説書「第2章子どもの発達」「2発達過程」「(6)おおむね4歳」「想像力の広がり」として,「想像力の広がりにより,現実に体験したことと,絵本など想像の世界で見聞きしたこととを重ね合わせたり,心が人だけではなく他の生き物や無生物にもあると信じたりします。その中で,イメージを膨らませ,物語を自分なりにつくったり,世界の不思議さやおもしろさを味わったりしながら遊びを発展させていきます。」とある。保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(2)教育に関わるねらい及び内容」「ウ環境」には,保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「ウ環境」「(イ)内容」「⑦身近な動植物に親しみを持ち,いたわったり,大切にしたり,作物を育てたり,味わうなどして,生命の尊さに気付く。」に対して,「親しみやすい小動物を飼育したり植物を栽培したりすることを通して,子どもは保育士等と共にえさや水を与えて世話をしながら,興味や関心を深め,自ら関わっていくようになります。また,世話をすることで,その成長や変化などに気付き,感動したり大切にする気持ちを持つようになります。動植物がどのようにして生きているのかを考えたり,命の持つ不思議さに気付いたり,生きているものへの温かな感情が芽生えるよう,保育士等はそのきっかけを与えたり,動植物への関わり方を伝えていきます。子どもの興味や関心に応じて,図鑑や関連する絵本などを用意することも必要でしょう。」とある。同じく,保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(2)教育に関わるねらい及び内容」「ウ環境」には,保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「ウ環境」「(イ)内容」「⑪日常生活の中で簡単な標識や文字などに関心を持つ。」に対して,「使われている言葉が特定の文字や標識に対応していることや,文字による様々な表現があることを,絵本などに親しむ中で気付くことができるよう配慮することも必要です。」とある。保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(2)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」には,保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」「(イ)内容」「⑨生活の中で言葉の楽しさや美しさに気付く。」に対して,「保育士等は,生活の中で,子どもが言葉に親しむことのできる環境を整えるとともに,日頃から言葉への感覚を豊かに持つことが望まれます。また子どもが美しい,おもしろい,楽しいと感じていることに気付く感受性の豊かさも必要です。子どもの興味や好奇心を満たすような絵本や詩や歌などを通し,言葉の世界を味わいながら,子どもが言葉への豊かな感覚を身に付けていくことができるようにしていきます。」とある。保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(2)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」には,保育所保育指針「第3章保育の内容」「1保育のねらい及び内容」「(二)教育に関わるねらい及び内容」「エ言葉」「(イ)内容」「⑫日常生活の中で,文字などで伝える楽しさを味わう。」に対して,「絵本や自分の連絡帳,室内外の様々な表示や文字を見たりする中で,自ら真似て書いてみようとしたり,保育士等に書いてもらったりして文字に親しんでいきます。」とある。保育所保育指針解説書「第3章保育の内容」「2保育の実施上の配慮事項」「参考」「子どもの発達過程における保育の視点(例:「言葉」)」には,おおむね1歳3ヶ月から2歳未満の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「保育士等の話しかけや絵本を読んでもらうこと等により言葉を理解したり,言葉を使うことを楽しむ。」,おおむね2歳の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「絵本などを楽しんで見たり聞いたりして言葉に親しみ,模倣を楽しんだりする。」,おおむね3歳の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「絵本,物語,視聴覚教材などを見たり,聞いたりしてその内容や面白さを楽しむ。」,おおむね4歳の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「絵本,物語,視聴覚教材などを見たり,聞いたりしてイメージを広げる。」,おおむね5歳の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「絵本,物語,視聴覚教材などを見たり,聞いたりしてイメージを広げ,保育士等や友達と楽しみ合う。」,おおむね6歳の子どもの発達と保育をとらえる視点として,「絵本,物語,視聴覚教材などに親しみ,保育士等や友達と心を通わせる。」とある。保育所保育指針解説書「第4章保育の計画及び評価」「1保育の計画」「(3)指導計画の作成上,特に留意すべき事項」「エ小学校との連携」「④小学校との連携」「子どもの育ちを支える資料の送付」には,「保育所児童保育要録」の様式の参考例が示してある。「保育所児童保育要録」「様式の参考例」「教育(発達援助)に関わる事項」「言葉」には,「日常生活に必要な言葉が分かるようになるとともに,絵本や物語などに親しみ,保育士や友達と心を通わせる。」とある。
幼稚園教育要領および幼稚園教育要領解説における絵本に関する言及
幼稚園教育要領および幼稚園教育要領解説は,「学校教育法」を抄録して言及する中で,絵本について言及している。学校教育法「第三章幼稚園」「第二十三条幼稚園における教育は,前条に規定する目的を実現するため,次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。」には,「四日常の会話や,絵本,童話等に親しむことを通じて,言葉の使い方を正しく導くとともに,相手の話を理解しようとする態度を養うこと。」とある。これに対して,幼稚園教育要領解説「第1章総説」「第2節教育課程の編成」「1教育課程の編成の基本」には,「幼稚園では,幼稚園教育要領第1章総則の第1に示す幼稚園教育の基本に基づき,幼稚園生活を展開し,その中で幼児に育つことが期待される心情,意欲,態度を育成していく。幼稚園は,そのことにより,学校教育法第23条の幼稚園教育の目標を達成するよう努めなければならない。幼稚園においては,幼稚園教育の目標に含まれる意図を十分に理解して,幼児の健やかな成長のために幼児が適当な環境の下で他の幼児や教師と楽しく充実した生活を営む中で,様々な体験を通して生きる力の基礎を育成するようにすることが重要である。」とある。
幼稚園教育要領の絵本に関する記述および幼稚園教育要領の絵本に関する記述に対する幼稚園教育要領解説の言及は次の通りである。幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「1ねらい」には,「(3)日常生活に必要な言葉が分かるようになるとともに,絵本や物語などに親しみ,先生や友達と心を通わせる。」とある。これに対して,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域」「言葉」には,「幼児は,教師や友達と一緒に行動したりやりとりしたりすることを通して,次第に日常生活に必要な言葉が分かるようになっていく。また,幼児が絵本を見たり,物語を聞いたりして楽しみ,そこで想像上の世界や未知の世界に出会い,様々な思いを巡らし,その思いなどを教師や友達と共有したりすることが大切である。」とある。幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「2内容」には,「(9)絵本や物語などに親しみ,興味をもって聞き,想像をする楽しさを味わう。」とある。これに対して,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域」「言葉」には,「幼児は,絵本や物語などで見たり,聞いたりした内容を自分の経験と結び付けながら,想像したり,表現したりすることを楽しむ。一人で絵本を見て想像を巡らせて楽しむこともあれば,教師が絵本や物語,紙芝居を読んだり,物語や昔話を話したりすることもある。皆でビデオやテレビ,映画などを見ることもある。家庭でもこのような絵本や物語を保護者に読んでもらったり,テレビやビデオを見たりするが,幼稚園で教師や友達と一緒に聞いたり,見たりするときには,皆で同じ世界を共有する楽しさや心を通わせる一体感などが醸し出されることが多い。また,家庭ではどちらかというと自分の興味のあることを中心に見たり,読んだりすることになるが,幼稚園では教師や友達の興味や関心にも応じていくので幅の広いものとなり,家庭ではなかなか触れない内容にも触れるようになっていく。このようにして,教師や友達と共に様々な絵本や物語,紙芝居などに親しむ中で,幼児は新たな世界に興味や関心を広げていく。絵本や物語,紙芝居などを読み聞かせることは,現実には自分の生活している世界しか知らない幼児にとって,様々なことを想像する楽しみと出会うことになる。登場人物になりきることなどにより,自分の未知の世界に出会うことができ,想像上の世界に思いを巡らすこともできる。このような過程で,なぜ,どうしてという不思議さを感じたり,わくわく,どきどきして驚いたり,感動したりする。また,悲しみや悔しさなど様々な気持ちに触れ,他人の痛みや思いを知る機会ともなる。このように,幼児期においては,絵本や物語の世界に浸る体験が大切なのである。」とある。幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「3内容の取扱い」には,「(3)絵本や物語などで,その内容と自分の経験とを結び付けたり,想像を巡らせたりするなど,楽しみを十分に味わうことによって,次第に豊かなイメージをもち,言葉に対する感覚が養われるようにすること。」とある。これに対して,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域「言葉」」には,「幼児は,その幼児なりの感じ方や楽しみ方で絵本や物語などの世界に浸り,その面白さを味わう。絵本の絵に見入っている幼児,物語の展開に心躍らせている幼児,読んでくれる教師の声や表情を楽しんでいる幼児など様々である。教師は,その幼児なりの感じ方や楽しみ方を大切にしなければならない。また,幼児は,絵本や物語などの中に登場する人物や生き物,生活や自然などを自分の体験と照らし合わせて再認識したり,自分の知らない世界を想像したりして,イメージを一層豊かに広げていく。そのために,絵本や物語などを読み聞かせるときには,そのような楽しさを十分に味わうことができるよう,題材や幼児の理解力などに配慮して選択し,幼児の多様な興味や関心に応じることが必要である。幼児は,絵本や物語などの読み聞かせを通して,幼児と教師との心の交流が図られ,読んでもらった絵本や物語に特別な親しみを感じるようになっていく。そして皆で一緒に見たり,聞いたりする機会では,一緒に見ている幼児同士も共感し合い,皆で見る楽しさを味わっていることが多い。そうした中で,一層イメージは広がっていくので,皆で一緒に見たり,聞いたりする機会にも,落ち着いた雰囲気をつくり,一人一人が絵本や物語の世界に浸り込めるようにすることが大切である。また,幼児は,教師に読んでもらった絵本などを好み,もう一度見たいと思い,一人で絵本を開いて,読んでもらったときのイメージを思い出したり,新たにイメージを広げたりする。このような体験を繰り返す中で,絵本などに親しみを感じ,もっといろいろな絵本を見たいと思うようになっていく。その際,絵本が幼児の目に触れやすい場に置かれ,落ち着いてじっくり見ることができる環境にあることで,一人一人の幼児と絵本との出会いは一層充実したものとなっていく。そのために,保育室における幼児の動線などを考えて絵本のコーナーを作っていくようにすることが求められる。」とある。
幼稚園教育要領に記述がなく,幼稚園教育要領解説において絵本に関する記述があるものは次の通りである。幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「3身近な環境とのかかわりに関する領域「環境」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「環境」「2内容」「(9)日常生活の中で簡単な標識や文字などに関心をもつ。」に対して,「絵本や手紙ごっこを楽しむ中で自然に文字に触れられるような環境を構成することを通して,文字が様々なことを豊かに表現するためのコミュニケーションの道具であることに次第に気付いていくことができるよう,幼児の発達に沿って援助していく必要がある。」とある。また,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「環境」「3内容の取扱い」「(4)数量や文字などに関しては,日常生活の中で幼児自身の必要感に基づく体験を大切にし,数量や文字などに関する興味や関心,感覚が養われるようにすること。」に対して,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「3身近な環境とのかかわりに関する領域「環境」」には,「数量や文字は,記号として表すだけに,その働きを幼児期に十分に活用することは難しい。しかし,例えば,数字や文字などに親しんだり,物を数えたり,長さや重さに興味をもったり,絵本や保育室にある文字表現に関心を抱いたりすることは,幼児にとって日常的なことである。数量や文字に関する指導は,幼児の興味や関心から出発することが基本となる。その上で,幼児の遊びや生活の中で文字を使ったり,数量を扱ったりする活動が生まれることがあり,このような活動を積み重ねることにより,ごく自然に数量や文字にかかわる力は伸びていくものである。」とある。 幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域「言葉」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「2内容」「(4)人の話を注意して聞き,相手に分かるように話す。」 に対して,「幼稚園生活では,人の話を聞いたり,自分の考えや気持ちを人に伝えたりする場面がたくさんある。例えば,教師の説明を聞いたり,絵本を読むのを聞いたり,遊びの中で友達の要求や考えを聞くこともある。ときには,幼稚園を訪問してきた人々の話を聞くこともある。このような場面で幼児が話を聞くときは,初めは静かに聞いたり,話の内容のすべてに注意を向けて聞いたりしているとは限らない。特に,3歳児は話を聞いていても,自分に興味のある事柄にしか注意を向けないこともあるし,関心のあることが話されるとすぐに反応し,静かにしていられなくなることもある。また,友達の話を聞かないで,友達ともめることもある。このような話を聞くことにかかわる様々な体験を積み重ねることを通して,相手が伝えようとしている内容に注意を向けることへの必要感をもち,次第に幼児は話を聞けるようになっていくのである。」とある。 同じく,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域「言葉」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「2内容」「(7)生活の中で言葉の楽しさや美しさに気付く。」 に対して,「幼児は,幼稚園生活において絵本や物語などの話や詩などの言葉を聞く中で,楽しい言葉や美しい言葉に出会うこともある。教師や友達が言葉を楽しそうに使用している場面に出会い,自分でも同じような言い方をし,口ずさむことでその楽しさを共有することもある。また,教師の話す言葉に耳を傾けることにより,言葉の響きや内容に美しさを感じ,改めて言葉の世界の魅力にひかれることもある。さらに,同じ意味を表す言葉であっても,その表現の仕方を相手に応じて変化させることが必要な場合もある。例えば,友達を呼ぶときも名前を呼んだり,愛称を呼んだりするなど,様々な呼び方がある。相手や状況に応じて言葉を使い分けることが,言葉の楽しさや美しさに通じることがある。」とある。 同じく,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域「言葉」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「2内容」「(10)日常生活の中で,文字などで伝える楽しさを味わう。」 に対して,「幼稚園生活の中で,名前や標識,連絡や伝言,絵本や手紙などに触れながら,文字などの記号の果たす機能と役割に対する関心と理解が,それぞれの幼児にできるだけ自然な形で育っていくよう環境の構成に配慮することが必要である。また,それぞれの幼児なりの文字などの記号を使って楽しみたいという関心を受け止めて,その幼児なりに必要感をもって読んだり,書いたりできるような一人一人への援助が大切である。」とある。 同じく,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「4言葉の獲得に関する領域「言葉」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「言葉」「3内容の取扱い」「(2)幼児が自分の思いを言葉で伝えるとともに,教師や他の幼児などの話を興味をもって注意して聞くことを通して次第に話を理解するようになっていき,言葉による伝え合いができるようにすること。」 に対して,「活動を始める前やその日の活動を振り返るような日常的な集まり,絵本や物語などのお話を聞く場面などを通して,皆で一緒に一つのまとまった話を集中して聞く機会をもつことで,聞くことの楽しさや一緒に聞くことで生まれる一体感を感じるようになる。」とある。幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「5感性と表現に関する領域「表現」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「表現」の「感じたことや考えたことを自分なりに表現することを通して,豊かな感性や表現する力を養い,創造性を豊かにする。」, また,「1ねらい」の「(1)いろいろなものの美しさなどに対する豊かな感性をもつ。」,「(2)感じたことや考えたことを自分なりに表現して楽しむ。」,「(3)生活の中でイメージを豊かにし,様々な表現を楽しむ。」 に対して,「幼児は音楽を聴いたり,絵本を見たり,つくったり,かいたり,歌ったり,音楽や言葉などに合わせて身体を動かしたり,何かになったつもりになったりなどして,楽しんだりする。これらの表現する活動の中で,幼児は内面に蓄えられた様々な事象や情景を思い浮かべ,それらを新しく組み立てながら,想像の世界を楽しんでいる。また,自分の気持ちを表すことを楽しんだり,表すことから友達や周囲の事物との関係が生まれることを楽しんだりもする。」とある。同じく,幼稚園教育要領解説「第2章ねらい及び内容」「第2節各領域に示す事項」「5感性と表現に関する領域「表現」」には,幼稚園教育要領「第2章ねらい及び内容」「表現」「3内容の取扱い」「(1)豊かな感性は,自然などの身近な環境と十分にかかわる中で美しいもの,優れたもの,心を動かす出来事などに出会い,そこから得た感動を他の幼児や教師と共有し,様々に表現することなどを通して養われるようにすること。」 に対して,「幼児の豊かな感性は,幼児が身近な環境と十分にかかわり,そこで心を揺さぶられ,何かを感じ,考えさせられるようなものに出会って,感動を得て,その感動を友達や教師と共有し,感じたことを様々に表現することによって一層磨かれていく。そのためには,幼児が興味や関心を抱き,主体的にかかわれるような環境が大切である。このような環境としては,幼児一人一人の感動を引き出せる自然から,絵本,物語などのような幼児にとって身近な文化財,さらに,心を弾ませたり和ませたりするような絵や音楽がある生活環境など幅広く考えられる。」とある。幼稚園教育要領解説「第3章指導計画及び教育課程に係る教育時間の終了後等に行う教育活動などの留意事項」「第1指導計画の作成に当たっての留意事項」「第3節特に留意する事項」「2障害のある幼児の指導」には,幼稚園教育要領「第3章指導計画及び教育課程に係る教育時間の終了後等に行う教育活動などの留意事項」「第1指導計画の作成に当たっての留意事項」「2特に留意する事項」「(2)障害のある幼児の指導に当たっては,集団の中で生活することを通して全体的な発達を促していくことに配慮し,特別支援学校などの助言又は援助を活用しつつ,例えば指導についての計画又は家庭や医療,福祉などの業務を行う関係機関と連携した支援のための計画を個別に作成することなどにより,個々の幼児の障害の状態などに応じた指導内容や指導方法の工夫を計画的,組織的に行うこと。」 に対して,「幼稚園において障害のある幼児を指導する場合には,幼稚園教育の機能を十分生かして,幼稚園生活の場の特性と人間関係を大切にし,その幼児の発達を全体的に促していくことが大切である。そのため,幼稚園では,幼児の障害の種類や程度などを的確に把握し,個々の幼児の障害の状態などに応じた指導内容・指導方法の工夫について検討し,適切な指導を行う必要がある。その際,教師は,ありのままの幼児の姿を受け止め,幼児が安心し,ゆとりをもって周囲の環境と十分にかかわり,発達していくようにすることが大切である。例えば,弱視の幼児がぬり絵をするときには輪郭を太くするなどの工夫をしたり,難聴の幼児に絵本を読むときには教師が近くに座るようにして声がよく聞こえるようにしたり,肢体不自由の幼児が興味や関心をもって進んで体を動かそうとする気持ちがもてるように工夫したりするなど,その幼児の障害の種類や程度に応じた配慮をする必要がある。また,障害のある幼児とない幼児が一緒に遊ぶときには,幼児同士がかかわりながら,それぞれの幼児が遊びを楽しめるように適切な援助をする必要がある。」とある。
中学校学習指導要領および中学校学習指導要領解説(技術・家庭編)における絵本に関する言及
中学校学習指導要領における絵本に関する言及および中学校学習指導要領における絵本に関する言及に対する中学校学習指導要領解説(技術・家庭編)の言及は次の通りである。中学校学習指導要領「第2章各教科」「第8節技術・家庭」「第2各分野の目標及び内容」「家庭分野」「2内容」「A家族・家庭と子どもの成長」には,「(3)幼児の生活と家族について,次の事項を指導する。」として,「イ幼児の観察や遊び道具の製作などの活動を通して,幼児の遊びの意義について理解すること。」とある。これに対して,中学校学習指導要領解説(技術・家庭編)「第2章技術・家庭科の目標及び内容」「第3節家庭分野」「2家庭分野の内容」「A家族・家庭と子どもの成長」には,「幼児の遊び道具については,子どもの成長やコミュニケーションを促す上で大切であることに気付くようにする。また,遊び道具には様々なものがあり,例えば,市販の玩具・遊具,絵本などのほか,自然の素材や身の回りのものも遊び道具になること,言葉や身体を用いた遊びもあること,伝承遊びなどのよさなどにも気付くようにする。その際,安全な遊び道具と遊び環境についても考えることができるようにする。」とある。
高等学校学習指導要領解説(家庭編)における絵本に関する言及
高等学校学習指導要領解説(家庭編)における絵本に関する言及は以下の通りである。高等学校学習指導要領「第2章各学科に共通する各教科」「第9節家庭」「第2款各科目」「第3生活デザイン」「2内容」「(1)人の一生と家族・家庭及び福祉」には,「オ子どもとの触れ合い」として,「子どもとの触れ合いを通して,子どもの生活と遊び,子どもの発達と環境とのかかわりなどについて理解させ,子どもと適切にかかわることができるようにする。」とある。これに対して,高等学校学習指導要領解説(家庭編)「第1部各学科に共通する教科「家庭」」「第2章各科目」「第3節生活デザイン」「2内容とその取扱い」「(1)人の一生と家族・家庭及び福祉」「オ子どもとの触れ合い」には,「子どもとの触れ合いについては,例えば,幼稚園や保育所等を訪問して,幼児と一緒に遊んだり,絵本の読み聞かせを行ったりすることが考えられる。」とある。高等学校学習指導要領「第3章主として専門学科において開設される各教科」「第5節家庭」「第2款各科目」「第2節課題研究」「2内容」には,「(2)作品製作」がある。これに対して,同じく高等学校学習指導要領解説(家庭編)「第2部主として専門学科において開設される教科「家庭」」「第2章各科目」「第2課題研究」「第2内容とその取扱い」「2内容」「(2)作品製作」では,「例えば,被服製作や手芸などの作品製作とファッションショー,テーマに基づいた料理づくり,パンやケーキづくりと販売,食のトータルコーディネート,絵本や遊具づくりなどが考えられる。」とある。高等学校学習指導要領「第3章主として専門学科において開設される各教科」「第5節家庭」「第2款各科目」「第6子ども文化」「2内容」には,「(3)子どもの表現活動と児童文化財」に「イ言語表現活動」がある。これに対して,高等学校学習指導要領解説(家庭編)「第2部主として専門学科において開設される教科「家庭」」「第2章各科目」「第6節子ども文化」「第2内容とその取扱い」「2内容」「(3)子どもの表現活動と児童文化財」には,「お話の効用として,想像力と思考力を育てる,人間関係を深める,言葉の力や話を聞くことを楽しむ,読書への素地づくりをするなどを取り上げて理解させる。絵本には,多種多様なものがあるが,一人一人の興味・関心に合った選択が必要であることを理解させ,読み聞かせができるようにする。」とある。高等学校学習指導要領「第3章主として専門学科において開設される各教科」「第5節家庭」「第2款各科目」「第6子ども文化」「2内容」には,「(5)子ども文化実習」「3内容の取扱い」として,「(1)内容の構成及びその取扱いに当たっては,次の事項に配慮するものとする。イ内容の(5)(i.e. 子ども文化実習)については,内容の(3)(i.e. 子どもの表現活動と児童文化財)の表現活動や関連する児童文化財の中からいずれかを取り上げて実習をさせること。また,児童福祉施設,社会教育施設等との連携を図り,子どもとの交流を体験させるようにすること。」とある。これに対して,高等学校学習指導要領解説(家庭編)「第2部主として専門学科において開設される教科「家庭」」「第2章各科目」「第6節子ども文化」「第2内容とその取扱い」「2内容」「(5)子ども文化実習」には,「ここでは,内容の(3)の子どもの表現活動と児童文化財のアからエ(i.e. ア造形表現活動,イ言語表現活動,ウ音楽・身体表現活動,エ情報手段などを活用した活動)までの中からいずれかを取り上げて,創作活動や製作等の実習を行う。例えば,絵画や折り紙などを用いた壁面構成,お話,絵本,紙芝居,人形劇,パネルシアターなどの創作や製作,歌,ミュージカル,演劇などの創作や上演などが考えられ,地域の児童福祉施設,社会教育施設,児童文化施設などと連携を図り,地域の子どもとの交流を体験させるようにする。」とある。
2015-04-18
ある日の観念
研究室のソファで大友良英著「学校で教えてくれない音楽」を読んで,教育の実質的側面を考察した。大友氏はこの本で,現行の音楽教育に対する批判と,大友氏が考える音楽教育を記述している。大友氏の考える音楽教育の趣旨は,音を出すルールを考える,とりあえず出た音を受容してその音について考える,というプリミティヴな音の考察から始める,というものだった。私は音楽教育については門外漢だが,大友氏が問題視する現行の音楽教育の問題点はナイーヴに想像できるし,大友氏が提案するオルタナティヴも面白そうだとナイーヴに共感できる。ただ,私は所属が教育学部なので,教育の構成はイージーではないという所感がある。学問や教科教育の体系化には,科学的根拠や論理的整合性を要する。教育の場合は,これらに教育的配慮を加える必要がある。クリエイティヴな第一人者の感覚的表現やファンタジスタの経験的直感をなんとなく盛り込むことはできない。もしそれらを盛り込むのであれば,それらを体系化する必要がある。
よく晴れた気持ちいい日だったので,睡眠について考えながらソファで昼寝をした。午後の適度な昼寝のリフレッシュ効果が知られるようになって久しい。作業する場合には,眠気に抗って作業するより,昼寝を取った方が後の作業効率が高くなるとされる。私はこの知見に同意しているので,眠くなった時は適度に昼寝をする。この時,私は,裁量労働制の長所を実感する。自己調整して仕事を進められることは気持ちが良い。加えて,私の専門は心理学である。昼寝は,覚醒水準と作業効率の日常的考察になる。私は,企業のオフィスで働く友人に,眠気との付き合い方を尋ねたことがある。私は,「眠くなったらどうするの?」と尋ねた。すると,友人は,「デスクに就いている時は,書類が回ってくれば書類に,電話が鳴れば電話に,来客があれば来客に対応する必要がある。抗いがたい眠気が来て,どうしても眠い時は,トイレの個室で眠る。デスクから離れれば,一時的にそれらの対応から外れることができる。長時間でなければトラブルもない。」と応えた。ラウンジのような休憩スペースもあるが,そこで眠るのは憚られるらしい。これは想像だが,そのオフィスのトイレは清潔で安らげる空間なのだろう。他の友人にも同様の質問をしたことがあるが,概ね同様の回答だった。この日は,快晴で,気温が上がって暖かく,湿度が低く,PM2.5および黄砂の飛散がほとんどなく,気持ち良い日だった。私は,気象状況に合わせてその日の行動を調整する。天気,気温,湿度,PM2.5および黄砂の飛散の予報を前日にチェックし,展望を持つ。そして,朝起きると,iPhoneでそれぞれの情報を再度チェックする。加えて,観天望気し,実際に気象状況を自分で確認する。天気が良くPM2.5および黄砂の飛散が少なければ洗濯物はヴェランダで干し,天気が悪かったりPM2.5および黄砂の飛散が多く予想されたりすれば洗濯物は部屋で干す。穏やかで気持ちのよい日だった。私は20分ほど眠った。
学生が研究室にやって来たので,昼寝から起きて,彼女の妄想に付き合った。彼女は,40歳でカフェを開きたいと言う。松江の人が気軽に通うことができるカフェを運営したいらしい。私も同じようなことを考えたことがある。島根大学松江キャンパスとその周辺には,溜まり場的サムシングが少ない。FLATという木の質感と海外のファニチャのデザインをフィーチャーした建物があるが,収容人数に限りがある。サークル棟はいつも賑やかで,楽器の音や歌声が聴こえてくるが,サークルに所属していない人は利用できない。生協が運営するカフェがふたつあるが,学生が利用するものと見受けられる。教職員や来客が利用できるようなものはないのだろうかと思うことがある。大学から少し歩いたところにカフェはあるが,大学の近くには少ない。この理由を彼女に尋ねると,理由は分からないと断りながら,「大学の近くは,カフェができてもすぐに閉店しちゃうんですよ。」と返ってきた。利用客が見込めたとしても,私は国立大学法人の教員であり,彼女は教員志望でこのまま事が進めば教員になるため,カフェを運営すると法規に抵触することになる。そこで,NPO(non-profit organization)を設立してカフェを展開することを空想した。絶望的にダサい名前だが,「アカデミックアゴラ」とか「教育研究修学広場」とか「Matsue Cafeen」とか何とかいう名前にして,松江の人が教育研究学習に際することができる文脈,また,交流できる文脈としてカフェを作る。基本的構造はオーディナリなカフェと同じだが,カフェ内でアカデミックな展開がしやすい構造にする。行き場のない専門書の寄付を受け付けたり,視聴覚教材を用いたイヴェントが開催できる構造にする。音楽教育専攻学生のコンサートやバンドサークルのライヴで使っても良い。外書の原著を開くご隠居,アポイントメントまでの時間をつぶすために入ったら学生時代の専攻とリンクする雑誌があって読みふけってしまうビジネスマン,2次元と3次元の差異性を議論する学生,子どもを連れて乳幼児発達相談を展開する親のグループ,それぞれが混ざっても居心地良く過ごすことができる空間になれば面白い。私と彼女は理事にでもなればよい。学生をアルバイトに採用しよう。経営が健全なら,学生が卒業した後に店長を任せよう。大学教員は社会貢献が業績として求められる,カフェを通した活動が業績になれば私も面白い。私はサータアンダギーが好きで,退職後は沖縄でサータアンダギービジネスを展開したいと妄想している。私は沖縄が好きで,よく旅行に出掛ける。そして,サータアンダギーをよく食べる。サータアンダギーがシンプルに好きであり,ビジネスの予習にもなる。この春の沖縄旅行でも,たくさんサータアンダギーを食べた。ビジネス展開の練習として,このNPOのカフェでサータアンダギーを気まぐれで振舞う。ちなみに,私はこの日,昼食後にコーヒーを飲みながらYouTubeでサータアンダギーの作り方を視聴したところだった。サータアンダギーの表面は,揚げている間に割れてくる。これを,「サータアンダギーが笑う」と表現するらしい。サータアンダギーが笑わない時は,揚げ時間や温度に問題がある。YouTubeには,関連動画としてMasterchef Australiaのドーナツ作りの動画があった。Masterchef Australiaは,いつ見ても説明とリアクションがシンプルで分かりやすい。ドーナツはイーストを使うがサータアンダギーは使わないことを知った。
あれこれと話が盛り上がった関係で今度飲みに行こうという話になり,調整におけるプライオリティを考察した。来週はどうかと予定を考える。新しく研究室に所属する3年性を迎える淡野研究室の新歓がある。彼女は彼女で予定がある。その次の週はどうか。GWが始まる。GW明けはどうか。詳細は分からないが,授業関連のイヴェントが入りそうなので見通しがつかない。彼女は彼女で見通しがつかない。そんなこんなで,「うーん,予定が合わないなあ。」という話になる。そして,「俺たちは予定を合わせる気がないんだなあ。」という話になる。その気になれば,その日の夜に飲みに行くオプションもある。来週は来週で,研究室の新歓があると言っても,1週間のうち6日残っている。物事の調整は,プライオリティの調整でもある。世の中には,文字通り,万障繰り合わせてやりたいことが存在する。出費が嵩んでいたとしても,購買したい物が存在する。人が「予定が合わないから無理」と言う時,予定を合わせる気がないことが背後にあることは少なくない。人が「お金がないから無理」と言う時,当該案件に支出するお金はないという考えが背後にあることは少なくない。予定を合わせる気がないことを共有し,彼女は研究室を後にした。今度,予定を合わせる気になったら,飲もう。近いうちにはなさそうだけど。
よく晴れた気持ちいい日だったので,睡眠について考えながらソファで昼寝をした。午後の適度な昼寝のリフレッシュ効果が知られるようになって久しい。作業する場合には,眠気に抗って作業するより,昼寝を取った方が後の作業効率が高くなるとされる。私はこの知見に同意しているので,眠くなった時は適度に昼寝をする。この時,私は,裁量労働制の長所を実感する。自己調整して仕事を進められることは気持ちが良い。加えて,私の専門は心理学である。昼寝は,覚醒水準と作業効率の日常的考察になる。私は,企業のオフィスで働く友人に,眠気との付き合い方を尋ねたことがある。私は,「眠くなったらどうするの?」と尋ねた。すると,友人は,「デスクに就いている時は,書類が回ってくれば書類に,電話が鳴れば電話に,来客があれば来客に対応する必要がある。抗いがたい眠気が来て,どうしても眠い時は,トイレの個室で眠る。デスクから離れれば,一時的にそれらの対応から外れることができる。長時間でなければトラブルもない。」と応えた。ラウンジのような休憩スペースもあるが,そこで眠るのは憚られるらしい。これは想像だが,そのオフィスのトイレは清潔で安らげる空間なのだろう。他の友人にも同様の質問をしたことがあるが,概ね同様の回答だった。この日は,快晴で,気温が上がって暖かく,湿度が低く,PM2.5および黄砂の飛散がほとんどなく,気持ち良い日だった。私は,気象状況に合わせてその日の行動を調整する。天気,気温,湿度,PM2.5および黄砂の飛散の予報を前日にチェックし,展望を持つ。そして,朝起きると,iPhoneでそれぞれの情報を再度チェックする。加えて,観天望気し,実際に気象状況を自分で確認する。天気が良くPM2.5および黄砂の飛散が少なければ洗濯物はヴェランダで干し,天気が悪かったりPM2.5および黄砂の飛散が多く予想されたりすれば洗濯物は部屋で干す。穏やかで気持ちのよい日だった。私は20分ほど眠った。
学生が研究室にやって来たので,昼寝から起きて,彼女の妄想に付き合った。彼女は,40歳でカフェを開きたいと言う。松江の人が気軽に通うことができるカフェを運営したいらしい。私も同じようなことを考えたことがある。島根大学松江キャンパスとその周辺には,溜まり場的サムシングが少ない。FLATという木の質感と海外のファニチャのデザインをフィーチャーした建物があるが,収容人数に限りがある。サークル棟はいつも賑やかで,楽器の音や歌声が聴こえてくるが,サークルに所属していない人は利用できない。生協が運営するカフェがふたつあるが,学生が利用するものと見受けられる。教職員や来客が利用できるようなものはないのだろうかと思うことがある。大学から少し歩いたところにカフェはあるが,大学の近くには少ない。この理由を彼女に尋ねると,理由は分からないと断りながら,「大学の近くは,カフェができてもすぐに閉店しちゃうんですよ。」と返ってきた。利用客が見込めたとしても,私は国立大学法人の教員であり,彼女は教員志望でこのまま事が進めば教員になるため,カフェを運営すると法規に抵触することになる。そこで,NPO(non-profit organization)を設立してカフェを展開することを空想した。絶望的にダサい名前だが,「アカデミックアゴラ」とか「教育研究修学広場」とか「Matsue Cafeen」とか何とかいう名前にして,松江の人が教育研究学習に際することができる文脈,また,交流できる文脈としてカフェを作る。基本的構造はオーディナリなカフェと同じだが,カフェ内でアカデミックな展開がしやすい構造にする。行き場のない専門書の寄付を受け付けたり,視聴覚教材を用いたイヴェントが開催できる構造にする。音楽教育専攻学生のコンサートやバンドサークルのライヴで使っても良い。外書の原著を開くご隠居,アポイントメントまでの時間をつぶすために入ったら学生時代の専攻とリンクする雑誌があって読みふけってしまうビジネスマン,2次元と3次元の差異性を議論する学生,子どもを連れて乳幼児発達相談を展開する親のグループ,それぞれが混ざっても居心地良く過ごすことができる空間になれば面白い。私と彼女は理事にでもなればよい。学生をアルバイトに採用しよう。経営が健全なら,学生が卒業した後に店長を任せよう。大学教員は社会貢献が業績として求められる,カフェを通した活動が業績になれば私も面白い。私はサータアンダギーが好きで,退職後は沖縄でサータアンダギービジネスを展開したいと妄想している。私は沖縄が好きで,よく旅行に出掛ける。そして,サータアンダギーをよく食べる。サータアンダギーがシンプルに好きであり,ビジネスの予習にもなる。この春の沖縄旅行でも,たくさんサータアンダギーを食べた。ビジネス展開の練習として,このNPOのカフェでサータアンダギーを気まぐれで振舞う。ちなみに,私はこの日,昼食後にコーヒーを飲みながらYouTubeでサータアンダギーの作り方を視聴したところだった。サータアンダギーの表面は,揚げている間に割れてくる。これを,「サータアンダギーが笑う」と表現するらしい。サータアンダギーが笑わない時は,揚げ時間や温度に問題がある。YouTubeには,関連動画としてMasterchef Australiaのドーナツ作りの動画があった。Masterchef Australiaは,いつ見ても説明とリアクションがシンプルで分かりやすい。ドーナツはイーストを使うがサータアンダギーは使わないことを知った。
あれこれと話が盛り上がった関係で今度飲みに行こうという話になり,調整におけるプライオリティを考察した。来週はどうかと予定を考える。新しく研究室に所属する3年性を迎える淡野研究室の新歓がある。彼女は彼女で予定がある。その次の週はどうか。GWが始まる。GW明けはどうか。詳細は分からないが,授業関連のイヴェントが入りそうなので見通しがつかない。彼女は彼女で見通しがつかない。そんなこんなで,「うーん,予定が合わないなあ。」という話になる。そして,「俺たちは予定を合わせる気がないんだなあ。」という話になる。その気になれば,その日の夜に飲みに行くオプションもある。来週は来週で,研究室の新歓があると言っても,1週間のうち6日残っている。物事の調整は,プライオリティの調整でもある。世の中には,文字通り,万障繰り合わせてやりたいことが存在する。出費が嵩んでいたとしても,購買したい物が存在する。人が「予定が合わないから無理」と言う時,予定を合わせる気がないことが背後にあることは少なくない。人が「お金がないから無理」と言う時,当該案件に支出するお金はないという考えが背後にあることは少なくない。予定を合わせる気がないことを共有し,彼女は研究室を後にした。今度,予定を合わせる気になったら,飲もう。近いうちにはなさそうだけど。
2015-04-16
学校教育実践研究1: 自己紹介スピーチ
今年度から教育実習部会に所属している。教育実習部会関係者は,教育学部の教員だけで20人を超える。教員の顔と名前の同定が追いつかないくらいである。教育実習部会は,島根大学教育学部附属学校園および松江市内の協力学校園と連携して教育実習の運営をする。このための会議が週にひとつある。また,教育実習部会は,学生の教育実習の指導をする。このための授業が週にふたつある。授業のひとつは学部1年生の授業「学校教育実践研究1」であり,もうひとつは学部3年生の授業「学校教育実践研究2」である。島根大学教育学部は,1年生から教育実習を行う。直近の教育実習は,島根大学教育学部附属学校園を訪れ,幼稚園,小学校,中学校の保育および学習指導を1週間かけて観察するものである。
昨日,1年生の学校教育実践研究1で,自己紹介スピーチがあった。島根大学教育学部では,170人の新入生は,入学早早に教育実習の準備をスタートする。学生は,5クラスに分かれ,さらに各クラスで6グループに分かれる。昨日は,グループごとに自己紹介スピーチというワークを行った。私はたくさんいる教員のひとりとしてワークを総括する。自己紹介スピーチとは,1分間の自己紹介に関するスピーチである。「自己紹介の練習をしましょう」というわけである。学生は,まず,出身や趣味や教育学部を希望した動機などの自分を紹介するキーワードを内省する。次に,1分間の自己紹介原稿を構成する。次に,グループごとにそれぞれの自己紹介を批評し合う。最後に,それぞれの評価を以って議論し,各自己評価をブラッシュアップする。教育実習部会が用意したワークシートに倣って準備したのだろう,学生が自己紹介で取り上げた事項は概ね同じようなものだった。関西人が好きな「ボケ」や「面白エピソード」や「ひとくち噺」は私が観察する限りは見られなかった。
個人的な考えを書けば,私は自己紹介を批評されたくない。もちろん,声の大きさや話すスピードや話の構成や言葉遣いには配慮した方が良いと思う。自己紹介は他者に提供することが基本であるから,情報を伝えることは必要条件である。人によっては,情報を明瞭に伝えないことがあるが,それは「自分は自己紹介では情報を明瞭に伝えたくない」とうことを伝えているのである。教育実習の文脈で自己紹介をすることを考えると,パスすべきラインは存在する。しかし,内容の如何は,本来的に他者にあれこれ言われるものではない。それは,趣味の世界だからである。自己紹介でも提示するように,趣味は趣味である。好きなものは好き,嫌いなものは嫌い,それだけの話である。法に抵触したり他者のサムシングを強度に侵害したりするものでなければ,その内容は問われるものではない。形式的な批評であればよいが,過干渉な批評は避けられるべきである。念のために書いておくと,私は教育実習部会の方針に同意できないと言っているわけではない。私は個人的に,自己紹介を批評されたくないと言っているだけである。
学生が自己紹介スピーチを展開している間,私はニュースに関するwebsiteを参照していた。相手は大学生なので,グループワークは自ずと進行する。手持ち無沙汰で暇つぶしがてらグループワークに関与するのはなんだか面白くない。私は,海外メディアの日本に関する報道を参照するべく,あれこれとwebsiteを参照していた。
ニュースに関するwebsiteを一通り見ても時間が余ったので,もし自分が学生だったらどんな自己紹介をするだろうかと空想した。以前のブログ「私の自己紹介観:「Denden」2015年版に寄せた文章」に書いたように,私は自己紹介であれこれ考える。他者の自己紹介でもあれこれ考え,自身の自己紹介でもあれこれ考える。呈示情報に反映する心理を考慮するので,私にとっては自己紹介はイージーではない。「できることなら好印象を抱いて欲しい。」と思うと同時に,「誰かを不快にさせてしまうことはないだろうか。」とか「いけ好かない奴だと思われはしないだろうか。」と呈示情報を精査する。かといって,あまり考えずに自己紹介をして,「あまり深く考えずに自己紹介を展開している。」と思われることは面白くない。今回の自己紹介スピーチは,グループのメンバーに自己紹介を批評されることが前提されている。どんな自己紹介をしても何か言われるということは決まっている。何か言われるなら,言われることを予見できる自己紹介を構成しよう。時間は1分間だ。情報はあまりたくさん付加できない。シンプルな自己紹介にしよう。
そこで考案した自己紹介は次の通りである。「淡野将太です。自己紹介スピーチということで,私の自己紹介をします。時間が1分間と限られていますので,今回は『最近気になっていること』にテーマを絞ってお話しします。まず,最近気になっている学校は,松江市の乃木小学校です。次に,最近気になっているアパレルは,UNIQLOです。次に,最近気になっている食べ物は,ノドグロです。最後に,私が最近気になっているスポーツは,テニスです。簡単ですが,『最近気になっていること』に絞った私の自己紹介は以上です。ありがとうございました。」
たくさんの批評が予見される。「最近気になっていること」以外の事項も呈示した方がよいのではないか−−そうですね。「最近気になっていること」が気になる理由を合わせて呈示した方がよいのではないか−−そうですね。時間が余るのではないか−−そうですね。それ,錦織圭選手やないか−−そう,それが聞きたかった。
これは,ふざけているわけではなく,自己紹介で積極的に楽しんでいるのである。批評される内容を予見して自己紹介を構成することは,他者の視点を考慮して自己紹介を構成することであり,これは学校教育実践研究1の目標を幾分か満たすものである。実際に批評されれば,グループワーク中に加筆修正を行えばよい。自己紹介を精緻化するという点では,甲斐があると言える。因みに,上記の自己紹介を心理学的に開けば,次のようになる。「最近気になっていること」にテーマを絞るのは,奇異性の演出である。他の学生の自己紹介を勘案すると,各学生の自己に関する事項の羅列となることがポッシブルである。同様の形式で自己紹介を行えば,その中に埋もれることになる。周囲が行わないことをすることで,奇異性効果が生起して,聞き手に印象を与えやすい。また,聞き手に「最近気になっていること」以外のことを知りたいと動機づける効果もある。こちらに関心を抱かせることができれば,自己紹介が「上手くいった」と言っても良いだろう。加えて,呈示情報は,テニスの錦織圭選手という上位概念に集約できる。情報が整理しやすい点において,聞き手は情報を記憶しやすい。
楽しんだついでに,「最近気になっていること」が気になる理由を記述する。上述した「最近気になっていること」は,全て本当である。松江市立乃木小学校は,全校児童数が1,000人を超える小学校である。47都道府県中,鳥取に次いで人口が少ない島根県において,1,000人を超えている。松江市乃木は,住宅地であり,子どもが多い。1,000人を超える小学校があると聞いて,多くの人は「そんなに子どもがいたんだ。」と驚く。私も初めて聞いた時は驚いた。島根のイメージと乖離しているためである。この事実は面白いので,私は気になっている。最近,UNIQLOでUTを8枚購入した。同じデザインで同じサイズのUTである。昨年の夏,私はLINEのUTを着ていた。飲み会に着ていくと,学生に,「着る人いたんですね。」と言われたことがあった。私は,LINEのUTシリーズの肌触りが気に入ったので,たくさん欲しいと思った。部屋着として非常に有用なためである。しかし,夏が過ぎると,LINEのUTシリーズは店頭からなくなってしまった。オンラインストアにも見当たらなかった。先月,ふとUNIQLOを訪れた際,店のワゴンに,クリアランスとしてLINEのUTシリーズが並んでいた。私は,そこにあった自分に合うサイズのUTを全て購入した。その結果,枚数が8枚となった。GWが近くなってきた。UNIQLOはセールを展開するだろう。私はUNIQLOの販売動向を気にかけている。ノドグロは,日本海側で獲れる魚であり,高級魚として知られる。島根でも人気がある。私は,刺身と焼きで食べたことがある。とても美味しい。ノドグロの旬は,夏と言われたり,冬と言われたりする。旬がよく分からないので,私は気になっている。テニスは,硬式テニスと軟式テニスの関係性が気になる。大学のメインストリートを歩いていると,新入生のサークル勧誘用の看板が並んでいる。看板のひとつに,軟式テニスの看板があった。テニスは,プロスポーツなどでフィーチャーされるのは専ら硬式テニスである。しかし,教育の文脈では,軟式テニスは結構人気がある。場合によっては,硬式テニスのクラブはないが,軟式テニスのクラブはあるという学校もある。昔付き合っていた女性が,軟式テニスをしていた。私は当時,彼女に「何故マイナーなのに軟式テニスをしているの?」と尋ねたことがある。私の記憶では,彼女は,明確なアンサーを提出しなかった。おそらく,何も考えずに軟式テニスをしていたのだろう。
昨日,1年生の学校教育実践研究1で,自己紹介スピーチがあった。島根大学教育学部では,170人の新入生は,入学早早に教育実習の準備をスタートする。学生は,5クラスに分かれ,さらに各クラスで6グループに分かれる。昨日は,グループごとに自己紹介スピーチというワークを行った。私はたくさんいる教員のひとりとしてワークを総括する。自己紹介スピーチとは,1分間の自己紹介に関するスピーチである。「自己紹介の練習をしましょう」というわけである。学生は,まず,出身や趣味や教育学部を希望した動機などの自分を紹介するキーワードを内省する。次に,1分間の自己紹介原稿を構成する。次に,グループごとにそれぞれの自己紹介を批評し合う。最後に,それぞれの評価を以って議論し,各自己評価をブラッシュアップする。教育実習部会が用意したワークシートに倣って準備したのだろう,学生が自己紹介で取り上げた事項は概ね同じようなものだった。関西人が好きな「ボケ」や「面白エピソード」や「ひとくち噺」は私が観察する限りは見られなかった。
個人的な考えを書けば,私は自己紹介を批評されたくない。もちろん,声の大きさや話すスピードや話の構成や言葉遣いには配慮した方が良いと思う。自己紹介は他者に提供することが基本であるから,情報を伝えることは必要条件である。人によっては,情報を明瞭に伝えないことがあるが,それは「自分は自己紹介では情報を明瞭に伝えたくない」とうことを伝えているのである。教育実習の文脈で自己紹介をすることを考えると,パスすべきラインは存在する。しかし,内容の如何は,本来的に他者にあれこれ言われるものではない。それは,趣味の世界だからである。自己紹介でも提示するように,趣味は趣味である。好きなものは好き,嫌いなものは嫌い,それだけの話である。法に抵触したり他者のサムシングを強度に侵害したりするものでなければ,その内容は問われるものではない。形式的な批評であればよいが,過干渉な批評は避けられるべきである。念のために書いておくと,私は教育実習部会の方針に同意できないと言っているわけではない。私は個人的に,自己紹介を批評されたくないと言っているだけである。
学生が自己紹介スピーチを展開している間,私はニュースに関するwebsiteを参照していた。相手は大学生なので,グループワークは自ずと進行する。手持ち無沙汰で暇つぶしがてらグループワークに関与するのはなんだか面白くない。私は,海外メディアの日本に関する報道を参照するべく,あれこれとwebsiteを参照していた。
ニュースに関するwebsiteを一通り見ても時間が余ったので,もし自分が学生だったらどんな自己紹介をするだろうかと空想した。以前のブログ「私の自己紹介観:「Denden」2015年版に寄せた文章」に書いたように,私は自己紹介であれこれ考える。他者の自己紹介でもあれこれ考え,自身の自己紹介でもあれこれ考える。呈示情報に反映する心理を考慮するので,私にとっては自己紹介はイージーではない。「できることなら好印象を抱いて欲しい。」と思うと同時に,「誰かを不快にさせてしまうことはないだろうか。」とか「いけ好かない奴だと思われはしないだろうか。」と呈示情報を精査する。かといって,あまり考えずに自己紹介をして,「あまり深く考えずに自己紹介を展開している。」と思われることは面白くない。今回の自己紹介スピーチは,グループのメンバーに自己紹介を批評されることが前提されている。どんな自己紹介をしても何か言われるということは決まっている。何か言われるなら,言われることを予見できる自己紹介を構成しよう。時間は1分間だ。情報はあまりたくさん付加できない。シンプルな自己紹介にしよう。
そこで考案した自己紹介は次の通りである。「淡野将太です。自己紹介スピーチということで,私の自己紹介をします。時間が1分間と限られていますので,今回は『最近気になっていること』にテーマを絞ってお話しします。まず,最近気になっている学校は,松江市の乃木小学校です。次に,最近気になっているアパレルは,UNIQLOです。次に,最近気になっている食べ物は,ノドグロです。最後に,私が最近気になっているスポーツは,テニスです。簡単ですが,『最近気になっていること』に絞った私の自己紹介は以上です。ありがとうございました。」
たくさんの批評が予見される。「最近気になっていること」以外の事項も呈示した方がよいのではないか−−そうですね。「最近気になっていること」が気になる理由を合わせて呈示した方がよいのではないか−−そうですね。時間が余るのではないか−−そうですね。それ,錦織圭選手やないか−−そう,それが聞きたかった。
これは,ふざけているわけではなく,自己紹介で積極的に楽しんでいるのである。批評される内容を予見して自己紹介を構成することは,他者の視点を考慮して自己紹介を構成することであり,これは学校教育実践研究1の目標を幾分か満たすものである。実際に批評されれば,グループワーク中に加筆修正を行えばよい。自己紹介を精緻化するという点では,甲斐があると言える。因みに,上記の自己紹介を心理学的に開けば,次のようになる。「最近気になっていること」にテーマを絞るのは,奇異性の演出である。他の学生の自己紹介を勘案すると,各学生の自己に関する事項の羅列となることがポッシブルである。同様の形式で自己紹介を行えば,その中に埋もれることになる。周囲が行わないことをすることで,奇異性効果が生起して,聞き手に印象を与えやすい。また,聞き手に「最近気になっていること」以外のことを知りたいと動機づける効果もある。こちらに関心を抱かせることができれば,自己紹介が「上手くいった」と言っても良いだろう。加えて,呈示情報は,テニスの錦織圭選手という上位概念に集約できる。情報が整理しやすい点において,聞き手は情報を記憶しやすい。
楽しんだついでに,「最近気になっていること」が気になる理由を記述する。上述した「最近気になっていること」は,全て本当である。松江市立乃木小学校は,全校児童数が1,000人を超える小学校である。47都道府県中,鳥取に次いで人口が少ない島根県において,1,000人を超えている。松江市乃木は,住宅地であり,子どもが多い。1,000人を超える小学校があると聞いて,多くの人は「そんなに子どもがいたんだ。」と驚く。私も初めて聞いた時は驚いた。島根のイメージと乖離しているためである。この事実は面白いので,私は気になっている。最近,UNIQLOでUTを8枚購入した。同じデザインで同じサイズのUTである。昨年の夏,私はLINEのUTを着ていた。飲み会に着ていくと,学生に,「着る人いたんですね。」と言われたことがあった。私は,LINEのUTシリーズの肌触りが気に入ったので,たくさん欲しいと思った。部屋着として非常に有用なためである。しかし,夏が過ぎると,LINEのUTシリーズは店頭からなくなってしまった。オンラインストアにも見当たらなかった。先月,ふとUNIQLOを訪れた際,店のワゴンに,クリアランスとしてLINEのUTシリーズが並んでいた。私は,そこにあった自分に合うサイズのUTを全て購入した。その結果,枚数が8枚となった。GWが近くなってきた。UNIQLOはセールを展開するだろう。私はUNIQLOの販売動向を気にかけている。ノドグロは,日本海側で獲れる魚であり,高級魚として知られる。島根でも人気がある。私は,刺身と焼きで食べたことがある。とても美味しい。ノドグロの旬は,夏と言われたり,冬と言われたりする。旬がよく分からないので,私は気になっている。テニスは,硬式テニスと軟式テニスの関係性が気になる。大学のメインストリートを歩いていると,新入生のサークル勧誘用の看板が並んでいる。看板のひとつに,軟式テニスの看板があった。テニスは,プロスポーツなどでフィーチャーされるのは専ら硬式テニスである。しかし,教育の文脈では,軟式テニスは結構人気がある。場合によっては,硬式テニスのクラブはないが,軟式テニスのクラブはあるという学校もある。昔付き合っていた女性が,軟式テニスをしていた。私は当時,彼女に「何故マイナーなのに軟式テニスをしているの?」と尋ねたことがある。私の記憶では,彼女は,明確なアンサーを提出しなかった。おそらく,何も考えずに軟式テニスをしていたのだろう。
2015-04-12
将棋電王戦に寄せて
将棋電王戦FINALが終わった。電王戦は,2012年から4回に渡って開催された棋士とコンピュータの棋戦である。今回の電王戦FINALを以ってシリーズはひとまず幕を閉じた。
電王戦に関する文章はたくさん提出されている。棋戦の総論は,電王戦を主題とした書籍や雑誌の特集などで展開されている。棋戦のバックステージ情報は,関係者のソーシャルメディアでも発信されている。棋士およびコンピュータの事情は,棋士や開発者や記者のソーシャルメディアなどで発信されている。
私の所感が各種メディアで発信される評論,考察,所感では見られないものだったので,以下に書いておく。ただ,特別変わったものではない。言及されることがないことに平易に言及する程度のことである。
私の主たる所感は,将棋における人間とコンピュータの関係が明確になって良かったというものである。電王戦FINAL終了後に行われた会見では,主催の株式会社ドワンゴの川上会長が,電王戦のテーマは人間とコンピュータが能力を競うとどのようになるかを問うことであり,電王戦FINALはこのテーマにふさわしいものとなった,という趣旨の発言を行った。同感である。
5番勝負で展開された電王戦FINALの結果はの概要は,次のように記述できる。第1局は,将棋の流れを左右する場面になる前の手番において,棋士が意図的に持ち時間を使い,コンピュータの指し手を限定する工夫があった。この工夫によって,棋士は想定した局面に導入することに成功し,優勢を維持してそのまま勝ちに至った。第2局は,棋士が例外(e.g. 詰将棋の打ち歩詰め対策)を除いて指すことがない「角不成」を用い,コンピュータに持ち時間を使わせる奇手が出た。コンピュータはプログラム上「角不成」に対応できずにストップしてしまい,そのままソフト開発者が投了した。第5局は,角交換から棋士が意図的に空間を作ってコンピュータに角を打たせ,その角を攻めて駒得を主張する展開を指向した。コンピュータは棋士の指向通りに角を打ち,ソフト開発者はコンピュータが角を打ったところで作戦負けを認識し,投了した。第5局は,21手49分での終局となったこと,また,電王戦シリーズで初の棋士の勝ち越しとなったことで話題となった。第3局と第4局のコンピュータの2勝は,コンピュータの強さが活きる展開となった将棋だった。
コンピュータの強さは概して,序盤の棋譜記録の多さと終盤の詰みを読み切る速度および正確性にある。人間にとっては,何千何万の棋譜データを記憶することはイージーではないが,スペックが向上した現在のコンピュータにとってはイージーである。また,手が狭い終盤は,コンピュータの計算速度の速さおよび正確性の高さは,人間を優に凌駕する域に達している。加えて,コンピュータには疲労も緊張もない。一方,人間には疲労と緊張は勝敗を左右するものにもなり得る。
そのため,現時点における人間とコンピュータの類比では,中盤の構想が勝敗を分けると言われる。人間がコンピュータに勝つには,序盤は,差がつかないように正確に指すか,定跡から外れてコンピュータの記録にない展開もしくは実践例がない展開に持ち込むことが有効だと言われる。そして,中盤において,コンピュータが計算能力を活用して検索を展開するところを,キャリアで培った大局観を用いて無駄な筋は省略して読み進める。ここで,指し手を限定して読みを進め,終盤までを正確に読んで勝ちに近づける。
コンピュータ将棋の弱点は,ソフトに欠陥があると対応できないことである。コンピュータであることが弱点と表現してもよい。今回の電王戦FINALの規定では,棋士は対局前に対局用コンピュータの提供を受け,対戦する各ソフトの特徴を考察することができた。そのため,棋士は練習段階で弱点を見つけ,そこを攻略するオプションを留保できた。今回の規定では,開発者はソフトのプログラムを修正できないので,発見された弱点はそのまま対局においても露呈した。
第1局,第2局,第5局の棋士の3勝は,棋士がコンピュータの特徴を考察し,趣向を凝らして勝ったと言ってよい将棋である。積極的にコンピュータの弱点を突いたと言ってもよい。弱点を突いたことを以って,「『ハメ手』を指すのは邪道である」とか,「プロらしくない」と評する意見がある。郷田王将は,王道の手を指すことで「格調高い」と言われることがある。そして,その関係から,なんでもかでも格調高いと言われる。先日の王将戦では,睡魔に負けて居眠りしそうな記録係を,対局中に注意した。その際,「格調高く注意」と言われた程である。格調という次元で評すれば,今回の棋士の3勝は格調高くはないかもしれない。しかし,将棋において,相手の特徴を考察して指すことは一般的なことである。相手の棋風(i.e. どのような将棋を選好するか)を調べ,作戦を立てることは普通に行う。勝負にこだわるなら,一層のこと,相手の得意型を外すことを考えるだろう。コンピュータの強さは広く知られている。過去3回の電王戦は,棋士がコンピュータの強さを体感した戦いとなった。コンピュータの強さに正面から挑むのは,人間である棋士の弱点を正面に出して対局することと同義と言える。自分が有利な作戦を採択することは自然である。棋力の向上や,棋理の解明という視座から見れば,相手のことを考えないこともある。久保九段は,棋王と王将の二冠を保持し,対局がタイトスケジュールで続いた際,自分が良い将棋を指すことに集中すれば,将棋は自分との戦いとなり,相手が誰であっても余計なことを考えずに済むという趣旨の発言をしていた。また,羽生四冠は,最新の戦型を内面化する際には,その戦型を得意とする相手に正面から立ち向かう必要があるという趣旨の発言をしていた。そして,正面から立ち向かって負けることは,授業料と思えば納得できる,という趣旨の発言もしていた。これらは,数ある将棋観の一握りである。今回の電王戦は,FINALということで棋士側に結果が求められる側面があった。そのため,勝ちを求めて作戦を立てたことは,容易に納得できる。また,繰り返しになるが,それは,将棋ではごく一般的なことであり,何も奇異ではない。
将棋における人間とコンピュータの関係が明確になって良かったというのは,5局がいずれも,棋士とコンピュータそれぞれの強さを示すものであったということである。棋士が勝ちにこだわるビヘイヴィアは,コンピュータの強さを認めた証拠である。コンピュータの弱点が露呈したが,それを補えば,コンピュータは強い。それぞれの強さと弱さが明確になった点が,電王戦FINALのアウトカムだと私は思う。
4回に渡る電王戦では,盤外の議論も活発だった。棋士に加担する言説として,プロモーションヴィデオ製作者やソフト開発者の失礼を批判するものがあった。これには一理あると思う。礼儀を重んじる棋界にはマッチしない言動は確かにあった。煽動的な動画で棋士とソフト開発者の感情的なやり取りをフィーチャーする向きがあった。極端なシニシズムを展開するソフト開発者もいた。一方,コンピュータに加担する言説として,棋士のコンピュータに対する過小評価を批判するものがあった。これにも一理あると思う。2012年の1番勝負は人間の負け,2013年と2014年の5番勝負はいずれも人間が負け越した。これによって,コンピュータの棋力は評価されることになった。
これらの議論は,将棋の発展に寄与するものだと私は思う。電王戦によって,将棋は広く知られるようになった。Yahoo!ニュースのトピックとして将棋が掲載されることが多くなった。将棋の奥深さが広まった。棋士の人間味も明らかになった。コンピュータ将棋の進化も知られた。この点を,私は評価する。同様のことを,羽生四冠が指摘している。今年3月,文藝春秋の文春ムック「羽生善治闘う頭脳」が発売された。このムックは,インタヴューを筆頭に,羽生四冠の過去の記事や対談を収録している。A5の2段組で文字が優勢にも関わらず,項数は200を超えていた。私が将棋の観るファンになる前の記事が多く掲載されていたので,私は楽しく読んだ。羽生四冠は,将棋が注目されることは,裾野が広がり,将棋が発展するとともに,棋理の解明につながるという趣旨の指摘を展開していた。自身の七冠達成が注目された時期,各種メディアは自身を含む将棋をフィーチャーした。そして,将棋のタイトルが7つあることを始め,棋士という職業があること,棋士の収入が場合によっては1億円を超えること,などが知られるようになった。つまり,将棋の認知度が飛躍的に向上した。その結果,将棋ファンが増え,将棋が発展した。
加えて,コンピュータの発展にも寄与すると思う。極端なシニシズムを展開するソフト開発者の言動を観察した際,パフォーマンスでやっているわけではないと考察できることがあった。研究の世界には,マッドサイエンティスト(mad scientist)という言葉がある。科学を悪用する人の呼称であると同時に,社交性や社会的適応と引き換えに研究の専門性を高めた人の呼称でもある。後者は,研究ばかりしている人と呼んでもいい。この人は,社交性や社会的適応が問題して拗れることはあるが,科学や研究の発展に寄与するブレイクスルーを実現する可能性も比較的高く保持している。私の専門は心理学である。心理学の世界にも,マッドな人はたまにいる。私は,社交性や社会的適応と引き換えに研究の専門性を高めた人へのリガードがある。研究者の仕事は,コンピュータ将棋の場合,ソフトとなって外在化する。人間に対する敵意を伴うかのような情熱は,コンピュータの発展にプラスとなると考えることは,無理な考察ではないだろう。
私は,人間が好きで心理学を専門としていることに加え,将棋が好きなので,電王戦の展開を興味深く見てきた。電王戦は,将棋とコンピュータ開発の両方に利するものが多かったと思う。
今回の電王戦FINALを以ってシリーズはひとまず幕を閉じるが,今後も新しい展開があるらしいので,私はその展開を楽しみに期待している。スペックが向上すれば,いずれはコンピュータが人間の棋力を上回るだろう。その時,コンピュータの指し手を解説するのも,定跡を体系化するのも,面白さを提供するのも,提供された面白さを享受するのも,全て人間である。その時に提示される棋士の将棋観や人生観がどのようなものになるのか,今から楽しみにしている。
電王戦に関する文章はたくさん提出されている。棋戦の総論は,電王戦を主題とした書籍や雑誌の特集などで展開されている。棋戦のバックステージ情報は,関係者のソーシャルメディアでも発信されている。棋士およびコンピュータの事情は,棋士や開発者や記者のソーシャルメディアなどで発信されている。
私の主たる所感は,将棋における人間とコンピュータの関係が明確になって良かったというものである。電王戦FINAL終了後に行われた会見では,主催の株式会社ドワンゴの川上会長が,電王戦のテーマは人間とコンピュータが能力を競うとどのようになるかを問うことであり,電王戦FINALはこのテーマにふさわしいものとなった,という趣旨の発言を行った。同感である。
5番勝負で展開された電王戦FINALの結果はの概要は,次のように記述できる。第1局は,将棋の流れを左右する場面になる前の手番において,棋士が意図的に持ち時間を使い,コンピュータの指し手を限定する工夫があった。この工夫によって,棋士は想定した局面に導入することに成功し,優勢を維持してそのまま勝ちに至った。第2局は,棋士が例外(e.g. 詰将棋の打ち歩詰め対策)を除いて指すことがない「角不成」を用い,コンピュータに持ち時間を使わせる奇手が出た。コンピュータはプログラム上「角不成」に対応できずにストップしてしまい,そのままソフト開発者が投了した。第5局は,角交換から棋士が意図的に空間を作ってコンピュータに角を打たせ,その角を攻めて駒得を主張する展開を指向した。コンピュータは棋士の指向通りに角を打ち,ソフト開発者はコンピュータが角を打ったところで作戦負けを認識し,投了した。第5局は,21手49分での終局となったこと,また,電王戦シリーズで初の棋士の勝ち越しとなったことで話題となった。第3局と第4局のコンピュータの2勝は,コンピュータの強さが活きる展開となった将棋だった。
コンピュータの強さは概して,序盤の棋譜記録の多さと終盤の詰みを読み切る速度および正確性にある。人間にとっては,何千何万の棋譜データを記憶することはイージーではないが,スペックが向上した現在のコンピュータにとってはイージーである。また,手が狭い終盤は,コンピュータの計算速度の速さおよび正確性の高さは,人間を優に凌駕する域に達している。加えて,コンピュータには疲労も緊張もない。一方,人間には疲労と緊張は勝敗を左右するものにもなり得る。
そのため,現時点における人間とコンピュータの類比では,中盤の構想が勝敗を分けると言われる。人間がコンピュータに勝つには,序盤は,差がつかないように正確に指すか,定跡から外れてコンピュータの記録にない展開もしくは実践例がない展開に持ち込むことが有効だと言われる。そして,中盤において,コンピュータが計算能力を活用して検索を展開するところを,キャリアで培った大局観を用いて無駄な筋は省略して読み進める。ここで,指し手を限定して読みを進め,終盤までを正確に読んで勝ちに近づける。
コンピュータ将棋の弱点は,ソフトに欠陥があると対応できないことである。コンピュータであることが弱点と表現してもよい。今回の電王戦FINALの規定では,棋士は対局前に対局用コンピュータの提供を受け,対戦する各ソフトの特徴を考察することができた。そのため,棋士は練習段階で弱点を見つけ,そこを攻略するオプションを留保できた。今回の規定では,開発者はソフトのプログラムを修正できないので,発見された弱点はそのまま対局においても露呈した。
第1局,第2局,第5局の棋士の3勝は,棋士がコンピュータの特徴を考察し,趣向を凝らして勝ったと言ってよい将棋である。積極的にコンピュータの弱点を突いたと言ってもよい。弱点を突いたことを以って,「『ハメ手』を指すのは邪道である」とか,「プロらしくない」と評する意見がある。郷田王将は,王道の手を指すことで「格調高い」と言われることがある。そして,その関係から,なんでもかでも格調高いと言われる。先日の王将戦では,睡魔に負けて居眠りしそうな記録係を,対局中に注意した。その際,「格調高く注意」と言われた程である。格調という次元で評すれば,今回の棋士の3勝は格調高くはないかもしれない。しかし,将棋において,相手の特徴を考察して指すことは一般的なことである。相手の棋風(i.e. どのような将棋を選好するか)を調べ,作戦を立てることは普通に行う。勝負にこだわるなら,一層のこと,相手の得意型を外すことを考えるだろう。コンピュータの強さは広く知られている。過去3回の電王戦は,棋士がコンピュータの強さを体感した戦いとなった。コンピュータの強さに正面から挑むのは,人間である棋士の弱点を正面に出して対局することと同義と言える。自分が有利な作戦を採択することは自然である。棋力の向上や,棋理の解明という視座から見れば,相手のことを考えないこともある。久保九段は,棋王と王将の二冠を保持し,対局がタイトスケジュールで続いた際,自分が良い将棋を指すことに集中すれば,将棋は自分との戦いとなり,相手が誰であっても余計なことを考えずに済むという趣旨の発言をしていた。また,羽生四冠は,最新の戦型を内面化する際には,その戦型を得意とする相手に正面から立ち向かう必要があるという趣旨の発言をしていた。そして,正面から立ち向かって負けることは,授業料と思えば納得できる,という趣旨の発言もしていた。これらは,数ある将棋観の一握りである。今回の電王戦は,FINALということで棋士側に結果が求められる側面があった。そのため,勝ちを求めて作戦を立てたことは,容易に納得できる。また,繰り返しになるが,それは,将棋ではごく一般的なことであり,何も奇異ではない。
将棋における人間とコンピュータの関係が明確になって良かったというのは,5局がいずれも,棋士とコンピュータそれぞれの強さを示すものであったということである。棋士が勝ちにこだわるビヘイヴィアは,コンピュータの強さを認めた証拠である。コンピュータの弱点が露呈したが,それを補えば,コンピュータは強い。それぞれの強さと弱さが明確になった点が,電王戦FINALのアウトカムだと私は思う。
4回に渡る電王戦では,盤外の議論も活発だった。棋士に加担する言説として,プロモーションヴィデオ製作者やソフト開発者の失礼を批判するものがあった。これには一理あると思う。礼儀を重んじる棋界にはマッチしない言動は確かにあった。煽動的な動画で棋士とソフト開発者の感情的なやり取りをフィーチャーする向きがあった。極端なシニシズムを展開するソフト開発者もいた。一方,コンピュータに加担する言説として,棋士のコンピュータに対する過小評価を批判するものがあった。これにも一理あると思う。2012年の1番勝負は人間の負け,2013年と2014年の5番勝負はいずれも人間が負け越した。これによって,コンピュータの棋力は評価されることになった。
これらの議論は,将棋の発展に寄与するものだと私は思う。電王戦によって,将棋は広く知られるようになった。Yahoo!ニュースのトピックとして将棋が掲載されることが多くなった。将棋の奥深さが広まった。棋士の人間味も明らかになった。コンピュータ将棋の進化も知られた。この点を,私は評価する。同様のことを,羽生四冠が指摘している。今年3月,文藝春秋の文春ムック「羽生善治闘う頭脳」が発売された。このムックは,インタヴューを筆頭に,羽生四冠の過去の記事や対談を収録している。A5の2段組で文字が優勢にも関わらず,項数は200を超えていた。私が将棋の観るファンになる前の記事が多く掲載されていたので,私は楽しく読んだ。羽生四冠は,将棋が注目されることは,裾野が広がり,将棋が発展するとともに,棋理の解明につながるという趣旨の指摘を展開していた。自身の七冠達成が注目された時期,各種メディアは自身を含む将棋をフィーチャーした。そして,将棋のタイトルが7つあることを始め,棋士という職業があること,棋士の収入が場合によっては1億円を超えること,などが知られるようになった。つまり,将棋の認知度が飛躍的に向上した。その結果,将棋ファンが増え,将棋が発展した。
加えて,コンピュータの発展にも寄与すると思う。極端なシニシズムを展開するソフト開発者の言動を観察した際,パフォーマンスでやっているわけではないと考察できることがあった。研究の世界には,マッドサイエンティスト(mad scientist)という言葉がある。科学を悪用する人の呼称であると同時に,社交性や社会的適応と引き換えに研究の専門性を高めた人の呼称でもある。後者は,研究ばかりしている人と呼んでもいい。この人は,社交性や社会的適応が問題して拗れることはあるが,科学や研究の発展に寄与するブレイクスルーを実現する可能性も比較的高く保持している。私の専門は心理学である。心理学の世界にも,マッドな人はたまにいる。私は,社交性や社会的適応と引き換えに研究の専門性を高めた人へのリガードがある。研究者の仕事は,コンピュータ将棋の場合,ソフトとなって外在化する。人間に対する敵意を伴うかのような情熱は,コンピュータの発展にプラスとなると考えることは,無理な考察ではないだろう。
私は,人間が好きで心理学を専門としていることに加え,将棋が好きなので,電王戦の展開を興味深く見てきた。電王戦は,将棋とコンピュータ開発の両方に利するものが多かったと思う。
今回の電王戦FINALを以ってシリーズはひとまず幕を閉じるが,今後も新しい展開があるらしいので,私はその展開を楽しみに期待している。スペックが向上すれば,いずれはコンピュータが人間の棋力を上回るだろう。その時,コンピュータの指し手を解説するのも,定跡を体系化するのも,面白さを提供するのも,提供された面白さを享受するのも,全て人間である。その時に提示される棋士の将棋観や人生観がどのようなものになるのか,今から楽しみにしている。
2015-04-04
Spin-off from Look
昨日の学食での出来事を記す。主題となる認知と行動は,10秒ほどの間に生起した。
私は,ランチを食べるために学食に出掛けた。いつものように,サラダバーで野菜を食べたいと思う分量だけ取り,いつものように,日替わりメニュがない大学の休業期間中に採択する方法で食べたい主菜と食べたい副菜を選んでトレーに並べ,いつものように,最後にカウンターでライスのSSサイズをオーダーした。
すると,学食のお姉さんが,私に,「髪型,以前の髪型に戻されました?」と言った。始まりは突然だった。
私は驚いて,「え・・・」と声を出した。学生や教職員の中には,学食のお姉さんと親交を深め,世間話をしたり,「お腹が減りましたー。」と投げ掛け「たくさん食べてねー。」と受け取るやり取りを展開したりする人がいるが,私の場合はそのようなことはない。私と学食のお姉さんとのやり取りは,メニュのオーダーと受け渡し,および会計時の金額確認くらいである。私は会計の際,事前にお金をチャージした職員証を用いて支払いを行うので,現金支払いとの類比においては会計時のやり取りは少ない。島根大学に来て1年が経ち,学食のお姉さんの顔と声の感じは,なんとなく覚えている。また,学食のお姉さんが私を覚えていても不思議ではないとも思う。ただ,突然のことなので,私は内心,「おお,学食のお姉さんに話し掛けられた,驚いたな。」と思っていた。
私は,2秒ほどで,「ああ,はい・・・」と続けた。返答に詰まってフリーズすることは,驚きを明示することになる。驚いた時に「驚きました。」と明示することは特異なことではない。しかし,私は,配慮が感じられる応答を展開したいと考えた。
学食のお姉さんは,私の応答を受けて,「やっぱり。前髪上げておられたけど,今日は戻されたんですね。」と言った。自然な会話の流れである。
私は,同じく2秒ほどで,「ええ,そうです・・・」と声を出した。私は内心,「そうなんです。普段は髪を上げません。髪を上げた状態で購入したメガネが普段の髪型にはマッチしないように思えたので,今週1週間は,髪を上げてメガネをかけて過ごし,ルックを考察することにしたんです。でも,『髪型変えたんですね。』とか『髪切ったんですね。』とか『淡野先生どうしたんですか?』とルックに言及されることが多くて,しかも,3つ目の言及は,ルックが珍しいから驚いているという趣旨は伝わってくるんですが,同時に,『乱心ですか?』,『変節したんですか?』と言われているようにも感じました。加えて,今週は年度が変わる週で,年度初めおよび学期初めに張り切っている人のように思われなくもありません。それ自体は悪いことではありませんが,私は,個人的に,年や年度や学期の初めに張り切るビヘイヴィアは苦手です。そんな経緯で,今週限定で髪を上げたメガネルックを採用していたんですが,昨日で早めに切り上げて,今日から普段の髪型に戻しました。」と説明しようかと思った。しかし,この話を伝えるには30秒はかかるように思われた。この時間は,ライスのSSサイズを受け取る際に用いる時間としては長すぎる。私は短い返答をすることを瞬時に決断して発声するに至った。
ここで私は,以上の応答でその場を切り上げ,ライスのSSサイズをトレーに乗せて会計に進むのは,不機嫌な印象を与えなくもないと思った。説明に時間を要する理由から短い返答を選択したが,外在化した応答だけを見れば非常にパッシヴで,面白みは全くない。しかし,あまりに親和的な応答もなんとなく憚られる。それは,親交が深まった場合,次に会った時にどのような顔をすればよいのか迷ってしまうためである。私は,学部生の頃,近鉄奈良駅の駅地下構内にできたStarbucksに通ったことがあった。それは,当時の私には複雑に思えたコーヒーの種類やオーダー方法を,短期で集中的に学びたいと考えたためである。Starbucksのコーヒーを良しとするか否かは別として,著名なチェーン店で習学した内容は一般化可能性が高いだろうと私は考えた。私は,週に3日ほどのペースでStarbucksに通った。通うようになったある日,店員のお兄さんが,私に,「いつもありがとうございます。」と声を掛けてきた。私は驚いた。私は,いつも,エスプレッソショットを追加したダブルをオーダーしていた。サイズはトールサイズだった。お腹弱い系学部生だったので,ミルクはソイミルクをオーダーしていた。そして,ホットでオーダーしていた。オーダーを通して言えば,「ホット・ダブル・トール・ソイ・ラテ(Hot-Double-Tall-Soy-Latte)」となる。私は,店員のお兄さんが,「この人はいつもショットを追加するなあ,いつもトールサイズを選ぶなあ,いつもソイミルクをオーダーするなあ。」というふうに思っていたのだろうかと想像した。私は,お店を訪れる時は,いつも女性と一緒だった。私は,店員のお兄さんが,「この人はいつも女性と一緒に来店するなあ。」というふうに思っていたのだろうかと想像した。その後,Starbucksに行くことが極端に減った。近鉄奈良駅の駅地下構内というロケイションなので,待ち合わせに利用したり,飲み会の後に立ち寄ったりしたが,積極的に訪れることはなくなった。それは,エスプレッソをベースとしたコーヒーについて知りたいことと知るべきことを学び終え,喫茶店におけるドリップコーヒーを勉強し始めたためであるが,店員さんと顔を合わせた時にどのような顔をすればよいか迷ってしまうという展望から行動を抑制していたこともポッシブルな要因である。親しんでもらうのはいい。観察されたビヘイヴィアからあれこれ考えてもらうのもいい。ただ,店員さんの私に対する親しみが明らかになった時,私は,心理的に負担感を感じる。親交が深まった場合,次に会った時にどのような顔をすればよいのか迷ってしまう。人によっては全く気にしないようなことであるが,私には気になることである。私は,店員さんとの交流に際したスクリプトを内面化できていない。抽象度を高めて言えば,要は,私は,人見知りである。因みに,私が通ったStarbucksは,閉店して久しいようである。さらに因むと,私の経験では,エスプレッソのショットを追加したり通常とは異なるミルクをオーダーしたりすると,全国的に,Starbucksの店員さんが話し掛けてくる確率は高くなる。私はよく,「コーヒーは濃い目がお好きですか?」とか,「豆乳ラテを飲むと落ち着きますよね。」といったことを話し掛けられる。
私は,2秒ほどで,「はい,ええ,はい。」と応答を完了し,会計に進んだ。不機嫌に思われるような応答にはしたくはない。一方で,これから交流が深まってどんな顔をすればよいか悩む日日を招くような親和動機が比較的高い応答にもしたくない。つまり,可能な限りニュートラルな応答にしたい。加えて,私の後ろには,ライスをオーダーするために並んでいる学生が何人か確認できる。いろいろ配慮した結果,私の行動選択は以上のようになった。
一連の私の応答は,言葉だけを記述すれば「え・・・,ああ,はい・・・,ええ,そうです・・・,はい,ええ,はい。」であり,その趣はまるで,羽生善治四冠がインタヴューや対談で見せる応答のようである。羽生四冠の応答の特徴は,質問に対して配慮を凝らして応えるところにある。世の中には,頻繁に訊かれる質問が存在する。そして,それに対する決まった回答が存在する。諸諸のweb pageでは,これらを集約して「よくある質問とその回答」とか,英語で「FAQ(frequently asked question)」と表記して記述することがある。羽生四冠は,長きに渡って将棋の第一人者として棋士生活を送っている。羽生四冠は,棋士の中では各種メディアでの発信が比較的多い棋士である。NHKや民放のドキュメンタリやインタヴューや対談に出演したり,ニコニコ生放送における将棋解説などを展開したり,TEDxTokyoでスピーチしたりしている。スポーツや文化やビジネスの第一人者と対談することは珍しくない。その関係から,将棋全般のFAQに回答する機会が多い。回答は概ね決まっている。ただ,羽生四冠は,相手の質問方法に応じて,回答を工夫して提供する。質問方法や聞き手の棋力や年齢や立場などを考慮して言葉を選択しているのだろう。何に言及して何に言及しないでおくか,明瞭にすべきか含みをもたせるべきか,決まり文句に留めることない工夫が,表情や言葉の選び方や話す速度に感じられる。将棋から得た知見の一般化可能性を吟味しているのだろう。そして,回答が「はい」もしくは「いいえ」に限定されるclosed question(閉ざされた質問)の場合,上述した私の応答のような言葉が羽生四冠から聞かれることがある。考察を総合した結果,「ああ」とか「ええ」とか「はい」といった言葉が外在化する。私は,応答の際,あれこれと配慮すると,感動詞の連続になることがあると学んだ。
念の為に書いておく。学食のお姉さん,話し掛けていただくことは一向に構いません。私の人見知りが外在化して,感動詞が連続する応答になった場合はご理解ください。
私は,ランチを食べるために学食に出掛けた。いつものように,サラダバーで野菜を食べたいと思う分量だけ取り,いつものように,日替わりメニュがない大学の休業期間中に採択する方法で食べたい主菜と食べたい副菜を選んでトレーに並べ,いつものように,最後にカウンターでライスのSSサイズをオーダーした。
すると,学食のお姉さんが,私に,「髪型,以前の髪型に戻されました?」と言った。始まりは突然だった。
私は驚いて,「え・・・」と声を出した。学生や教職員の中には,学食のお姉さんと親交を深め,世間話をしたり,「お腹が減りましたー。」と投げ掛け「たくさん食べてねー。」と受け取るやり取りを展開したりする人がいるが,私の場合はそのようなことはない。私と学食のお姉さんとのやり取りは,メニュのオーダーと受け渡し,および会計時の金額確認くらいである。私は会計の際,事前にお金をチャージした職員証を用いて支払いを行うので,現金支払いとの類比においては会計時のやり取りは少ない。島根大学に来て1年が経ち,学食のお姉さんの顔と声の感じは,なんとなく覚えている。また,学食のお姉さんが私を覚えていても不思議ではないとも思う。ただ,突然のことなので,私は内心,「おお,学食のお姉さんに話し掛けられた,驚いたな。」と思っていた。
私は,2秒ほどで,「ああ,はい・・・」と続けた。返答に詰まってフリーズすることは,驚きを明示することになる。驚いた時に「驚きました。」と明示することは特異なことではない。しかし,私は,配慮が感じられる応答を展開したいと考えた。
学食のお姉さんは,私の応答を受けて,「やっぱり。前髪上げておられたけど,今日は戻されたんですね。」と言った。自然な会話の流れである。
私は,同じく2秒ほどで,「ええ,そうです・・・」と声を出した。私は内心,「そうなんです。普段は髪を上げません。髪を上げた状態で購入したメガネが普段の髪型にはマッチしないように思えたので,今週1週間は,髪を上げてメガネをかけて過ごし,ルックを考察することにしたんです。でも,『髪型変えたんですね。』とか『髪切ったんですね。』とか『淡野先生どうしたんですか?』とルックに言及されることが多くて,しかも,3つ目の言及は,ルックが珍しいから驚いているという趣旨は伝わってくるんですが,同時に,『乱心ですか?』,『変節したんですか?』と言われているようにも感じました。加えて,今週は年度が変わる週で,年度初めおよび学期初めに張り切っている人のように思われなくもありません。それ自体は悪いことではありませんが,私は,個人的に,年や年度や学期の初めに張り切るビヘイヴィアは苦手です。そんな経緯で,今週限定で髪を上げたメガネルックを採用していたんですが,昨日で早めに切り上げて,今日から普段の髪型に戻しました。」と説明しようかと思った。しかし,この話を伝えるには30秒はかかるように思われた。この時間は,ライスのSSサイズを受け取る際に用いる時間としては長すぎる。私は短い返答をすることを瞬時に決断して発声するに至った。
ここで私は,以上の応答でその場を切り上げ,ライスのSSサイズをトレーに乗せて会計に進むのは,不機嫌な印象を与えなくもないと思った。説明に時間を要する理由から短い返答を選択したが,外在化した応答だけを見れば非常にパッシヴで,面白みは全くない。しかし,あまりに親和的な応答もなんとなく憚られる。それは,親交が深まった場合,次に会った時にどのような顔をすればよいのか迷ってしまうためである。私は,学部生の頃,近鉄奈良駅の駅地下構内にできたStarbucksに通ったことがあった。それは,当時の私には複雑に思えたコーヒーの種類やオーダー方法を,短期で集中的に学びたいと考えたためである。Starbucksのコーヒーを良しとするか否かは別として,著名なチェーン店で習学した内容は一般化可能性が高いだろうと私は考えた。私は,週に3日ほどのペースでStarbucksに通った。通うようになったある日,店員のお兄さんが,私に,「いつもありがとうございます。」と声を掛けてきた。私は驚いた。私は,いつも,エスプレッソショットを追加したダブルをオーダーしていた。サイズはトールサイズだった。お腹弱い系学部生だったので,ミルクはソイミルクをオーダーしていた。そして,ホットでオーダーしていた。オーダーを通して言えば,「ホット・ダブル・トール・ソイ・ラテ(Hot-Double-Tall-Soy-Latte)」となる。私は,店員のお兄さんが,「この人はいつもショットを追加するなあ,いつもトールサイズを選ぶなあ,いつもソイミルクをオーダーするなあ。」というふうに思っていたのだろうかと想像した。私は,お店を訪れる時は,いつも女性と一緒だった。私は,店員のお兄さんが,「この人はいつも女性と一緒に来店するなあ。」というふうに思っていたのだろうかと想像した。その後,Starbucksに行くことが極端に減った。近鉄奈良駅の駅地下構内というロケイションなので,待ち合わせに利用したり,飲み会の後に立ち寄ったりしたが,積極的に訪れることはなくなった。それは,エスプレッソをベースとしたコーヒーについて知りたいことと知るべきことを学び終え,喫茶店におけるドリップコーヒーを勉強し始めたためであるが,店員さんと顔を合わせた時にどのような顔をすればよいか迷ってしまうという展望から行動を抑制していたこともポッシブルな要因である。親しんでもらうのはいい。観察されたビヘイヴィアからあれこれ考えてもらうのもいい。ただ,店員さんの私に対する親しみが明らかになった時,私は,心理的に負担感を感じる。親交が深まった場合,次に会った時にどのような顔をすればよいのか迷ってしまう。人によっては全く気にしないようなことであるが,私には気になることである。私は,店員さんとの交流に際したスクリプトを内面化できていない。抽象度を高めて言えば,要は,私は,人見知りである。因みに,私が通ったStarbucksは,閉店して久しいようである。さらに因むと,私の経験では,エスプレッソのショットを追加したり通常とは異なるミルクをオーダーしたりすると,全国的に,Starbucksの店員さんが話し掛けてくる確率は高くなる。私はよく,「コーヒーは濃い目がお好きですか?」とか,「豆乳ラテを飲むと落ち着きますよね。」といったことを話し掛けられる。
私は,2秒ほどで,「はい,ええ,はい。」と応答を完了し,会計に進んだ。不機嫌に思われるような応答にはしたくはない。一方で,これから交流が深まってどんな顔をすればよいか悩む日日を招くような親和動機が比較的高い応答にもしたくない。つまり,可能な限りニュートラルな応答にしたい。加えて,私の後ろには,ライスをオーダーするために並んでいる学生が何人か確認できる。いろいろ配慮した結果,私の行動選択は以上のようになった。
一連の私の応答は,言葉だけを記述すれば「え・・・,ああ,はい・・・,ええ,そうです・・・,はい,ええ,はい。」であり,その趣はまるで,羽生善治四冠がインタヴューや対談で見せる応答のようである。羽生四冠の応答の特徴は,質問に対して配慮を凝らして応えるところにある。世の中には,頻繁に訊かれる質問が存在する。そして,それに対する決まった回答が存在する。諸諸のweb pageでは,これらを集約して「よくある質問とその回答」とか,英語で「FAQ(frequently asked question)」と表記して記述することがある。羽生四冠は,長きに渡って将棋の第一人者として棋士生活を送っている。羽生四冠は,棋士の中では各種メディアでの発信が比較的多い棋士である。NHKや民放のドキュメンタリやインタヴューや対談に出演したり,ニコニコ生放送における将棋解説などを展開したり,TEDxTokyoでスピーチしたりしている。スポーツや文化やビジネスの第一人者と対談することは珍しくない。その関係から,将棋全般のFAQに回答する機会が多い。回答は概ね決まっている。ただ,羽生四冠は,相手の質問方法に応じて,回答を工夫して提供する。質問方法や聞き手の棋力や年齢や立場などを考慮して言葉を選択しているのだろう。何に言及して何に言及しないでおくか,明瞭にすべきか含みをもたせるべきか,決まり文句に留めることない工夫が,表情や言葉の選び方や話す速度に感じられる。将棋から得た知見の一般化可能性を吟味しているのだろう。そして,回答が「はい」もしくは「いいえ」に限定されるclosed question(閉ざされた質問)の場合,上述した私の応答のような言葉が羽生四冠から聞かれることがある。考察を総合した結果,「ああ」とか「ええ」とか「はい」といった言葉が外在化する。私は,応答の際,あれこれと配慮すると,感動詞の連続になることがあると学んだ。
念の為に書いておく。学食のお姉さん,話し掛けていただくことは一向に構いません。私の人見知りが外在化して,感動詞が連続する応答になった場合はご理解ください。
2015-04-03
Look
前髪を上げたメガネルックで過ごしていると,このルックを見て「髪型変えたんですね。」とか「髪切ったんですね。」とか「淡野先生どうしたんですか?」と言われた。「髪型変えたんですね。」に対しては,事実なので,「はい,そうです。」と応えることができる。髪を切ったのは,半月ほど前である。「髪切りましたね。」に対しては,少し前のことではあるが,間違ってはいないので,「ええ,そうですね。」と応えることができる。しかし,「淡野先生どうしたんですか?」と言われると,ルックが珍しいから驚いているという趣旨は伝わってくるが,同時に,「乱心ですか?」,「変節したんですか?」と言われているようにも思えて少し困ってしまう。そのため,「え,いや,どうもしていませんよ。」と適当に応えることになる。松江に来てから,大学の正門近くにある美容室髪やでツーブロックにカットするようになった。そして,旅先限定で髪を上げたルックを展開している。それは,いつか来るかもしれない生え際後退時への備えである。来るかもしれないその時が来た時は,ズバッと髪を短く切る予定でいる。いきなりズバッと切って短髪にすると,自分で不協和を起こしかねないので,旅先で髪を上げてアレンジを試している。最近,髪を上げて買い物に出掛けた。その際,新しくメガネを購入した。その後,前髪を上げない普段の髪型でそのメガネをかけたルックにすると,普段の髪型にはマッチしないように思えてきた。そこで,今週1週間は,髪を上げてメガネをかけて過ごし,ルックを考察することにした。「髪型変えたんですね。」と言われた時は,「ええ,今週だけ。」と付言して応えていた。今週は,年度が変わる週である。昨日は,ちょうど,年度初めかつ学期初めに際した教育学部の在学生ガイダンスがあり,人間生活環境教育専攻生を対象としたガイダンスがあった。そして,「淡野先生どうしたんですか?」と言われた。年度初めおよび学期初めに張り切っている人のように思われなくもない。私は,年や年度や学期の初めに張り切るビヘイヴィアは苦手である。別に,それ自体は悪いことではない。「心機一転」とか「気持ちを新たに」とか「節目を利用してケジメを付けて」と言って他律的な変容を利用してリフレッシュしたりアレンジメントしたりすることは有益である。「高校デビュー」とか「2学期デビュー」とか「大学デビュー」という言葉がある。これらは,積極性の外在化を評する言葉と考えることも可能だ。ただ,私は個人的に,年や年度や学期の初めに張り切るビヘイヴィアは苦手である。そんな経緯で,今週限定で髪を上げたメガネルックを採用していたが,昨日で早めに切り上げることにした。
見た目の変化はほとんどないが,体重が59.85kg,体脂肪率が10.9%になった。順調な低減である。昨年末から,Kuala Lumpurのアフタヌーンティや台北の点心や広島の牡蠣や沖縄の琉球料理や宮崎の鶏料理を食べに食べて,体重と体脂肪率がベースラインより上がっていた。体が重く感じられるというデメリットがあった。立ち上がる時,歩く時,軽く駆け出す時など,体が重く感じられた。一方,空腹感を感じにくくなり,集中力の低減率が低下するというメリットもあった。食事のおよそ1時間前になっても,空腹感の影響で集中できないということが減っていた。最近,1日に食べる米の量を減らすことにした。朝食と夕食で食べる仁多米の量を減らして体重と体脂肪率の低減を目指す方略である。分量としては,朝食では2口分,夕食では4口分の米を減らした。昼食の米は,学食では普段から最も小さいサイズであるSSサイズを食べる。学食が閉まっている週末などは,朝競り炉端日本いちなどでオーディナリなご飯量を食べる。学食のSSサイズのご飯と比較すると,日本いち等におけるご飯量は多くなるが,その日は必ず夕食の米の量を減らしていたので,この点はいつもと変わらない。昼食後にチョコレートを筆頭にしたお菓子を食べることも変わらない。この取り組みを始めて長くはないが,体重と体脂肪率が低下して,体の軽さが戻ってきた。その代わり,食事のおよそ1時間前には空腹感の影響で集中力が低下する。私の中で,主観的な体の軽さと空腹感はトレードオフの関係にある。
見た目の変化はほとんどないが,体重が59.85kg,体脂肪率が10.9%になった。順調な低減である。昨年末から,Kuala Lumpurのアフタヌーンティや台北の点心や広島の牡蠣や沖縄の琉球料理や宮崎の鶏料理を食べに食べて,体重と体脂肪率がベースラインより上がっていた。体が重く感じられるというデメリットがあった。立ち上がる時,歩く時,軽く駆け出す時など,体が重く感じられた。一方,空腹感を感じにくくなり,集中力の低減率が低下するというメリットもあった。食事のおよそ1時間前になっても,空腹感の影響で集中できないということが減っていた。最近,1日に食べる米の量を減らすことにした。朝食と夕食で食べる仁多米の量を減らして体重と体脂肪率の低減を目指す方略である。分量としては,朝食では2口分,夕食では4口分の米を減らした。昼食の米は,学食では普段から最も小さいサイズであるSSサイズを食べる。学食が閉まっている週末などは,朝競り炉端日本いちなどでオーディナリなご飯量を食べる。学食のSSサイズのご飯と比較すると,日本いち等におけるご飯量は多くなるが,その日は必ず夕食の米の量を減らしていたので,この点はいつもと変わらない。昼食後にチョコレートを筆頭にしたお菓子を食べることも変わらない。この取り組みを始めて長くはないが,体重と体脂肪率が低下して,体の軽さが戻ってきた。その代わり,食事のおよそ1時間前には空腹感の影響で集中力が低下する。私の中で,主観的な体の軽さと空腹感はトレードオフの関係にある。
2015-03-19
絵本を作る話8
およそ半年に及ぶ絵本作成に関する取り組みを紀要論文にまとめた。論文提出締め切りまで時間があるので,少し寝かせて,再度校正してから提出する予定である。論文の内容は,このブログに書いてきた「絵本を作る話」シリーズをまとめ,加筆修正し,写真を添付し,完成させた。趣旨をブリーフに書けば,授業で絵本を作ったり幼稚園で読み聞かせを行ったりした,というものである。要するに,「こんなことをしました」という報告である。私としては,絵本に関する心理学的研究を展開したかったが,着任初年度ということで諸諸の制約があり,実現しなかった。研究を展開する中で,いくつかアイディアは浮かんだので,今後それらを温めて,心理学的研究にしたいと考えている。
2015-03-18
絵本を作る話7
絵本を作る中で得た技術の伝承に関する知見について書く。一般的に,図書館や図書室の本には,「ブックコートフィルム」や「ブックカバーフィルム」と呼ばれる,薄い透明のカバーが施されている。このフィルムは,本を汚れから守る防汚機能を有する。島根大学教育学部附属幼稚園に絵本を57冊配架した際,その絵本がどのように配されているか見ようと,絵本を所蔵している「えほんのへや」に入った。すると,テーブルの上には,フィルム装着前の絵本とフィルムが並べられていた。私は,「これは何ですか?」と教諭に尋ねた。教諭は,「本のフィルムです。」と応えた。私は,「へえ,こうやってフィルムを装着するんですね。」と言った。すると,教諭は,「そうなんです。」と応えた。そして,次のように続けた。「最初は,幼稚園の教諭みんなで装着してたんです。でも,不慣れで失敗するケースがいくつかありました。見兼ねた◯◯先生が,『私ひとりでやりますよ。』と提案されました。なので,そのまま置いてあります。近く,◯◯先生がひとりで装着されるそうです」。私は,このやり取りから,技術の伝承について考えた。効率を考えると,当該の案件は,当該の案件に秀でた人が行う方が良い。初心者や不慣れな人が参加すれば,手間が増えることになる。ただ,この考えは,期間が短期的な場合にのみ論理的である。期間が長期的な場合,当該の案件は,当該の案件の初心者や不慣れな人も行う方が良い。それは,当該の案件に関する技術を引き継ぐことに繋がるためである。当該の案件に秀でた人が継続的に従事し,ある日突然いなくなれば,困ることの方が多い。その人の存在の大きさを感じることができる点では良いかもしれないが,やはり困る。少しずつでも,不慣れな人を慣れた人に,そして,秀でた人にしていくことが,技術の伝承において重要だと私は思う。誤解のないように付記すると,私は,幼稚園のフィルム装着の良し悪しや伝承に関する価値観を評しているわけではない。
登録:
投稿 (Atom)